消えた常紋信号場を 列車から観察
常紋信号場は、昭和50年には臨時乗降場の機能を終えて、旅客の乗降がなくなり、時刻表から「常紋」の名が消えます。ただ、石北本線から蒸機が消え、貨物を中心に列車の削減が行われてからも、常紋信号場は、スイッチバック式の交換設備を持つ信号場としての機能が残っていました。そして平成23(2011)年に列車交換の設備は停止され閉塞の区切りとしての信号場となりました。そして平成29(2017)年、ついに常紋信号場は廃止され、常紋信号場は名実ともに姿を消しました。それから2年後の2019年2月に、北見から旭川まで特別快速「きたみ」に乗って、運転室前から、その面影を写して来ました。
▲キハ54 503単行の特別快速「きたみ」3582Dは、石北本線の金華を出るといきなりの25‰勾配、エンジンの唸りも高らかに雪原を進む。右に左に何度もカーブすること数分、正面に、常紋信号場の交換設備のあった築堤が見えて来た、信号場時代に造られた大規模なスノーシェッドも見えて来る。
▲本線側にも、雪除けのスノーシェッドがある。ちょうどダブルクロスがあって、信号場の建屋もあった信号場の中心部となる。閉塞信号場の時代も、除雪車の折返し、留置などで、ポイントの一部は生きていたのかもしれない。
▲スノーシェッドを越えると、すぐ常紋トンネルの坑門が待ち構える。坑門は改修されて、コンクリート造りになっていた。今や「常紋」の名を留めるのは、このトンネルだけになった。
▲劣悪な環境下に酷使された作業員が次つぎに亡くなった秘話を持つ常紋トンネルを行く。500m余りとそれ程の長さはないが、全体がカーブしている。トンネルをくぐって生田原側へ行く時は、信号場に伝えると、内部を点灯してもらうが、カーブのため出口が見えず、真の闇に吸い込まれて何の役にも立たない。足元でレールを探りながら恐る恐る抜けて、外へ出た時の明るさが目に染みたものだ。▲▲乗車の3582Dのスタフ、金華と生田原の間に、かつては「常紋(信)」の欄があった。








総本家青信号特派員さま
信号場シリーズを楽しく懐かしみながら拝読しています。いい連載ですね。「常紋」の謂れが常呂と紋別から来ているこを初めて知りました。常紋には青信号誌に投稿した1970年2・3月の初北海道SL撮影の旅では2度訪問していました。初回は同行者K中氏、西村氏、小生の3人で、2度目は西村氏と小生の二人でした。この時の思い出は今になっても尽きることがありません。詳しくは西村氏が度々述べられていますので、その他のことをコメントします。
例によって札幌からの夜行急行「大雪」で遠軽へ、始発の下りで常紋へ、撮影を済ませて夕方の列車で瑠辺蘂へ下り、瑠辺蘂ユースホステルに泊まった際のことです。このユースは民間でありながら夕食にすき焼きがでました。大食漢のK中氏はウハウハ喜んで満面の笑みでした。お肉だけでなく少ないながらも野菜が入るのが有難かったですね。当時の冬の北海道では野菜は貴重品で、ユースでは滅多に出てきませんでした。そこで一週間に一度は札幌に戻り、駅地下や狸小路あたりのレストランでサラダを注文して野菜類を補充していました。脱線いや話を戻すと、翌朝の朝食時にペアレントのおじさんが居ません。おばさんに聞くと「最近皆が”常紋常紋”というのでどんな処か見に行きました」とのことでズッコケた記憶があります。そろそろ常紋人気が出だした頃でしたし、我々もそれを風の便りに聞いて行ったわけでした。522レに乗るべくホームに入り柱の温度計を見るとー15度でしたが、我々は駅への道中「今日は暖かいね」と会話していたのです。前夜に泊まった北浜では猛烈に寒かったので、おそらくー25度くらいだったのでしょう。
あとご紹介の信号場では川奥でキハ58急行とキハ181特急南風を、北豊津ではキハ82おおとりとあと1本になった末期の姿を撮っています。
東庶路はキハ56系やDD51を撮りたかったのですが、馬主来沼を優先したためついに行けずじまいでした。白糠までのバスはありましたが踏み切れませんでした。
中在家は仰るように仲間とよく行きましたね。SL廃止直前に訪問した時には信号場構内への立ち入りは禁止になっていました。その後ローカルにキハ58が入って交換風景を撮りましたが、120に置き換わって交換もなくなり、信号場機能も廃止されてその後施設が撤去されました。もう随分長い間行っていませんね。
ついつい長くなり失礼しました。