島原鉄道ホハ12087 左側2ブロック目は本来3個窓の筈が4個である 12088も同様
前回島原鉄道ホハ12087の窓が1個多いと記し、写真も入れたが分かりづらい。実は同じ車両だが1枚挿入漏れがあり、今回改めて窓1個多い客車をご覧頂こう。小生がこの「不思議」に気付いたのは、かなり後になった引延しプリント現像中で、安全光の下、バットの中で徐々に浮かび上がってくる画像には胸がわくわくするものだが、このときばかりは絶句し、己の目を疑った。こんな客車が有ったのか。木製客車ファンの端くれを自認(未成年の若造だったが)していたが、未だかってこんな情報はなかった。もしかして新発見?
2浪を経て何とか大学生の資格を得た1957年3月、三度目になる島原湊で、車両課に乗り込んで担当者に詰問。このくだりは鉄道史料40号(1985年11月刊行)に記したが、ご覧頂い方は少ないだろう。結果のみ記せば、国鉄制式中型客車であるホハ12087、88は、ちゃんと1・3×5の窓配置で製造され、廃車の払下を受けた島原鉄道では、車体大修理の際当時買い溜めしていたガラスを経済的に切断使用した結果、窓幅を若干狭くせざるを得ない。それに合わせて窓を配置=間柱を建てていったら、どこかで窓1個増設しないと辻褄?が合わなくなったという、「ウッソー」といいたい話であった。
三角での機回り 三角11時56分発572レは3軸ボギーの2等車連結だが何と準混列車
貨車入換中のC1190 準混列車を牽引し熊本へ
セムフ46 三角で 北九州なら珍しくも何ともない
ミ105 水運車がいるとは ここは水が悪いのであろう
三角構内に放置されていた軽便無蓋貨車 連結器とも本格的な構造で単なるトロッコとは思えない
話を戻して、かろうじて無事汽船出帆に間に合い、三角港に上陸。ここから熊本までは1日7本の列車があり、うち昼間2本には2等車が連結されている。すなわち島原半島との観光客連絡列車で2等車は新婚さんへの配慮である。しかし我々が乗車した572レ=列車番号で分かるように、これは貨物列車に客車を併結した準混合列車―略して「準混」であった。熊本着13時14分。
熊本では観光バスに乗換え、お決まりの熊本城や水前寺公園をめぐる。小生は再び観光を辞退?して、熊本駅で16時11分発豊肥本線723レ大分行に必ず合流するからと誓約し、自由行動。今度はお目当て熊延鉄道に行ける。確か市電を辛島町で乗換えて南熊本へ行ったと記憶する。
今なら全国津々浦々情報が満ち溢れているが、当時熊延鉄道に関しては、僅かに有蓋貨車改造の「丈夫そうなハコ」客車(TMS誌号数失念)と、「機関車」第1巻第3号(読者)通信欄の竹島秀美「熊延鉄道の機関車」しかなかった。それだけ初見参の期待も膨らもうというものである。
熊延鉄道1号機と「丈夫そうなハコ」 ワム23000が種車だが詳しくは次回に
5号機 日車1932年製25トン
3405 九州鉄道から国鉄、博多湾鉄道、西日本鉄道、再買収という経歴で熊延入り
ピッツバーグ1898年製45トン 9号機の筈だが3405のまま
正体不詳のCタンク機残骸
ピッツバーグ3400がまだ九州に生き残っていたそんな時代。
スケネクタディとピッツバーグはいいですね。クロスヘッドが美しい。
湯口少年が庫の奥から必死で撮影を試みていたのが想像出来るようです。
げにしても1950年代の九州はド田舎ですね。三角線でミキスト。
3軸ボギーの上等客は島原観光の貴婦人と炭坑成金と外人か。
今でも残る雲仙観光ホテルは三井財閥系ですし近所に岩崎家保養所も
存在します。
俯瞰してみれば、パリのフランス人がアルジェやチュニジアに行くような
ものじゃなかったでしょうか。
そんな埃っぽい空気の中の華やぎをよそに、古典輸入機や木造客車を撮る、
少年ながらデカダントですね、趣味はこうこなくっちゃ。
粋です。