「また南海、デニ502」に寄せて


 水間鉄道モハ365 (45-5-24) 貝塚
高野山電気鉄道デニ501→南海電気鉄道デニ501→同モハ569→水間鉄道モハ365/元荷物室側は非貫通のままである。

昨年11月ズームカーの試験車「モハ1」が紹介されたので、南海は2度目でしかも再度高野線である。恐らく関 三平さんのご実家が南海高野線沿線で、特に思い入れがあるのではなかろうか。

今回の解説を読まれて「あれ?」と思われた方がおられると思う。「南海規格の車両の増備が進むと、デ101型8輌は本来の山岳区間専用に戻り、デニ2輌だけが直通荷物電車として難波に出入りを続ける。」ここまではその通りであるが、問題はその次の部分「501号は26年に火災にあい、別形式となるので、私が見たのは2つ目玉最後の1輌の502となる。」と記されているが、昭和26年に火災に遭ったのは502号で、関さんが見られたのは501号であると思われるが、火災前の502号だった可能性もあり、私はこちらを支持したい。

南海の電車は「難解だ」と言われる程複雑で私自身さっぱりわからない部分が多いが、今回の元高野山電気鉄道の電車はデニ501形2両とデ101形8両の10両のみで極めてシンプルである。

高野山電気鉄道は、高野線の高野下~極楽橋間とケーブル区間の極楽橋~高野山間を営業していた会社で、大正14年3月設立、昭和3年6月高野下~神谷(現在の紀伊神谷)を開業、同4年神谷~極楽橋間開業、同5年6月極楽橋~高野山間のケーブル区間を開業して、難波と高野山が結ばれた。当初、架線電圧1500Ⅴであったが、南海と直通運転を実施するため600Ⅴに降圧した。戦時中の私鉄統合により、南海鉄道と関西急行が合併して近畿日本鉄道となったが、高野山電気鉄道は統合されなかった。昭和22年3月社名を南海電気鉄道に変更して、同年6月に近畿日本鉄道から旧南海鉄道の路線を譲り受けた。

開業時にデニ501形2両とデ101形8両が日本車輌で新製された。車体は全鋼製、両運で、デニは荷物室側非貫通、デは両側とも貫通扉が設置され、50‰の急勾配、急カーブが存在する山岳路線のため、電力回生制動を持ち、ヘッドライトはイラストの通り屋根上に2個設置された。
昭和24年、デ101形はモハ561形に改番されモハ561~568となった。昭和26年にデニ502が紀見トンネル内で焼失したが、昭和28年デワ2001として復旧した。
戦後は
モハ1251形の増備により難波までの直通運転は中止となり、元の高野下~極楽橋間の区間運転用となった。

昭和38年から39年にかけて更新修繕が実施され、制御器の交換の結果、回生制動が使用不能となったため平坦線用となり住吉東~汐見橋間で使用された。この時デニ501は荷物室を撤去してモハ561形モハ569に改番されたが、元荷物室側は非貫通のままであった。

昭和43年から44年に廃車になったが、モ562とデニ501改造のモ569は水間鉄道に譲渡され、モハ364、365になった。

モ561+モ562+モ563の3連

 住吉東~汐見橋間で使用 / (42-5-28) 住吉東

水間鉄道モハ364

 (45-5-24) 貝塚

高野山電気鉄道デ102→南海電気鉄道デ102→同モハ562→水間鉄道モハ364


モハ364+モハ365/ (45-5-24)  水間~三ヶ山口

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