山形を旅して(その2)

2日目(11月11日)続き

酒田港線ではDD200を撮っただけに終わりましたが、事前の調査不足のせいと納得しレンタカーで次の地点へ向かうことにしました。酒田の豪商 本間家は最上川水運と北前船による物流で巨万の財を成しますが、その富を酒田の海岸線に広がる砂丘の緑化事業に投じ、酒田の町を砂嵐から守ることが酒田の繁栄につながると何代にもわたって続けるだけではなく、庄内藩、米沢藩の財政を支えた篤志家でした。その本間家が力を注いだ砂丘地帯に広がる広大な黒松林を抜けて国道112号線を南下します。庄内空港を過ぎるとこの地の名刹 善宝寺があります。

かつて鶴岡を起点に海岸の湯野浜温泉まで庄内交通湯野浜線がありました。昭和50年3月に廃止され、既に50年を経過しますが、その中間駅 善宝寺駅跡にモハ3が残されているので見に行くことにしました。

昭和40年8月24日 高校1年の夏休みに友人と東北旅行をした際に鶴岡駅で車窓から撮影。

モハ3は高校1年生の夏休みに友人と東北を夜行列車乗り継ぎで1周した際、上野発秋田行き臨時急行「男鹿」の車内から撮ったのが最初の出会いでした。昭和5年日車東京製で、小さな車体に似合わない大きなパンタグラフが印象的でした。

2度目の出会いは平成12年11月25日のことでした。当時私は群馬県高崎に単身赴任中でしたが、酒田と縁の深かったKo氏の呼びかけで関東在住のOBたちが酒田に集まり、銀山温泉や羽黒山を巡った際にKo氏の案内で善宝寺駅跡を訪れ、保存されているモハ3に再会しました。

平成12年11月25日 元善宝寺駅舎。善宝寺鉄道記念館として残されていた。

善宝寺は海の守護神 龍神を祀る古刹で、その門前にあった駅は龍神信仰にちなんだ竜宮城を想定したユニークな駅舎でした。

モハ3  プラットホーム側には雨除け、雪除けの屋根が設けられていた。

この再会からすでに25年を経過していますので、残っていても相当傷んでいるだろうとは思っていましたが、余りの変わりように啞然としました。

令和7年11月11日 同じ場所のモハ3

まず、鉄道記念館となっていた旧駅舎が影も形も無く更地と化していて、モハ3も雨ざらし状態でした。車体は見るも無残な状態で、屋根の一部は抜けてパンタもめり込んだ状態です。半鋼車体ですから元々濃いピンク色だった車体は錆色と化し、哀れな姿でした。昭和5年製ですから御年95歳なのですが、こんな状態でいつまでみじめな姿を晒させるのかと悲しくなりました。

25年前

現在

善宝寺駅は貨物ホームも有する交換駅で、対向ホーム上には木造の上屋や待合室があるのですが、それらは健在でした。

「善寶寺鉄道記念公園」のプレートが空々しい

旧駅舎の前には噴水もある記念公園だったようですが、廃墟と化したこの状態をどうするのでしょうか。旧駅舎を記念館に改装した際には善宝寺さんも深く関わったようですし、元々庄内交通の施設や資産であり、自治体も敢えて手を出さないのでしょう。

サイドビュー。昭和40年の出会いから60年が経過し、余りの変わりように愕然。

モハ3の様子にショックを受け、善宝寺境内に建っている「荘内電鐵開通記念碑」を探すのを忘れて、善宝寺をあとに鶴岡に向かいました。

3日目(11月12日)

鶴岡市内の観光を済ませて鶴岡駅前で1泊し、3日目は月山の麓を越えて寒河江に向かいました。行く先々に「クマ出没注意」の表示が目立ちました。このルートは庄内と村山をつなぐ重要路で、月山を越える「六十里越え」と呼ばれる難路です。その街道途中には旅人に宿を提供した古民家も残されています。また鶴岡市出身の作家 藤沢周平氏の多くの作品には、庄内藩をモデルにした「海坂藩」が登場しますが、その中に六十里越えの描写が出てきます。このルートを歩いて越えるのは相当厳しかったことだろうと、快適な山越え道路を走りながら実感しました。

酒田や鶴岡では断続的にみぞれ交じりの雨に降られましたが、山越えの道は晩秋から冬を迎えていました。遠くに見える月山も雪化粧でした。

六十里越えの峠道から望む月山

田麦俣集落に残る多層住宅(山形県重要文化財)

白川郷のように何棟も残っているわけではありませんが、1軒は民宿も兼ねておられました。雪囲いを済ませて、しっかり冬支度が済んでいました。

六十里越えを終えるあたりが西川町で、今度は山形交通三山線の沿線になります。三山線はその名の通り出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)という山岳信仰の地に向かう鉄道として敷設され、昭和49年11月16日に運転を終えています。もう51年も前のことです。その三山線を走っていたモハ103が西川町海舟(かいしゅう)にある設楽酒造に保存されているので見学に向かいました。初対面です。

令和7年11月12日 設楽酒造に保存されている山形交通三山線 モハ103

パイプの囲いは雪囲いのための骨組み

設楽酒造さんは酒造りの歴史と三山線の歴史を伝えるため酒蔵の一部を「月山の酒蔵資料館」として展示、公開されています。

資料館内の三山線コーナー

お話を聞くと、モハ103(大正15年 日車製の木造単車)も寄る年波には勝てず、やはり屋根から傷みはじめていたそうで、一民間企業の酒造会社が修復・保存を続けることが難しい状況だったそうです。そんな状況を憂えた地元に保存会が結成され、クラウドファンディングで修理・保存の費用を募集したところ、目標額850万円を大幅に上回る1523万円が集まったそうです。そこで木製の屋根の骨組みから作り直し、内装、外装を整え、見事に修復が出来たとのことでした。電車のそばには寄付者の名前を記した立派な表示板が誇らしげに建てられていました。

寄付者名の表示板

現在、電車の周囲を囲むパイプ足場が組まれているのは、今年の春に雪囲いを外した際に撤去すべき骨組みなのですが、また秋になると組み立てねばならず、経費節減のためにバラさずにそのままにしてあるとのことでした。きれいな車体の写真を撮りたいとは思いましたが、こうして100歳になろうとするモハ103を大切に守って頂いているご苦労を思えば、贅沢を言えないと反省しました。もう少し訪問が遅ければ、先の田麦俣の民家のように車体も拝めなかったのですから。

それにしても、前日見たモハ3と山を越えて初めて出会ったモハ103の余りの違いに驚かされました。何が2両の電車の運命をこんなに変えたのか、複雑な想いは今もモヤモヤしています。

このあと、三山線の起点であったJR左沢線羽前高松駅に向かいました。

令和7年11月12日 左沢線羽前高松駅 出羽三山の霊場をイメージしたような造り

1面1線の無人駅。左手の駐車場あたりが三山線の乗り場だった。

廃止から半世紀を経ており、三山線の面影は見当たりませんでした。  (つづく)

山形を旅して(その2)」への7件のフィードバック

  1. 三話とも全部読ませて頂きました。
    私の山形の旅は学生時代に行けてなく、2012年秋に人生がひっくり返るような出来事があり、その時のショックから逃亡するように、伊丹から夕方乗れる飛行機なら何でもいいやと、偶然取れた山形行きに飛び乗って、置賜地方と最上川水系、最上川の水運跡が見たくて、翌朝に山形市の歴史博物館。続いて左沢線で寒河江。2日目最後は兵庫県立美術館で見た金山平三の大石田の最上川が行ってみたくて歩いて行きました。

    そして尾花沢に泊まり翌日銀山温泉を歩いて紅葉の中で、傷んだ心と無聊を慰めました。
    ところで庄内と湯野浜線の跡はまだ未踏でずっと惹かれています。
    お見せする冊子は、大学の部室に置かれて、80年頃に整理の対象で捨てられる所を下宿に持ち帰り、いつかは行ってやろうと思ったまま年月が過ぎました。
    最近善宝寺駅跡の雑草が刈られて、埋もれていた電車の姿が見られるようになり、ネットの情報で現状は知っています。以前の鉄道資料館だった時より有名になったくらいです。

    現状はショッキングですが、もしかしたら、良い方に向かう淡い期待も出ています。
    東北地方の人口流失と近年はクマの被害と、東北を巡る話題は大変厳しく、こういった鉄道趣味にあーだこーだ傾き過ぎない記事を読むと、いつもほっとした気分にさせてもらっております。

    • 廃止は団塊ジュニアが生まれる頃。
      廃止目前でもこんなに車内に客と学生が溢れておりました。

    • K.H.生様 人生がひっくり返るような辛い出来事を思い出させてしまったようですネ。私はネット情報に疎いため、善宝寺の近況を全く知らずに訪ねて衝撃を受けました。愛読している藤沢周平さんの記念館訪問も目的の一つでしたが、鶴岡市立の落ち着いた雰囲気の記念館で、藤沢作品の背景、風土がよく理解できました。周平さんの書斎も再現されていて、そこには湯野浜線の写真が飾られていて思わず頬がゆるみました。モハ3の行く末は気になりますが、人にはそれぞれの人生があるように、電車の一生にも運不運があるということにして、静かに見守ることにします。コメントありがとうございました。

  2. 庄内地方は、東京から秋田・青森よりも遠いな、と感じます。関西起点では、やはり空の旅ですね。
    庄内交通鶴岡駅での昭和40年の写真、「温泉」の看板・サイン形式が当時のローカル駅を感じさせるものです。
    湯野浜線は、廃止の1ヶ月前に訪れました。下車したのは終点の湯野浜温泉だけですが、鉄道目的と思われる人やカメラを向ける人は殆んど見かけなかったように記憶しています。鶴岡から西に向かい、北へ、そしてまた西へ、と平坦地を選んだ路線。善宝寺を過ぎて右手に日本海が見えると終点湯野浜温泉到着。海はすぐ近くでした。
    この旅で初めて寝台車を利用。往路はブルトレ化以前の急行「天の川」で鶴岡へ。その日の帰路は秋田から急行「津軽1号」、1日滞在しただけの駆け足旅でした。

    • 高田幸男様 ご無沙汰しております。お元気ですか。コメントありがとうございました。湯野浜線に乗られていたのですね。当時、東北地方には数多くの私鉄があったのですが、蒸機を追いかけるのがメインで私鉄巡りを怠っていたことを今になって悔やんでいます。急行「天の川」とは懐かしいですね。寝台車はめったに利用しませんでしたが、乗るなら一番安い上段でした。狭くて着替えるのも大変でしたが、荷棚が枕元にあって、大きなリュックを載せるには好都合でした。寝台車の旅は非日常の世界で思い出が尽きません。

  3. 新旧対比は、高齢者に恰好のテーマで、私も過去に訪れた路線や駅へ行って、現況との対比をライフワークとしていますが、保存車輌の新旧対比とは思いも付きませんでした。車両保存が盛んになったのは、蒸機の廃止が進んだ昭和50年前後で、ちょうど地方私鉄の廃止とも符合します。それからもう50年以上が経過しますから、もう立派な新旧対比のテーマなのですね。目に鱗でした。

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