能勢電51号 最後の日々

米手作市先輩が、能勢電の記事を投稿されていましたので、触発され投稿します。

昭和56年12月19日、氷雨のような雨の降る日を最後に、能勢電 川西能勢口~川西国鉄前間が廃止されました。

私は、当時、高校三年生。受験シーズンの一ヶ月前でしたが、居ても立っても居られず、親の目を盗んで、51号に別れを告げにいきました。最終日とあって、車内は、ラッシュ時並の大混雑でした。

その二ヶ月前の昭和56年10月23日朝が少し寒く感じられる秋晴れの日の朝。黙々と働く51号を撮りにいきました。通勤時間帯でしたが、人影もまばらでした。今考えると、当時でさえ、何ゆえ残っていたのか不思議なくらいの区間でした。当時は、51号が主に使用されており、ごくたまに61号が走ることがあったようですが、私は、51号しか撮影していません。最終日も51号でした。運転は、朝夕だけ昼間は川西能勢口駅の西の端に留置され、昼寝していました。

51型の背景に写っている大きな農業倉庫とケヤキの大木、グランドは、今では、マンションと阪急百貨店となり、往時の偲ぶのは、線路敷き利用した道路ぐらいでしょうか?

能勢電51号 最後の日々」への4件のフィードバック

  1. デカンショ祭り号様、
    先日はお疲れ様でした。
    また、今日はいい写真をありがとう。
    関先生の絵では雨樋があるように見えたため市電の514型といいましたが、貴兄の写真を見ると張り上げ屋根のため514ではなく、形だけは京福に似たのがあったような気がしました。
    51号と60型とは同じ形なのでしょうか?“5両が50型と60型として登場”と関先生がかかれていますので少し形が違うのでしょうね。
    それにしても当会員はなんでももっていますなぁ!!

  2. でかんしょまつり号様
    高幡の団地から移ったのが中山でしたっけ?以前、デジ青でちょと気になる能勢電車をのっけましたが、よく考えたら川西能勢口は中山から三つ目で、歩いても行ける距離。能勢口はでかんしょさんの庭でしたね。ひたちなか(茨城交通湊線)や能勢電と最近の東西の報告有り難うございます。

    米手作市様
    能勢51型と京都市514型はどういう関係があったのか専門家の発表を待っていますが、何か関係あるのですかね。京都市電に興味を持った頃、500型は大正生まれではなかったかと思いますが、3扉(真中は締め切り)でよたよた走っていましたが、500型の中に全くスタイルの異なった小型の異端車がいることに気づきました。これが514型でした。当会の老人様と総本家様の著・編によるキャンブックス「京都市電が走った街 今昔」に1枚だけ切手くらいの大きさでのっけてもらったのが514型です。印象は薄い514型ですが、私には始めてのせてもらって思い出になりました。

  3. 準特急様、
    全く関係はありませんので誤解のないように。
    関先生の記述に“阪急の旧型の電装品を利用して作った”とあったので、同じように500型の電装品と台車を使って小型ボギー車を作られた514型の境遇が似ているのと、絵で見た感じが似ている等だけの素人的感想を申し上げたまでです。

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