天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【12】

真夏の日南線

昭和の時代のカラー写真の思い出、つぎは九州の日南線で、昭和49年8月に訪問しています。蒸機の末期の頃でも、日南線にはC11が牽く貨物列車が運転されいて、二泊三日で集中的に撮りに行きました。九州へは、それまでにも何回か行っていますが、日南線へ行くのは初めてのことでした。九州にあっては、“C11の牽く貨物”ぐらいでは優先順位はうんと低いものでした。
真夏の日南線と来れば、海水浴しかない。夜行列車で宮崎に着き、日南線に乗り換えて、まず大堂津に着いた。油津~大堂津~南郷は、海岸沿いを日南線が走り、多くの撮影地とともに、海水浴場もあった。朝からカンカン照りのなかでC11を撮り、駅に引き上げた。「歓迎 大堂津海水浴場」の看板も右手に見える。家族連れも若者も、みんな列車の利用で、小さな駅は大賑わいだった。

つぎの日は榎原(よわら)駅で下車する。去って行く列車の最後部はキハユニ16 601で、電気式キハ44100の改造、液体式化と同時に、郵便・荷物室付きのキハユニ16に10両が改造された。そのうちキハユニ16 4は荷扱い扉を増設してキハユニ16 601に改番された。後年さらに客室を減らして、荷扱い扉を再増設した。その結果、写真では分からないが、片側に4扉もある珍車中の珍DCとなった。

榎原付近は山間部で、一面の緑が広がっている。日南線はすべて海岸沿いを走っているように見えるが、山越え区間も多い。背後は、この地方の名物の飫肥杉で、約400年前から植林され、成長が早く、木造船の材料としても利用された。宮崎県の県の木にもなっている。

大堂津で、戻りの列車を待つうちに、やって来たのは、キハ10系を先頭にする列車だった。日南線の旅客は、だいぶ前からDC化されていたが、まだ10系が中心で、全開した窓からは、DCの排気熱も加わって、ムンムンの熱気が飛び込んで来た。

この旅行では、車内で会った老人から、かつて宮崎交通が走っていた時代の思い出を聞かせてもらったり、駅長からお薦めの撮影ポイントを教えてもらったりと、人との出会いを感じたものだった。ところが最後、後味が悪かった。青島駅でホームから線路に下りてC11を写していると、駅長が血相を変えて飛んできて大声で激怒された。九州では前の年ぐらいに、筑豊の駅構内で、少年がバッタを追っていて、車両にはねられて死亡するという“バッタ事件”が起こったばかりだった。それまでは、駅構内や機関区での無許可の撮影も黙認されていたが、次第に険悪な空気になり、最後は機関区などの現業機関での撮影はすべて禁止になってしまった。

 

 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【12】」への1件のフィードバック

  1. 2段目の写真で紹介しましたキハユニ16 601ですが、モノクロ写真でサイドを撮っていましたので、載せました。ご覧のように、客用、荷物・郵便用で4扉あります。気動車で4扉車というのは珍しいと思います。

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