天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【16】

ボンネットバスの本場を行く

前記で触れたバス撮影とは、熊本県下に路線網を広げている九州産業交通のボンネットバスの撮影でした。昭和50年代前期は、少数ながらも、全国の路線バスでボンネットバスがまだ走っていました。なかでも“産交”の略称で呼ばれる同社には、天草などの島や山間部に、全部で30台前後のボンネットバスがあって、当時は、日本一のボンネットバスの保有会社でした。一部は熊本市内にも堂々と営業車として出入りしていて、前々記の北熊本駅付近でも、市電を撮っていても、突然、姿を見せて走り去ることが往々にしてありました。当時は、ボンネットバスに熱を上げていて、市電を撮影していて、ボンネットを逃したことを大いに悔やんだものでした。
前記で述べた宮原線の終点、肥後小国の駅前に、九州産業交通の小国営業所があり、ここにもボンネットバスが2、3台いた。そのなかで、注目すべきは、トヨタのボンネットがいたことで、特徴ある前部を見せて車庫の中で休んでいるのを見つけて大喜びした。トヨタのボンネットバスは、移動電源車や電電公社の業務用のバスの製造例はあるが、営業用としては極めて珍しく、あのトヨタ博物館でも1台だけが保存されている。


バスの撮影のため天草へも初めて渡って、島内の産交バスの本渡営業所へ行った。いすゞ製のボンネットバスがウヨウヨしていた。ほかの会社のボンネットと顔つきが少し違うのは、ボディが松本車体と言う、熊本の地場の車体製造所のためである。松本車体は戦後に製造を始め、熊本県内のバス事業者にボディを供給して、産交バスだけではなく、市営バス、熊電バスでも見られた。当時は、他にも地域独自の車体製造メーカーがあって、それを架装したバスを訪ねるのも楽しみだった。そのあと川崎ボディと提携を行ったので、川崎ボディとほぼ同じスタイルになったが、のちに撤退している。
戻る途中も、広島で下車し、呉へ行き、呉市営バスの鍋桟橋バス停近くの警固屋営業所を訪ねている。ここにも、いすゞ製のBXD30が全部で6台あり、なかには写真のような2灯のバスも健在で、音戸大橋を渡って、倉橋島への系統に使われていた。

 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【16】」への9件のフィードバック

  1. 九州最後のボンネットバスという新聞記事が出たのは、私が北九州で高3だった1977年か、浪人中の78年、たぶん後の方だったのではと記憶します。
    この時のニュースの路線が産交熊本駅ー馬見原線で、見たことのない地名が、熊延鉄道の山の中の終点だった砥用よりさらに以遠の、宮崎県境に近い場所と聞いて、何とも行きたいと思ったものでした。
    しかしその夏にバイクで足を負傷した私を、先に大学生になっていた地元の友人が、兄の新車に乗せて、砥用まで連れて行ってくれたことがあり、かなり惜しいニアミスもしています。
    一浪後同志社に入り、1979年冬に途中越えで堅田に連れて行かれて、そこで市街地で狭い交差点を回る江若のボンネットバスを見られて、やっと念願がかない満足をしました。他愛のない出来事ですが、マツモト模型で、自費出版のボンネットバス写真集を買ったり、あの頃の焦燥感のようなボンバス熱がとても懐かしいです。
    産交は熊本のコーチビルダー車が多かったですね。それも後学で知りました。

    • KH生さま
      一昨日は、久しぶりにお元気な顔を見られて、良かったです。熊本の思い出、ありがとうございます。私の記事は、1976年の訪問時ですから、「九州最後のボンネットバス」記事が、1977~8年と言うのは符号しますね。事前に産交バスにハガキで問い合わせると、熊本県下の各所、阿蘇の山の中から、天草の諸島まで、ボンネットが散在していることが分かりました。お書きの、砥用よりもっと遠い宮崎県境にも居たのですね。それにしても、砥用の地名、久しぶりに聞きました。
      マツモト模型で手に入れられた自費出版の写真集、たぶん大阪のカメラマンが造ったものと思います。私の知り合いで、編集制作を担当しました。“日本最初のボンネットバス写真集”と喧伝して、ちょっとした話題になりました。そのカメラマンも、だいぶ前に故人となり、時代の移り変わりを感じます。

  2. バスには関心があまり無いのですが、ボンネットバスと熊本の2語に反応するものがありました。宮松金次郎さんの記録の中に、僅かですがバスを撮ったものがあり、それが熊本市営バスだったのです。天然色ではなく、恐縮ですが、お目に掛けたく存じます。それではバスに詳しいデジ青の皆様、どうぞ鑑定宜しくお願い申し上げます。

    • 宮崎様

      宮松金次郎さんの貴重なバスの写真を見せていただき、ありがとうございます。私は、バスに興味はあるもののの、バスのメーカー系列・形式が複雑で、浅学の限りなのですが、戦後まもなくの国産バスで、ボンネットの造作から、ふそうのバスのように思います。ナンバープレートが無いところから見ると、メーカーで撮られた竣工写真のように見えます。なお、熊本市営バスは平成27年に、新しく設立された熊本都市バスに移管されていますが、ネット上に「熊本市営バス88年の歩み」がアップされています。

      • 総本家青信号特派員 様
        早速に御教示賜り、有難うございました。宮松金次郎さんは、汽車会社勤務の根本茂さんと懇意だったので、汽車会社の記録写真が沢山あります。判定頂いたバス写真も「汽車会社」のメモが付いていました。しかし、汽車会社は、バスも製造していたのですか?。 ちょいと興味を惹かれて、近くに格納されていた、写真を見たところ添付のものがありました。撮影時期は不明ですが、都電6000形を製造していたのと同じ頃のようでした。動力付きのシャーシーを調達して、車体を載せることは、やっていたのかもしれませんね。

        • 宮崎様

          ご返信が遅れてしまい、申し訳ありません。やはり、竣工後のメーカー写真だったのですね。汽車会社の工場内部で製作中のバスシャーシの写真も拝見しました。バスの車体製造は、戦後の復興期に、様々なところで造られていました。地方でも、新潟、小倉、熊本など、地場の製造所が造り始め、いつの間にか、それが本業になったところもありました。

  3. 総本家青信号特派員 様
    再び御教示頂きまして、有難うございました。大昔の自動車、特に欧州では自動車メーカーは下回りのみ販売し、購入者が自分の好みで、上回りを製作させて完成車としたと聞きます。バスは目的が違うが、仕組みは同じでしかも、最近まで(今も?)、この伝統が残っている訳ですね。ところで、宮松金次郎さんは、形式写真を撮影の際に、折々車内の様子も記録しています。このバスもそうでした。鉄道車両と同じく、内部の記録はバスでも貴重かと思料し、貼っておきます。

    • この車内の写真、投稿前にじっくり見たら、自分で投げた質問の回答が写っておりました。汽車会社は、バスを作っていました! 正面窓上、方向幕ハンドルの脇に汽車会社の銘板が、貼ってあります。何でもかんでも、皆様にお尋ねするのでなく、まず自分で調べてみるのも大事ですね。反省致します。

      • 宮崎様

        御礼が遅れてしまいました。車内にズバリ「汽車会社」の銘板があったのですね。さすがに立派そうに見えます。貴重な室内写真、ありがとうございました。私も鉄道・バスとも、車両の外観の記録も大事ですが、乗客という立場を考えると、車内の撮影記録はもっと大事だと思い、機会を見ては撮っています。とくに、人の居ない公式写真よりも、乗客の入り込んだ、普段の写真が好きです。広い鉄道車両ですと、たいして撮影は苦にはなりませんが、狭いバスの車内は、視線が気になり、さすがに気が引けますね。

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