天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 (19) 秋編

加太で写したカラー
ホントによく行ったものです。前稿でも採り上げた「鉄道ファン」別冊の撮影地ガイド本の原典となった、本編の52号に加太の撮影地ガイドが載っていました。その前から憧れの地で、記事で全体を把握して、高校1年の時に初めて行きました。まだ特急「あすか」が走っていた時でした。DRFCに入ってからは、新入生歓迎旅行、打上げ旅行、現地闘争などと称して、メンバーとともに頻繁に行き、会社に入ってからも、蒸機が無くなる直前まで通ったものでした。
ただ狙いは蒸機、山間地の勾配区間とあれば、勢いモノクロ写真となり、カラーでは、わずか昭和47年の秋に訪れた以下の数点を写しただけでした。少し前にあった江若鉄道の廃線跡ウォーキングを終えて、浜大津で飲んでいると、向かいに座っていた、ご近所の無印不良品さんから、「加太の駅を降りて、村田屋へ行く途中の川に蛍が無数にいてなぁ、ホンマにきれいやった。一生忘れられへん」と語ってもらったのが、印象に残っています。秋の日曜日、加太では運動会が行なわれていた。ちょうど、村田屋の向かいにあった加太小学校、多くの地区家族も参加していた。その向こうをDC急行が下り勾配を駆け下りて行った。

DRFCに入った時は、特急「あすか」はもう無くなっていたが、急行「大和」がDF50牽引で走っていて、C58、D51の牽く旅客列車も数本あり、C57も時折、貨物列車の補機に使われていた。集煙装置つきながらも、D51の牽く旅客列車が後年まで残り、末期にはイベント列車でもD51が走っていたのは、加太ならではの魅力だった。その旅客列車のうち、一番の狙い目の列車は、加太を朝の6時27分に出る、京都行きの725列車だった。ちょうど秋から冬にかけての季節、朝陽をバックに勾配を上ってくるD51を撮ることができる。“夜明けの力闘”が、流行の言葉にもなった。これを撮るには、朝一番の出発でも間に合わず、指定旅館の村田屋での宿泊が必然となって来る。逆に夕陽狙いは、大築堤の真横からの補機狙いに執心していた。誰かが撮った「京都新聞」の写真コンクールに、同位置からの写真がトップに入り、全く同じ写真を撮りたいと思ったモノだ。高い築堤ではあるが、背後に山があり、シルエットでカマを抜けるのは、わずかの区間だ。ポイントは、左の一本杉と、本務機の煙の流れ具合。いまなら「夕陽モード」で簡単に夕陽ができあがるが、当時の国産カラーフィルムでは、微妙な赤味の表現が難しかった。再度、加太小学校の運動会。加太から蒸機が消えてから40年以上になるが、一度も訪れたことがない。あらためてストリートビューで確かめると、小学校はまだあった。“亀山市立”とあり、加太が亀山市に編入されていたことも初めて知った。小学校は健在だが、どのぐらいの児童数があるのだろうか。その向かいの村田屋もまだ残っている様子で、40年後の加太を一度は確かめてみたいものだ。

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