南海戦前の冷房電車

南海鉄道戦前の冷房電車に関しては、鉄道史料55号に西 敏夫/小野田 滋両氏により詳述されている。これから要約すれば、1936年6月12日申請、7月11日設計変更認可及び車両定規突破により特別設計許可、7月21日竣功届。クハ2802の床下にガス圧縮機等一式を2基搭載、屋根上の冷却機から冷房をするもので、モハ2002との連結だが、冷房はクハのみ、モハはファンデリアとあって、当然ながら乗客は皆クハに集中したそうな。7月18日~9月10日まで、定期検査で2日、モーター冷房故障で2、3回冷房を中止した以外無事乗り切ったが、温度は予定通り下がったものの、湿気は十分取リ切れなかtっとのことである。

翌1937年にはMTユニットで冷房するように改良し、屋根上に何とも雄大?なダクト、連結面は専用幌を設置している。前年の湿気除去不足に換気回数を1時間13回から25回に増加させ、空気吹き出し口も増加させている。冷房主機はやはりクハ(和歌山方)に搭載し、モハ(難波方)は屋根上風道によりクハから冷気を供給。2両一組でモハ2001~2004/クハ2801~2804の計8両で、7月1日から冷房使用開始した由だが、この年だけに終わったのは、7月7日日華事変(日中戦争)ガぼっ発し、戦時体制が強化されたからである。

下図は上が1936年のクハ2802改造図、下が1937年モハ+クハのユニット図(いずれも鉄道史料55号より転載)

なお上図のクハは32.52トンから35トンに、下図ではモハが45.72トンが46トンに、クハは32.52トンが45.72トンというヘビーウエイトになった由。

南海戦前の冷房電車」への3件のフィードバック

  1. さすが須磨の大老様、ご教示ありがとうございます。
    たしかにダクトに傾斜があり、連結部分を中心にして前後へ冷気を送るのが図面でよくわかります。とすれば画に疑問がわきます。冷房機は連結面にあるので固定編成になるでしょう。であれば、画にある面は固定連結側のはずで、ここに機関車をつなぐのはおかしいのではないでしょうか?画が間違っているのか、それともこんな編成でも走っていたのか、まさにミステリーな電車です。

  2. 関センセの絵は戦前ではなく、敗戦後のうらぶれた姿の再現です。かつてはM+Tc編成であったとしても、蒸機に牽引されているぐらいですから、屋根のダクトも撤去に至らず、編成はバラされて、ともかく何でもいいからつないでいたのでしょう。南海は元来が蒸気鉄道でしたが、戦時中に石原産業が日車に発注、敗戦後の1945年12月完成した1Cテンダー機6両(製番#1266~1271)が、近畿日本鉄道(に無理やり合併されていた)時代の南海線に助っ人に入ったのが有名です。内2両が1949年汽車会社で1C2タンク機に改装され、C13として片上鉄道(→藤田興業→同和鉱業)で活躍したのも諸兄ご存知の通り。

  3. なるほど、そのとおりでした。たしかに戦後の混乱期、電化区間にもかかわらず蒸機が引いていたぐらいですから車両の向きなど考えていなかったのは疑いありません。愚問にお答え下さってありがとうございました。片上のC13は備前片上で見たことがあります。

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