京都市電 余話 その4

市電蹴上線の痕跡を見る

前項で紹介した岡崎地域に、現在は鉄道は走っていない(地下鉄は、地域をかすめるように走ってはいるが)。しかし鉄道遺産と呼べるものがいくつか残っている。昨年夏にクローバー会の行事として、炎天下を全員で歩き通した京阪京津線の開業時の廃線跡もその一つ(遺構と呼べるものは無かったが)、そして平安神宮の神苑にはN電も保存公開されている。
058syさらに戦前まで岡崎地域を走っていたのが市電蹴上線で、その名残りとして、今でも架線柱跡が見られるのは、あまり知られていない。蹴上交差点から、仁王門通りに沿う琵琶湖疏水のインクラインの擁壁に、コンクリート製の台座が4基が見られる。これが、市電蹴上線の架線柱の台座の跡だ。市電蹴上線は昭和20年2月に廃止され、レール・架線柱などは、延長工事中の梅津線(右京区)に転用するために撤去されたが、台座のみが残された。
さて、蹴上線の由来だが、京都電鉄木屋町・鴨東線が、内国勧業博覧会への乗客輸送を目的に明治28年4月に開業している。木屋町通、二条通、冷泉通を経て、蹴上水利事務所前(南禅寺前)まで開通、のち明治40年に蹴上まで延長している。大正7年、市営電車が京電を買収、この鴨東線も市営に編入された。市では、大正15年、仁王門通(東山仁王門)~岡崎円勝寺町、約200mを新たに敷設、その際に、岡崎円勝寺町以西の京電路線を廃止、岡崎円勝寺町以東、終点の蹴上までは、広軌に改軌して、市電蹴上線とした。しかし、蹴上線は、前記のように、昭和20年2月に不要不急路線として休止となり、資材は延長工事中の梅津線に転用された。
琵琶湖疏水インクラインで保存されている台車の前に、1基目の台座跡がある

戦前の約20年間だけ走った蹴上線だけに、残された資料・写真は極めて少ない。ところが、この蹴上線沿いに住まわれたJR東海相談役の須田寛さんは、昭和18年から同志社中学へ通われるのに、蹴上線南禅寺前から河原町今出川まで市電通学されていた。その時の様子を、鉄道友の会京都支部の会報「車両基地」に詳しく書かれている。ここでは、その内容を拝借して、蹴上線のことをまとめてみたい。
蹴上線は仁王門通(東山仁王門)~三条蹴上、約1.2kmの広軌複線の路線で、ほぼ琵琶湖疏水沿いに路線が伸びていた。平安神宮前(慶流橋)、動物園前(広道橋)、南禅寺前の3停留場があった。市電買収後は、14号系統として線内折り返し、昭和10年のかな文字化で「け」系統となった。車両は壬生車庫所属の広軌1型がおもに配車され、ラッシュ時3両、閑散時2両使用だった。方向幕は「仁王門」「ケアゲ」、入庫時は「ミブ」を表示した。始発で、壬生からは客扱いのうえ、四条通経由で蹴上線へ送られ、線内の折り返し運転に入り、ラッシュ時は5~10分ヘッド、それが終わると、1両が壬生へ戻り、日中は2両体制で、10~15分ヘッド、夕方も3両体制に戻り、終電までに順次、壬生へ戻り、線内留置はなかった。
どう考えても、乗客数は少ないと思われるが、ラッシュ時は異様に混雑したそうだ。これは、蹴上で接続する京津線の運賃が区間制となっており、山科方面からの運賃区切りが蹴上で、蹴上で市電に乗り換えると、市電は均一区間のため、市内のどこへでも、当時6銭のまま行けたそうだ。当時は、京津線の急行も蹴上に停車し、乗換客で賑わったと言う。のちに京津線の運賃区切りが変わり、市電も10銭に値上げされると、蹴上線の乗客はとたんに激減したと言う。戦争に入ると、沿線の動物園、美術館も休館同然となり、さらに乗客減となり、休止につながった。
062sy私はもちろん蹴上線の思い出は持ち合わせていないが、休止後のことは覚えている。母親の実家が蹴上線平安神宮前(慶流橋)の仁王門通にあり、家の前にレールは無いものの、敷石がずっと残っていた。子供心に、なんでこんなところにと祖父に聞くと“昔、市電が走ってたんや”と教えてくれた。さらに東山仁王門にも、Y字形に敷石が残っていて、両方向から渡りがあったことがわかる。ここにはレールが残っていたように記憶している。蹴上線は昭和20年に休止になったが、正式な廃止は昭和40年。これは、戦後しばらくの間、仁王門通東に貨物積卸場があり、貨物電車が出入りしていたからである。このあたりのことは、乙訓老人が著された「京都市電が走った街今昔」にご自身の体験談も交えて書かれている。主な荷物は“黄金電車”で運ばれたそうだ。
4基残っている最後の台座は、ちょうど蹴上交差点の前、かつて、京津線のすぐ近くまで蹴上線が伸びていたことが分かる

 京都市電 余話 その4」への10件のフィードバック

  1. 懐かしい話が出てきた、戦前の動物園に忘れもしない、2回行っている。最初は祖母に連れられ知恩院参りの後であった。時間の都合だったか早じまいになり、母親にもう一度連れて行ってくれと、ごてたのである。目出度く実現したが、祖母の時は仁王門から市電に乗って疏水端を行ったのに、今度は東山二条から徒歩であった。この時すでに動かぬ1型が蹴上線に留置されていたのかどうかはわからない。
    次は戦後の話である。蹴上線が疏水と出会うところ、疏水べりの線路沿いに木造ホームらしきものがあった。いつしか解体されたのに気が付いた。後年、高橋弘師匠に尋ねたら、「汚物運搬の大八車から市電や京阪の貨車の荷台に乗せるための足掛かりやった。東山高校への登校の時に横眼で鼻つまみしながら歩いたもんだ」。いつの間にか無くなり忘れたころに和久田さんから問い合わせがあった。「戦後の京都市電について役所から廃線届が疏水べりで出ているがなにか心あたりありますか?」という事であった。うろ覚えにつき、高橋師匠に確認の電話をした。間違いなしで、「あの現場の南側に3階建ての洋館があった。それが進駐軍に接収されあと、窓をあけると匂いがするとの苦情があり、積み込みの場所が変わった。」との追加話をもらった。その洋館には第8軍にしばらく勤めていた叔父に匂い話を聞いたことを思い出した。
    これらもあれこれ話の類に入るのかな?

    • 乙訓の老人さま
      コメント、ありがとうございます。戦前に蹴上線に乗っておられるとのこと、しかも鮮明に覚えておられる様子、乙訓老人さまの歴史的な人生、記憶力に脱帽です。ひとつ、貨物ホームで質問ですが、疏水端にあったとのことですが、これは疏水の水運も考慮したものでしょうか。疏水の貨物輸送は、それ以前に終了していたと思うのですが。
      その南側にあったと言う、三階建ての洋館も気になります。和久田さんや、高橋弘さんからも、証言を得られていること、人脈の広さを感じました。

  2. 脱帽とは恐れ入ります。PTA役員をしている時、息子の通っている小学校の教頭先生に「人間の発達には段階があって、その都度越えねばならない山がある。その中身は3歳の時は一番嬉しかったことを繰り返し反芻していると年をとっても覚えているものだ」と教えられました。恐らくその類であったのだろうと思います。さて3階立ての洋館ですが疎水の曲がり角の南、今では庭園喫茶だったと思いますが、時には個展会場になっている芝生敷きのところなのです。貴兄のお母さんが近くのお生まれとするなら心当たりありませんか?。洋館と言っても煉瓦建てではなく昭和初期の鉄筋コンクリート造りだったと思います。ここは京都市市史にも出てくる奥村電機の本社だったと奥野師匠に教えられました。奥村電機については、琴平参宮電鉄の車庫で創業時の電車台
    帳を見せてもらったときに知りました。その後、京都市が市史を刊行した時に購入、創業地から新社屋に移転したところであることを知ったのです。昭和30年ごろに倒産、今は存続していません。大阪で創業、京電の主電動機コイルの巻き替えをしているうちに京都に進出、各種電機用品製造のメーカーとなったのです。鉄道部品についての実績は少ないようです。名古屋市電保存車1400型の主幹制御器が奥村製であるのに気付いた時は感激したものです。
    もう1点、疎水水運とは関係なしです。貨物ホームとはあくまでも桶を載せる台で、低いものであったと記憶しています。疎水縁ではありません。複線路の片方を利用したものだろうと思います。仁王門通りに並べられていた1型売りに出された話ごぞんじですか?またのことにしましょう。

    • 乙訓の老人さま
      興味深い3歳児の時の記憶、聞かせていただきました。ありがとうございます。仁王門通の洋館のこと、よく分かりました。現地は、小さい時から通っていたはずですが、記憶には残っていません。ここが、奥村電機の本社だったとは驚きました。奥村電機は、老人さまから、断片的ですが、よく聞かせてもらっています。
      貨物ホームは、疏水水運とは関係ないとすると、ホームがあったのは、東山仁王門を曲がってすぐ、その奥村電機本社前付近にあったのですね。1型売り出しのことも知りませんが、須田さんの原稿には、休止後に廃車置き場となった時の様子が書かれており、1型、200、300型が、600型に牽かれて並べられたそうで、戦後、その引き出しは、たいへん荒っぽいものだったと思い出が綴られていました。

        • 田中さま
          コメント、ありがとうございます。はい、「須田」さんとは、元JR東海の須田寛さんです。南禅寺にお住まいだった須田さんは、中学校へ通うため、毎日、蹴上線に乗って、東山仁王門から乗り換えされていました。

    • 奥村電機の歴史拝見いたしました。渓流橋の南北門が奥村電機副社長の自宅で、現在セブンイレブンの店舗です。昔遊園地もありました、大正時代。

    • 奥村電機の記述懐かしく拝見、名古屋市電保存車、明治村の電動機も見学してきました、奥村電機の副社長に家が渓流橋南角にありましたが、その後知慕里、現在は「セブンイレブン」と様変わりしています。須田さんの中学、京大の通学コースとは初めてしりました。

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