EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」-2-

烏丸今出川をめぐる

烏丸今出川交差点の四隅からは、さすがに多くの写真が撮られている。さまざまな角度から見ていこう。(黒字は展示キャプション、青字は補足)

EVE 小西001131sy131130_033sy【3】雪の烏丸今出川を曲がる臨系統の500形。右側に見える小さな瓦屋根の建物は、もと交番。大学紛争時代には何度も焼き討ちにあった。現在の地下鉄への出入り口に当たる。(昭和44年 撮影/小西啓文)

最古参の500形が両方向の交通を遮断して、ゆっくり左折するのは、“古豪のお通り”と言う感じで堂々としていた。カラーは、烏丸今出川南東角から見た現況で、交差点を囲んでいた大学の土塀も、新しいものになっている。交番の跡に、地下鉄への出入り口が造られた。

EVE 沖中IMG0008sy【4】烏丸今出川交差点を曲がる15系統800形。背後の大きな和風建築物は、明治12年建築の華族会館、戦後に同志社が購入して、大学院の校舎の啓真館となった。その後、撤去され、跡地に図書館が建設される。右手に昭和29年に出来た明徳館の塔屋が見える。(昭和34年 撮影/沖中忠順)

入学後の疑問のひとつは、なぜ大学の構内にこんな和風の建物があるのか、と言うことだった。校地の変遷・歴史を知って納得がいった。大学院の建物のため、一度も入ったことはなく、内部がどのような造りになっているかは、分からずじまいだった。

EVE 小西022011sy【5】小雪の舞う交差点を行く連結市電。当時、乗客増加対応と省力化の切り札として、昭和39年に登場した連結市電は、烏丸線を中心に平日朝限定で運用されたが、昭和46年に中止された。(昭和44年 撮影/小西啓文)

連結市電は平日の朝7~9時の運転で、講義の前の慌しい時間帯だったから、案外記録に残っていない。しかも、当初の青/クリームの塗色なので、たいへん貴重な記録である。次位は高さの違いから2000形であることが分かる。

EVE 佐々木IMG0001sy131130_029sy【6】北行きの停留所から交差点へカメラを向ける。左は昭和33年に製造された700形。烏丸線廃止に合わせて昭和49年3月に廃車となった。右は、900形をワンマンカー仕様に改造した1900形。

(昭和48年 撮影/佐々木秀隆)

現況と対比すると、さすがに御所の緑に変化はないものの、右手、交差点南西角の様相はすっかり変わってしまった。

EVE 井原B680500sy131130_030sy【7】烏丸今出川の南行き電停に停車する2600形、600形、700形。追い越しなどの出来ない市電は、よくダンゴ運転となった。左に見える、市電のポイントを操作する信号塔の外観がよく分かる。

(昭和43年 撮影/井原 実)

この時期には市電のポイントは自動化されていたはずだが、この時期まで信号塔が残っていたとは、私もこの写真で初めて知った次第。現況は、図書館、良心館と、煉瓦色の建物が続き、烏丸通からのストリートビューが良くなった。

EVE 福田IMG0037sy【8】クラブの顧問から招き入れてもらい、新しく建った図書館のバルコニーから撮影すると、烏丸今出川の交差点を曲がる市電が間近に望めた。向かいにはまだ古い家並みがあった。

(昭和49年 撮影/福田静二)

同じ交差点でも俯瞰すると、ずいぶん雰囲気が違う。顧問の大西友三郎さんが図書館勤務だった時代で、烏丸線の廃止を前にして、「ここから撮れるでぇ」と特別に入れてもらった。

 

EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」-2-」への3件のフィードバック

  1. 写真を見ていると学生時代のことが思い出します。特に6番の写真にはっきり写っていませんが交差点南西角にあった「天津閣」という中華料理店があり、ひとつ上の先輩のTさんと「スープ付き焼飯」を賭けて、私が勝っておごってもらったことがありました。何を賭けたかというと、EVEの為にHOの模型を作ることになって、私は三扉改造の京阪1700、1800の7連を作ることにしました。1モータベルト駆動にするというと「そんなん、外周線の勾配は登らんで」と言われたのでしたが、「いや絶対登らせる」ということで勾配を登りきると私の勝ちで「スープ付き」をおごってもらうという賭けです。結果は軽やかな走行音で登りきりました。この外周線の勾配は「そんなん、口笛吹きもってできるやん」で有名なKさん製作の特急まつかぜがこの勾配を登坂中にエンストをしたという「魔の勾配」だったからです。だから、たぶんTさんは絶対に自分が勝つと思っていたのでしょう。とにかく登りました。その「スープ付き」おごってもらった「天津閣」も閉店してありませんが、そんなことを思い出した1枚の写真です。どうもありがとうございました。

  2. 総本家青信号特派員様
    懐かしい風景の数々、40年前を思い出しました。当時朝の通勤通学ラッシュはすさまじいもので、京都駅で乗車の際は積み残しされることもしばしばでした。その中で連結市電が来ると、通常の乗車位置以外に1両分前に停まるので、連結市電が来るのが見えると、前のほうに走っていって、すばやく乗り込んだものです。新入生のころによく利用したと思っていたのですが、昭和46年になくなったとのことで、それでは利用していたのは入学の前の年、鞍馬口の某予備校に通っていたときだったのでしょうか。

  3. どですかでんさま
    「天津閣」にまつわる逸話、ありがとうございます。「天津閣」の写真は、8番の写真にも写っています。拡大すると、文字も読めました。私も、「スープ付き焼飯」かどうかは覚えていませんが、連れ立って行ったことがあります。間口は広いのに、奥行きのない、極端に細長い店舗で、烏丸通側にカウンターがあって、市電がよく眺められました。

    大津の86さま
    烏丸線の連結市電は昭和46年4月に取り止めになっいます。乗客の減少が始まり、単行でも賄えるようになったのが理由ですが、外周線の百万遍~烏丸車庫~西大路九条で運転されていた連結市電は、一足早く昭和45年に取り止めになっています。当時としては、画期的な連結市電でしたが、わずか9年で終わってしまいました。

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