撮影地今昔-関西本線・加太

お盆休みの2015年8月14日、昨年に続き青春18切符で、半世紀前の撮影地のひとつ、関西本線加太を訪ねました。旧湊町・現JR難波駅から大和路快速電車で出発。加茂まで54.2kmを53分。現代はこの距離でこの時分なら当たり前か、むしろ遅い感じがしても当然でしょう。でも昭和40~45年代の関西線に比べると相当速く感じます。

当時、筆者の勤務先工場は大阪布施と大和小泉にありました。技術部所属の筆者は奈良工場へ再三出かけ、近鉄布施-鶴橋-天王寺へ。天王寺からは準急・かすが、王寺でキハ35に乗り替え二つ目、法隆寺の隣駅大和小泉へ。小泉からは社バスかなければタクシー。軽く半日は掛かりました。

8月14日は、加茂から二両編成のDC、キハ120。このワンマンDCは運転席横の窓から見通しが良い。播但線、加古川線、山陰線のワンマンDCは運転席と料金箱がやたらと最前部を独り占めしてファンに非開放的です。で加茂から1時間、難波から2時間30分で加太に到着しました。

天王寺から加太まで片道料金が280円の時代、準急かすがの100円をプラスして計380円で所要時間は2時間5分でした。土曜日の17時、勤務終了後あたふたと駆けつけても加太到着が20時35分。それから迎えの会員と真っ暗な道を20分ほど歩き、風呂に入り、酒盛り。この定型作業を何度繰り返したことか。最後の撮影から時が経つこと37年。変わり果てた加太駅に到着しました。

線路が上下2本、対面式ホームが2本、上りホームから駅舎には跨線橋で。ホーム山側、上り亀山方面行きの側線は撤去されていました。

往時はこの側線から加太始発名古屋行きの客車が5時47分発で、毎日運転されていたのです。ある夏の日に撮影し画像は残っていますが、早朝故の光量不足で少し見苦しい状態です。この列車は、早朝D51のバック運転で亀山から客車をプルして加太駅の山側線に進入、D51のみ駅西側のポイントで本線経由、駅東側のポイントから山側線に再び進入、客車前部に順行配置で付くというもの。夏至の頃、日の出が早い時期に、TRI-Xで切り離しから連結まで一部始終を撮影すべきだった。こんなに何度も加太に出かけながら、たった一度だけ、それも不完全な撮影で、今になり後悔しております。下の画像がそれです。

▼(左)加太駅始発の212列車連結前、D51841【亀】1966年7月
(右)2015年8月14日の加太駅
00014駅から国道25線を20分ほど歩いてむらたや前に到着。線路は歩けないので、道路脇から線路の見える場所で下りDCを撮影。右手の畑とその柵が線路脇まで迫っている。
▼(左)R=300のカーブを行く貨物263列車 1966年3月 (右)下りDC
00004むらたやの前のすぐ先から、古大和街道のだらだらとした上り道を例の大築堤まで歩いた。結構な距離である。こんなに遠かったかなと思いながら、やっとたどり着いた築堤はさま変わりでした。カーブの中間あたりに木が繁り、雑草が伸びて見通しが全く悪い。両端から其々反対側の端は見えない。

▼(左)大築堤の加太駅寄りから、手入れの行き届いた築堤を見る。鳥羽快速最終2442列車。C57148【亀】1965年2月28日
(右)線路脇に工事用小型トラックなら通過できる側道ができていて、轍が見える。バラス敷の境界に高さ20cm位の板が張られて、バラスの崩れを防いでいるのか。00005 ▼(左)大築堤の中在家信号所寄りから眺める、補機を従えて上ってくる貨物763列車D51253【亀】 1966年10月
(右)築堤にも黄色の防護柵が出来ていて、これは中在家信号所の方まで続いているようだった。
00006変わり果てた風景にややがっかりしながら、再び加太駅に戻る。お寺と墓があった付近も植林されて結構な高さに育ち、広い見晴らしの良い場所もすっかり狭くなっていました。帰りもむらたやの前を通り過ぎました。

▼(左)加太会を始め数々の撮影班と東名阪国道建設作業員の定宿として栄えた往時のむらたやの玄関。1967年11月23日
(右)その蓄えがあってか、旅館廃業の現代も立派な屋敷の村田邸。前の道路は国道25号線。00003加太駅に戻りました。駅に接して北側の神福禅寺、鹿伏兎氏の菩提所は元のまま。
▼(左)加太駅に停車中の貨物788列車の後部 補機 D51832【亀】1965年2月28日(右)ほぼ同じ場所の現在。神福禅寺の土塀の石積み部分が往時のまま、背後の山は緑が増えた?土塀の向こうに木立ちが増えています。
00002▼加太駅駅舎(左)1967年11月23日、勤労感謝の日
(右)現在駅舎は立替え、駅銘表は現在の方が立派。
▼現加太駅の時刻表。日中は、というよりほとんど終日が毎時上下各1本。
00012▼株式会社中林活版印刷製造所発行の『手書き全国鉄道線路列車ダイヤ』から、加太会広報係が無断で湿式青コピーしたもの、丸秘扱いになっている。数えるのに手間が掛かるくらいの、貨客列車本数、貨物は上下とも大半が補機付き。1965(昭和40)年
00013▼幾度となく撮影画像に登場した錫杖岳と田圃。現加太の里風景。
広々とした山間の田園の中に見通しの良い鉄道風景が、長い間の良い記憶でしたが、少し良くない印象が書き加えられました。でも錫杖岳など山々と新しくなった家々は昔のままでした。
00008▼帰りはDCに乗り関西線を折り返す。中在家信号所の今昔。
(左)328D 1967年5月6日 信号所のホームを通過、柘植に向かう
(右)ワンマンDCから見た信号所跡、何にもない。
00009

3 thoughts on “撮影地今昔-関西本線・加太

  1. tsurukame様 加太の写真を拝見して、私が鉄道写真を撮るのを目的で1人で行った最初のところが加太でした。高校2年の時で、早朝に確か市電で湊町駅に行ったような記憶があります。朝が早いので普通列車と言っても気動車ですが、亀山行だと思います。シートはクロスシートでした。10月ごろではないかと思います。王寺からは放射霧で窓の外は真っ白で何も見えませんでしたが、次第に霧が晴れてほっとしました。加太で降りてしばらくすると、亀山方面へ最後尾に補機を連結した貨物列車が出発しました。この時の写真が最初に撮った加太での写真です。この写真は写真屋で現像と同時にプリントしてもらっただけです。さっそく、デジタル化して見ようと思っています。私もどんな写真を撮っていたか気になりますので。

  2. 先ほどのコメントで亀山方面への貨物列車が出発したとありましたが、スキャンしてよく見ると柘植方面へ登って行く列車でした。訂正いたします。べた焼きで見ただけなのでよくわからなかったのですが、画像調整をして見ると間違いであることがわかりました。逆光のうえに慌てて撮ったのと、腕が未熟なので最悪の写真でした。しかし、最近の画像処理ソフトをそれなりの写真にしてくれるので助かります。
     

  3. どですかでん様
    こんにちは。どですかでん様なら加太は至近距離。うらやましい限り。画像調整した写真を見せて下さい。筆者の画像調整で結果いまいちだったのが、加太始発列車の画像です。

    筆者が学生時代、京都の下宿から近い距離。下宿時代のある時、Iさん、Nさん、Yさん、Mさんらに誘われ行く約束を寝坊してすっぽかしたこともありました。そして本格的に通いだしたのが社会人になって神戸からですから、今から思えば勿体ないことでした。

    加太を始めて通過したのは、昭和27(1952)年11月神戸の小学生が数校団体で、奈良・伊勢に修学旅行に出かけた時、客車で往復でした。帰りの車中、電灯を灯した客車が停車しているのを線路の下の方に眺めながら、加太トンネルへの坂道を登っていったのでした。これが中在家信号所だったのを後で知りました。それから12年後に通い始めたことになります。つまらぬ思い出話でした。

    拙著HPをご存知ならダブりますが、加太トンネルの上から眺めた信号所の列車交換などあります。よければご覧ください。

    http://kabutogoe.web.fc2.com/

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