“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈3〉

新島旧邸とその周辺

前回紹介の鴨沂高校から、寺町通を200メートルほど南へ行くと新島旧邸がある。現在の建物は、新島襄と八重が住んだ私邸であるが、同時に同志社創設の地でもある。

明治8年11月29日、「同志社英学校」の標札を掲げ、開校の祈祷が、新島と8名の生徒によって行われた。校舎は、華族である高松保美の自邸の半分を借り受けた。もともと、ここには、御所の消防を担当した淀藩の中井主水という人物の屋敷があり、そのため火の見櫓があったと言う。その後、高松保美が住むが、遷都で東京へ移り、屋敷には誰も住んでいなかった。大河ドラマでは、蜘蛛の巣の張った荒れ放題の屋敷を新島襄が下見する場面も描かれていた。屋敷は903坪もあり、現在で言うと、隣の同志社新島会館、さらにその南隣の洛陽教会も含む区域で、のちに全域が同志社の所有となった。

しかし、翌明治9年9月に、校舎は、現在の今出川キャンパスのある薩摩藩屋敷跡へ移転してしまう。したがって、この地で、授業が行われたのは、わずか10ヵ月に過ぎない。明治11年に、コロニアルスタイルの擬洋風建築の現在の建物ができ、襄と八重の住む私邸となった。

明治22年に新島襄は永眠するが、八重は、昭和6年に永眠するまで、一人で住んでいた。大河ドラマの主人公が、私の実家から、数百メートル先で、昭和の時代まで生き続けていたとは、不思議な思いにとらわれる。

IMGsysyさて京都市電との関わり、と言うことで、いろいろ資料を漁っていると、またまた、自分にとっては、初めての写真を見つけた。

「京都市町名変遷史」第一巻に載っていた写真で、出典は不明である。電車の背後の森が、現在の新島旧邸、中央は、同じ敷地にあった洛陽協会である。電車は、前回にも記した京都電鉄出町線であり、撮影時期は、明治34年の開業から、大正13年の廃止までとなる。

が、写真をよく見ると、複線になっている。私は、出町線は単線とばかり思っていただけに、全く意外であった。 乙訓老人にも聞いてみたが、寺町通の拡幅と同時期ではないかとの示唆をいただいた。前述の撮影期間のなかで、大正に入ってからの撮影と思われる。なお、手前の洛陽教会は、同志社の敷地だったが、襄の死後に土地が売却され、明治26年に写真の教会が建てられた。

IMG_0002sy古写真と同位置からの洛陽教会付近(昭和62年)。教会は、この撮影後、取り壊され、現在は別の教会建築が建っている。

以下は、またまた余談ながら、鴨沂高校と新島旧邸の間、約200メートルには、実に興味深い町並みがあった。 北側から順に、同志社大学の女子寮・松蔭寮、法務大臣まで務めた京都一区選出の国会議員の私邸、ポルノ映画専門の文化会館、 この3軒が並んでいたのである。

日本広しと言えども、女子寮、国会議員宅、ポルノ映画館が並んでいるのは、おそらくここだけだろう。 文化会館という大仰な名前の映画館は、昭和20年代、街々によくあった映画館で、テレビのなかった時代、私もよくチャンバラ映画を見に行ったものだが、いつの間にかポルノ専門になってしまった。現在では、女子寮のみ健在で、国会議員宅は高級マンションに、ポルノ映画館は京都市歴史資料館に姿を変えている。

“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈3〉」への2件のフィードバック

  1. 京電が開業時どれだけ複線区間があったのか、これは彼の大西顧問であっても解明できていなかったように思います。あるとき、明治の市内地図を持ち出し、「線の幅が太い所が複線区間らしい」とおっしゃたことがあった。それがどこだったか全く記憶にない。京電は自費で土地買収を行い複線区間建設をすすめたようだ。その一つが木屋町通りで、これには高瀬川運輸が下火となり、船着き場(荷卸し場)が転用できることで、それを買収出来たので可能となったそうだ。苦労したのは木屋町二条から丸太町通りに至るルートだったそうで、現在寺町二条の角に立って南北の幅を比較すればよくわかる。その寺町でも丸太町以北は禁裏にかかわる地である故、いかなる事で複線敷きが確保できたのか、それとも建設時から確保できていたのか、興味がそそられることである。一つヒントがあるように思える。今、梨木神社境内でマンション建設計画で話題になっているようだ。この東西の幅狭い敷地、境内の北は民有地となっているが、神社南北の敷地はその昔、つまり明治維新後の所有者は誰だったのであろうか。食い詰めた華族がいち早く処分し、誰の手にわたっか、これが解明できれば総本家さんの疑問も解消するだろう。
    文化会館には小中学校の時、映画鑑賞で歩いて行きました。帰路は自由解散で、下鴨までいろんなルートで帰宅しました。現在では学校行事で出先解散など考えられないことでしょう。DRFC時代、生協で文化会館入場券取り扱いがあり、何度か購入したことがあります。ポルノ館になっていたとは全く知らず、いや気付かずで、勤務先が1966年から河原町二条であったのになぜだろう?市電通りでなかったからかもしれません。
    法務大臣の息子さん、中学校で同学年でした。親父は宣伝車上でサントリー角瓶で喉を潤し演説をやった、名物議員でした。

    • 乙訓の老人さま
      詳細なコメント、ありがとうございます。
      出町線の複線化について、再度、大西顧問が新聞に連載されていた「チンチン電車物語」を再読しました。
      それによると、京電の敷設当時はすべて単線であったこと、出町線については、離合所の設置箇所として、寺町丸太町上ルの松蔭町付近、寺町広小路付近が候補に上がったが、広小路のほうは見送られたこと(その後に、広小路の代替として、前回も話題になった寺町今出川下ルに離合所が設けられます)、以上からすると、この箇所は、複線区間ではなく、離合所と考えるのが妥当のようです。
      それにしては、必要以上に長い離合所に見えますし、何より、出町線は、丸太町~出町間の折り返し運転だったことを考えると、発車直後に、離合所があるのも不自然です。折り返し運転の車輌の留置線を兼ねた複線構造の離合停留所とも考えられます。
      なお、京電が、市営買収時までに複線化を行ったのは、堀川線、伏見・稲荷線のみとのことでした。
      また、梨木神社は、明治18年に現在地に創建されています。幕末の地図を見ますと、梨木神社の東端(現在の寺町通)までが御所の用地で、公家の家が立ち並んでいます。神社が創建された明治18年以前に、付近の整備が行われ、神社の西端(現在の梨木通)までは、京都御苑の区域となり、梨木通から寺町通に挟まれた、本来の御所の区域は、民間に払い下げられ、その一部が梨木神社となったようです。
      文化会館や国会議員の思い出、さすが京都のあらゆる場面に首を突っ込んでおられる、乙訓の老人さまらしさを感じました。お書きの、もと法務大臣、私邸の前を通ることも多く、ある時、たまたま立派な門が開いて、大臣がクルマに乗り込む時でした。トレードマークの蝶ネクタイを締めて、“イヨッ”と、田中角栄ばりに、手を振ってくれたのを思い出します。

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