“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈2〉

その後の女紅場

女性への教育・教養の場として、明治5年、京都・河原町丸太町東入るに設けられ女紅場で、八重は女子教育に携わるが、キリスト教徒の新島襄と婚約したことにより、明治8年に女紅場を解雇されてしまう(次回の大河でこのシーンが紹介されるようだ)。

女紅場は何回かの改称ののち、明治28年に、京都府立第一高等女学校となり、明治33年には、寺町通荒神口下ルの新学舎に移転する。新島旧邸からは200メートルほど北になる。学舎は新築されたが、門は女紅場のから移築された。戦後の学制改革により、昭和23年には京都府立鴨沂高校となる。

121119_080のコピー現在の鴨沂高校。九条家屋敷の門が、女紅場でも使われ、現在も同高校の正門として寺町通に面して建つ。門は、三代に渡る百数十年の歴史がある。背後は、最近、取り壊しで話題になっている、昭和初期建築の校舎。和風の千鳥破風の屋根が特徴。

京都市電とのこじつけ、となると、鴨沂高校の前の寺町通には、京都電気鉄道の出町線が走っていた。寺町丸太町~出町間が、明治34年に開業するが、平行して市営河原町線が敷設されることになり、大正13年に廃止される。

営業期間が、23年間だっただけに、残された写真は少ない。知られているのは寺町今出川下ルで撮影と言われている、右書きで「でまちばしゆき」と行き先が掲げられた写真、それに、京his2_20_01極小学校の門前を行く写真、これぐらいしかなかったと思っていた。ところが、ネットで検索していると、上京区役所のホームページで右のような写真を見つけた。たいへん粗い画像で、出典も不明だが、「寺町通荒神口付近を行く電車」とあり、左側の土手は、ちょうど現在の鴨沂高校前付近と同じだ。

これは、まったく余談ながら、この鴨沂高校に私は通学する予定をしていた。ところが、ひょんなことから岩倉の高校へ行くことになり、それは幻となった。もし、そのまま鴨沂高校へ行っていたら、私の趣味人生は、どう変わったのかと思うことがある。

趣味と言えば、戦後まもなくの時代、鴨沂高校に交通研究会というクラブができた。この創設に携わったのが、乙訓老人のお兄さんと聞いている。ほかにも交通研究会は、著名な鉄道ファンを輩出した名門クラブだった。鴨沂高校は、沢田研二の出身高校として名を馳せたが、いまは、失礼ながら、特徴のない、地味な高校になってしまった感がある。鴨沂に入り損ねた男として、複雑な思いでいる。

“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈2〉」への6件のフィードバック

  1. 特派員殿
    本シリーズも大変楽しみにしております。「鴨沂」高校 京都人にはなじみの名前ですが 多分「おうき」とは読めないでしょうね。それから京電出町線ですが 寺町今出川を下がったところのひと辻分の道路幅が広いのは電車が走っていた痕跡だと聞いた覚えがありますが 不確かです。

  2. 寺町今出川下るの今も広い箇所は行き違いのためであった言われています。その写真が知られており、複線から単線に至ることが分かります。因みに出町柳終点はループであったそうで、この写真も有名です。現在の出町橋西端の広場がそうです。
    鴨き高校交通研究部の初代部長は老人の実兄(9歳年長)でした。部員として後のDRFC羽村宏さんが所属していました。この研究会は京一中の物象班の後身で、顧問に鉄道友の会京都支部結成に尽力された酒井先生(渾名はバズ)がいらっしゃいました。研究部部員は鉄道趣味者だけでなく、交通機関に関わるものならなんでもOK、私の兄は戦中は軍用飛行機、軍艦が趣味の対象でしたが、戦後それらはすべて駄目となり、一時鉄道模型に手を出しましたが、研究部所属1年間(高3に付卒業)は専ら電動自動車作りに専念していました。
    DRFC結成2年目、「酒井ですねん、お兄さんの事知ってます、羽村さんの事も」と言って挨拶を例会で受けました。「バズさんの弟さんか?」「そうでんねん、同好会に入れてやってください」となりました。京都人の癖に大阪弁を操る人でした。歳は2年上、学年は1958年度、古い名簿には掲載されていたが、僅かの期間で、最近の名簿には名がないが、マイテ運転の後に道端であった。以来年賀状交換があったが、10年ばかり前に「よめはんと一緒の病でもうじきアウトですわ」と言ってきました。電話したら「胃がん」でした。T機械と言っており、大阪府の工業高校の教師をしていると言っていたが、京電研究家であったのは西洞院仏光寺下るが実家であったからだろう。

  3. 西村さま
    いつもコメント、ありがとうございます。
    鉄道の撮影や車輌研究に特化した記事が、本来の掲示板のテーマだとは思うのですが、一般的な教養記事に、鉄道との関わりを付加したような記事も、息抜きとしては許されるかなと思って載せています。
    地名・駅名・校名などの読みは、知っているものにとっては当たり前でしょうが、配慮が必要と考えます。過日も、“しまかぜ”ツアーの撮影会で、宮川鉄橋へ行く際、最寄り駅の小俣を「おまた」とばかり思い込み、皆さんに連呼して案内していました。着いて駅名標を見ると、「おばた」と表記されており、自分の無知を恥じ入った次第です。
    寺町今出川下る付近のみが道路幅が広いのは、寺町線が単線で、ここで交換を行っていた跡と聞いています。もちろん、今出川通はごく狭い道幅の時代です。ところが、単線とばっかり思っていた出町線の常識を覆す写真が見つかりました。それはまた次回に紹介します。

  4. 乙訓の老人さま
    コメント、ありがとうございます。鴨沂高校の交通研究部のこと、羽村さんのことを、うっかり忘れていました。失礼しました。
    羽村さんは、私の在部中に亡くなられており、直接お会いすることは叶いませんでしたが、「青信号」に書かれた手書きの京都市電の系統図が忘れられません。「青信号」の部数分、一枚ずつ、全系統をカラーインクで区別しながら着色された、精緻な大判地図でした。しかも極めて細かいラインの表現にも、一分の乱れもなく、ビシッと書かれてあり、気の遠くなるような作業をされていました。DRFCには、なんと凄い方がおられると思ったものでした。
    また、同研究部には、鉄道友の会京都支部の事務局長をされた、故大西卓さんもおられましたね。実家の2軒となりのオヤッサンが、鴨沂で大西さんと知り合いで、大西さんの高校時代のことを聞かせてもらったことがあります。

  5. 総本家青信号特派員様
    今回はまた懐かしい鴨沂の名前が出てきまして、鉄道に関係ない私事ですが、ついコメントさせて頂きました。私は(その1)で書きましたように、6歳までこのあたりに住んでいて、6歳の春に府立女学校の同窓会である京都鴨沂会が運営していた鴨沂幼稚園に入園しました。ところが6月に大津に引越しして、私の幼稚園生活はわずか2ヶ月で終わってしまい、大津では幼稚園に行くことなく、幼稚園中退という負い目を感じたまま過ごしてきました。
    学生時代は寺町通りを少し上がって御所に入り、適当に御所の中を通って通学していましたが、時折は寺町通りをそのまま今出川まで歩いて通学することもあったので、今出川通り下がったところの道幅の広くなっているところも良く覚えています。片側1車線のあの狭い通りを、よく電車が走っていたものだと思いながら、学生時代を懐かしく思い出しました。次回も楽しみにしています。

  6. 大津の86さま
    はい、書き漏らしましたが、私もその鴨沂幼稚園の出身なんです。高校の入学は果たせませんでしたが、幼稚園だけはしっかり卒園しました。
    この“鴨沂”の由来、86さんもお書きのように、前身の府立女学校の同窓会の名前に由来するのですね。高校は公立、幼稚園は私立でありながら、同じ敷地に同居していました。入園児数の減少でだいぶ前に廃園になっています。これで、私の場合は、幼稚園、小学校、中学校がすべて廃校(園)になりました。

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