50年前の大和川検車区

一昨日は奈良の駅名研究家さんが計画された阪堺電軌161形の乗車会に行ってきました。天王寺駅前から浜寺公園までの乗車で、途中我孫子道でトイレ休憩という計画でした。我孫子道では車庫の方に入りそこで下車となりました。降りたあたりで撮影していると同乗していた係員の方から奥まで来てもらっても結構ですよと言われ、車庫内も見学させてもらいました。ここは我孫子道車庫とも言われていますが正式には大和川検車区で、すべての車両が配属されています。私のDRFC現役時代に見学会で来たことがあり、今回2回目の車庫見学となりました。乗車会についてはまた報告していただくとして、昔の見学会を振り返ってみることにしました。↑ 当時主力のモ250形の前での記念撮影です。50年も経っていて、皆さん大分お変わりになっておられるのでそのまま出させてもらいました。

↑ 今回の見学での1枚です。バックの堺トラムがなければ50年前と同じ風景でした。
帰宅して調べてみると見学会があったのは1972年10月20日、南海電鉄時代でちょうど50年前となります。この年の6月にピューゲルからパンタへの変換が終わったと書いてありました。見学会の参加者は7名、どですかでんさんも一緒でした。当時はモ701形ができる前で、旧型車のオンパレード、当時の写真を見ると検車区内には多くの車両が並んでおり100両近く在籍していたようです。主力車両はモ205形でモ161形も全車稼働していました。今回は車庫の奥までは入れませんでしたが、当時は車庫の奥にあるトラバーサーも見せてもらい、車両の入れ替えを見ることができました。あのトラバーサーはまだあるのでしょうか?
↑ トラバーサーで移動中のモ121形、元大阪市電の車両です。
↑ 車庫の裏側のトラバース側からの撮影、びっしりと車両が並んでいます。
車庫見学の後沿線で写真を撮ればよかったのですが、この日は阪神浜田車庫も見学していて時間がなかったためか、残念ながら車庫の中の写真だけで沿線の走行写真はありませんでした。車庫の見学には係の方がついていろいろ案内をしていただいた記憶があります。当時のことですから費用は発生しなかったことでしょう。最近の見学会では何万円もするものがあり隔世の感があります。
↑ モ250形は1976年の上町線、阪堺線のワンマン化に伴い平野線での運用となりましたが、1980年の平野線の廃線に伴いほとんどが廃車となりました。
↑ 車庫の正面側からの撮影この当時7種類の形式が配属されていました。
↑ 正面側からの雰囲気は現在とあまり変わりがありません。
↑ デト11形無蓋の電動貨物で2000年に廃車になり、今回は見かけませんでしたが、現在でも車庫内で保存されているようですね。
↑ 本線を撮った唯一の写真です。満員の乗客を乗せています。
今回は電車を貸し切ったこともありますが、車庫の見学は阪堺電軌さんのご厚意でしていただいたものです。モ161形に乗車し、車庫も見学させてもらって昔の写真を引っ張り出すきっかけにもなりました。奈良の駅名研究家さん、また、お世話になった阪堺電軌の皆様ありがとうございました。

50年前の大和川検車区」への8件のフィードバック

  1. 大津の86様

    デジ青記事のご投稿、ありがとうございます。先日は御参加いただきまして、改めて御礼を申しあげます。

    私も近日中にレポート記事を出す予定でおります。

    さて、車庫見学会は本当に阪堺電気軌道株式会社様のご厚意でした。私は、我孫子道車庫到着後に、貸切料金をお支払いしていたのですが、気付けば列車内に誰も居らず、皆さん車庫見学をなさっていました。
    完全に嬉しい誤算でしたね。

    私は台車に重ね板バネが使われているのを確認し、大学の機械設計で見慣れたイラストと全く同じで感動していました!

    • 車庫見学の間、阪堺電軌の係の方と少しお話しをしました。貸切電車は土日にはよく運行されるそうです。借りるのはマニアよりも、地元自治会や同窓会などが多いとのことでした。普段から地元密着との気持ちでされているので、このような対応がしていただけるのでしょうね。

  2. 大津の86さんによると私も参加したようですが、写真があるか調べてみたのですがありません。1972年の見学会ですのであるはずですが、ありません。ところで記念写真は誰が撮ったのでしょうか。右端は車庫の方だと思いますが、よく見るとそれ以外の6名の方は誰かわかるのですが・・・

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください