1954年高校修学旅行 その7


プラットホームには小荷物の行李が放り出したまま 南熊本

熊延鉄道では十分満足し、南熊本で69665牽引の下り臨時列車を撮って、再び市電に乗り今度は熊本電鉄が発する藤崎宮前へ。


熊本市交通局54 南熊本駅前

ここも事前情報が無いままだったが、あんまり褒められない日立製102以外は結構小生好み―なんじゃい、これはといいたいような、一筋縄でない車両がいた。


ずらり並んだ車両は先頭の電動車以外異様?な木製車ばかり バックの医院の看板にもやや辟易する?
左から31、12、22 藤崎宮前

これは架線修理車モハ12←デ3←名古屋鉄道←竹鼻鉄道 屋根上ではポールさえなければ相撲がとれる  

芸備鉄道買収客車で その前は南満州鉄道

今頃になって芸備鉄道の竣功図と照合すると、ハユブ1~4の内で、両妻を撤去しオープンデッキとした事が分かる。社紋のある窓を含め右が旧郵便室、その窓の左側が三等室で、側戸式・車幅方向5人掛椅子が中央背中合わせで4列あった。22には明治37年鉄作新橋の銘板があったという(谷口良忠「熊本電鉄」鉄道ピクトリアル136号)から、芸備ハユフ1か2が前身だが、同じ出自の三岐鉄道ハユフ1が旧番のままだったから2であろう。芸備竣功図には前所有者南満州鉄道とあり、大量のB6機などと共に日露戦争で活躍し、帰還した車両で、三岐に1952年ごろまで残っていた旧車体(台枠以下を使い車体新製=ハフ13)には芸備の社紋があった。


1923年の改軌 電化当時車両不足で藤永田造船所製有蓋貨車を自社改造した客車

戦後の竣功図に「車体 西鹿児島工場」とあるところから、改造は同工場施行とされ続けているが、蒸気機関車ならともかく、誇り高い鉄道省工場が大正期にこんなケチな改造を引き受けるはずがない。これは、戦時中定員増加化改造(40→50人)を西鹿児島工場で施行=オープンデッキ・中妻を撤去したもので、民間車両会社は武器製造を強制されており、かような半端改造は(渋々?)国鉄工機部が担当したから。近江、三岐、東濃鉄道等に同様事例(名古屋工機部)がある。旧番はヤ(屋根付貨車の意)2→ハ8→コハ32。

菊池電気軌道3がホハ57になり 戦災で車体焼失後復旧した木製車
いまいちスマートさに欠ける日立製車

モハ101、102は戦時中のこととて、電化当時の旧京都市N電の取替名義で新製した由。社長の松野鶴平は鉄道大臣も歴任した辣腕政治家で、俗に「松野ズル平」=世渡りがうまく、才覚があった。敗戦直前空襲で変電所を焼失し、陸軍が鉄橋を破壊され鹿児島本線が絶たれるのを危惧し、迂回線建設のため持ち込んでいた鉄道連隊100式鉄道牽引車と貨車を、燃料とも占有=国有財産を無手続横領し、緊急避難的に運行したという。なお武蔵野鉄道→西武農業鉄道(ピストル堤)が大量の鉄道連隊車両を取り込んでいたのも、もっと大規模な横領であった。

立野での貨物列車

立野での59670

熊本の観光は熊本城と水前寺公園だけだから大して時間が無く、熊本電気鉄道も車庫まで行けなかった。翌1955年、何とか学生の資格が得られた1957年と、続けて室園車庫へ行き、旧海軍荒尾工廠の電気機関車ED1~3を含め結構撮影もしたが、これらはまたの機会に。

熊本駅で仲間に合流し、豊肥本線で阿蘇へ。

1 thought on “1954年高校修学旅行 その7

  1. 地方私鉄に行けば木造客車がごろごろいた時代とはいえ
    さすがに電化された鉄道でこれは、えげつないですね。
    ホハ57は昭和40年代後期まで残っていましたが、切妻屋根の木造ボギー客車というのも、それも電車スタイルですからけったいな車両です。
    ホームの端にある背景の農業倉庫が屋根の角度がきつく普通のと用途が違うのか
    気になりました。
    梁出しと妻部の漆喰に紋どころがあるので違いますね。商家(醸造業?)でしょうか。

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