教えて下さい

過去のデジ青等で触れられていたら申し訳ありません。駅名にも疎い私ですが、道内完乗を目指して湧別迄行った昭和57(1982)年5月2日に途中に中湧別-湧別間に四号線という駅がありました。このような駅名は珍しいのですが、開拓時代の道路が近くの線路を跨いでいてつけたのではないかと勝手に推察しています。他には似たような駅名で宗谷本線も和寒-剣淵間にも東六線という駅があったようです。また、北海道のバス停に〇〇宅とか言うのがありました。これらは人口希薄と開拓が関連しているのかもしれませんが、わかりましたら教えてください。簡易停留場なのでしょう。駅名辞典のようなものがあったと思いますが、駅開設日や駅名の由来などが出ていたのではないでしょうか。

また、湧別ー中湧別間は何線だったのでしょうか。交通公社時刻表では湧網線に読めますが、弘済会の道内時刻表では名寄本線に読めます。何れにしましても今はなき路線で中湧別-四号線-湧別の4.9kmの盲腸線です。

四号線駅板 ▼

寂しい行先板と湧別駅のキハ22321 ▼

 

教えて下さい」への9件のフィードバック

  1. 1955年(昭和30年)12月25日開業の四号線仮乗降場ですね。JR北海道発足の1987年4月1日 に駅に昇格して四号線駅となりましたが、1989年の名寄本線の廃線とともに消えました。中湧別-四号線-湧別は名寄本線(支線)です。開拓時に碁盤の目状に建設された道路に付された名にちなむ駅名です。

    • 乙訓の老人の甥様
      早速の解答を有難うございます。鉄道路線図を見ていますと内陸の名寄本線の支線には見えず、湧網線かなと思いました。湧別と網走を結ぶから湧網線と考えるのが普通のような気がしますが、湧網線とは中湧別から網走なのですね。難しいですね。

  2. 湧別-中湧別間は名寄本線の支線で、湧別支線の呼び方もあったようです。
    四号線は仮乗降場で、1955(昭和30)年12月25日に開設されています。
    駅名の由来は開拓期に碁盤の目状に設けた道路名に因むそうです。
    仮乗降場とは懐かしい響きです。全国版の時刻表には記載が無く、ボロボロになった「道内時刻表」で四号線を確認し、この駅があったことを初めて知った次第です。
    それにしても完乗のためとはいえ、わずかな本数しかない路線に乗るのには、さぞご苦労もあったことでしょうね。

  3. 紫の1863様
    早速の解答を有難うございます。由来は何となく当たったような気がします。札幌、旭川などの都市は開拓使の時代に計画されてできたのでしょう。他の小さな町も同様に開拓されていったことが想像されます。急勾配区間の仁山、狩勝、常紋なども信号所で客扱いしていたと思いますがあれは仮乗降場ですか。仁山は最終的に駅に格上げされたやに聞いております。本数の少ないのは悩みの種でしたが、完乗目的のためにバスも利用しました。

  4. 仁山は信号場でしたが、仮乗降場として旅客扱いを行うようになり、JR発足時に駅に昇格しまた。
    狩勝は1907年に給水給炭のための旅客貨物を取扱わない停車場として開設されています。開通当時は信号場というカテゴリーがなかったのですが、1922年に正式に信号場となり、1951年に仮乗降場を併設しています。1966年に新線が開通して廃止されました。
    常紋は鉄道院湧別軽便線の開通に伴い「常紋信号所」として開設されています。この区間は後に改軌、湧別線となり、石北線に編入されました。1922年に「常紋信号場」に改称。1951年から仮乗降場として旅客の取り扱いを開始しましたが、1975年に終了しています。2001年には交換設備の使用を終了し、2017年に完全に廃止されています。

    • 今京都に来ています。いろいろ調べていただいてありがとうございます。鉄道建設時の経緯があるのですね。九州日豊本線の門石信号所もそうでしたが予め車掌さんに降車することを伝えておく必要があったと思います。仮乗降場は熊が出そうな
      撮影地が多かったですね。

  5. 中湧別-湧別間がなぜ名寄本線なのか? 名寄本線・石北本線の歴史が複雑に絡み合って、理解するのに時間がかかりました。
    まず最初に北見-遠軽-中湧別-湧別を結ぶ湧別軽便線、後の湧別線が1916年に開通します。
    次いで名寄東線の興部-中湧別間が1921年3月に開通し、名寄-中湧別が全通した1921年10月に名寄線に改称されます。
    1932年10月、湧別線の遠軽-下湧別が名寄本線に編入され、遠軽-北見は石北本線に編入されます。元は北見と湧別を結んでいた湧別線が遠軽で分断され、別の路線になりました。遠軽から中湧別に着いた列車は、行き止まりの湧別ではなく、名寄本線を興部方面へと向かうことになったのです。
    石北本線の列車が遠軽でスイッチバックするのも、湧別線分断の影響でしょう。
    湧網線は最も遅く1935年に開通していますので、興部・名寄方面への接続を考慮して、湧別ではなく中湧別を選んだのでしょう。湧別は町はずれの港町、中湧別は町の中心だったのではないかと考えます。
    各路線の開通や改軌、改称は大幅に省略しております。

    四号線仮乗車場の近くに湧別小学校、湧別中学校がありますので、児童・生徒の通学の足として設置されたと思います。どんな理由かわかりませんが、中学校は中湧別にありませんので、毎日3キロの道のりを歩かせるのは大変だと判断されたのでしょうか。なお、仮乗車場は中央の認可を待たず、鉄道管理局の判断のみで設置できたようです。

    • 終わりから6行目と2行目に「仮乗車場」とありますが、「仮乗降場」に訂正させていただきます。チェックが不十分でした。謹んでお詫び申し上げます。

    • よくわかりました。いろいろ事情があったようですね。今はこの地区の生徒さんどうしているのでしょうか。よく調べていただいてありがとうございます。とりあえず京都のホテルから御礼申し上げます。

準特急 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください