2015夏、18きっぷで姫路城見物、関西線・加太、和歌山線・笠田などに出かけました。加太のことは8月後半に投稿しましたが、以後法事やら雑用やら何やらに追われて投稿をサボっていました。そしたらもう秋、今頃になり、夏の和歌山線をアップします。聞くところ、砺波が住まいの宮脇オッチャンがこの10月の来阪時、帰りに和歌山線を探索したとか。
8月16日、立花-尼崎-京橋-天王寺-和歌山-奈良-京都-立花のコースで一日を過ごしました。その内、撮影地今昔は西笠田-笠田間を歩きながら往時と比較しました。乗り心地の悪い和歌山からの電車で、先ず降り立ったのが西笠田駅。
▼(昔)西笠田のホームから柵越しに、紀ノ川を眺めました。山々には雲がかかっていますが、初秋の空気と水の綺麗な情景でした。1966年9月14日 西笠田駅
▼(今)ホームの位置が、昔と反対になったように思います。紀ノ川は線路越しに眺めることになりました。紀ノ川に架かる橋は県道120号線・紀の川市麻生津(おうづ)大橋です。2015年8月28日 西笠田駅
▼(昔)貨物591列車 機C58 1966年9月14日 西笠田-笠田間 13413
▼(今)紀ノ川の川幅が狭くなり、河川敷が広まった。道路も付け加えられた。
▼(昔)貨物591列車 機C58 1966年9月14日
背景の山並みは、(手前)当時のかつらぎ町から高野口町にかかる丘陵地
(中ほど)和歌山県と大阪府の府県境の山地、(後方)和泉山脈から繋がる金剛生駒方面への山並み
▼(今)当然の事ながら宅地開発が進んでいる。勿体無いのがカーブの内側で、田圃が全くなくなり、『草原(そうげん)』でなくて『草はら』になってしまった。日本農業の悲しい姿のようだ。
▼(昔)貨物591列車 機C58 1966年9月14日 13412
▼(今)屋敷の大きな屋根、横の蔵、同じく左の屋敷屋根、葺きかえられているが昔の姿を良く留めている。折角の大きなカーブも2両の電車では全く面白くない。
▼(昔)早朝から午前中、上下11本の通学・通勤・旅客列車が往来していた。
客522列車(和歌山市発-王寺行) 機C58214【和】
西笠田-笠田間 1966年9月14日
▼(今)先ほど紹介した『草はら』のお陰で、撮影に好都合な場所に進めないばかりか、見通しも悪い。右手の背ノ山は、広い舗装道路が縦横に整備された以外、昔のままの果樹園だった。
▼(昔)客523列車(五条発-和歌山市行) 機C58178【辺】
西笠田-笠田 1966年9月14日 13402
1966年の時は、笠田のカーブ撮影の後、隅田-大和二見、北宇智-吉野口の二箇所でも撮影していたが、半世紀後の後期高齢者に三箇所も撮影の元気なく、ただ乗り鉄で通過しただけでした。そんな話だけでは失礼ですから、残り二箇所の往時の写真二枚をご覧ください。
▼貨物595列車 機C58214【和】 北宇智-吉野口間 1966年9月14日 13417
▼小荷物1542列車 機C58312【竜】北宇智-吉野口間 1966年9月14日 13435
昔の撮影地を訪ねるのはいいが、行く度に失望してしまう。加太が然り、今回の笠田も。半世紀後も昔のままを望むは無理だが、せめて良い意味の変貌を期待して行くのだがいずこも裏切られてしまう。仕方ないことなのでしょうか。
感銘を受けました。
数十年の間を開けての定点観測は立派な研究です。永く続けてきた人だけができる事だと、改めて感心しながら見入っております。
今後とも楽しみに待っています。
米手作市様
今後とも楽しみにして頂きありがとうございます。定点観測に出かけるのは良いのですが、撮影地の良くない変貌にいつもがっかりさせられ、出かける意欲が削がれます。
でも、10月に出かけた生瀬-武田尾、道場間はがっかりせずに済みました。既に廃線となっている区間です。廃線跡ですので、定点観測とは行きませんが。面影や名残やそれらしき風情を比べました。準特急さんの二番煎じか、どなたかが発表済みかもしれませんが。
出かけた後の整理がなかなか進みません。今暫くお待ち下さい。