北海道寒中見聞録-半世紀前の旅物語 1号車

寒中北海道見聞録  1号車

今を遡ること半世紀。昭和の時代、そう昭和44年の冬の終わり頃のお話です。丁度、試験が終わり、年度末の休みになったときに、今や高齢者であるクローバー会の会員が冬の北海道に蒸機を求めて旅をしたときの記録です。その報告は青信号22、23号に既に発表されていますが、これはその復刻版であります。内容は忠実に従っていますが、所々に深い内容の解説を入れて読者の理解を助けるようにしました。元々22号は参加者の小林氏が執筆していましたが、今回復刻版を作成するに当たって、川中が承認を得て多少文も変え色々編集しました。3月4日からの後半は23号と同じく参加者の西村氏が青信号と同じく執筆する予定です。

なお、1号車は旅に出る前を中心にしているため、お楽しみの写真は余りありません。ご期待に添えませんが、痔、間違えました次号車から多くのお写真様がご乗車になるはずです。

今から考えると、へえ!というものがあるかも知れない隔世の感がある時代のこと。旅の情報に関してもIT時代の今では、北国の否、世界の果ての情報も瞬時に知ることができる世の中ですし、入学試験の最中でも解答を得られ答案を書けるほどの時代なので、へえ、そんなあ!と思われるものがあるでしょう。宿(このころは若いモンはYH=)はユースホステルを利用するのが常であり、先輩諸氏のようにステホに宿泊する覚悟でなければ往復はがきを出して、「よっしゃーっ予約が取れた」、と言って出掛けた時代です。その頃にはすでに先輩諸氏は冬の北海道に遠征し、成果を上げておられるのですが、またそこまで至らない若造3人があれこれ試行錯誤しながら冬の北海道の鉄路を彷徨したときの記録です。記録といえば今は亡きY大先輩のすかたんシリーズがありますが、この稿はそれには及ばないけれど「あんたら何してんねん?」というような旅であったと思います。

他人の紀行文など、行った本人は面白いかも知れませんが読む方は大抵退屈、下らんことばっかり書き腐って、となるのがふつうであります。拙稿ではそれを避けるため、また原文の青信号記載の今から言えば無知下品(?)な表現を今風上品(!)に改め、当時の鉄道風景を再現するために参考となる情報や画像を写真とともに豊富につけました。

また冬の北海道は当時あんまり訪れる人がいないと思っていましたが、旅をすると同業者、他趣味の人とも知り合いになり心温まる旅をすることができたのも収穫でした。ほとんどはその後音沙汰なくなっていますが遠い昔を思い出せば懐かしさがこみ上げるというものです。

では早速本文に入りたいと思います。文体もそれに応じて変わります。

ただいまから改札を始めます。こちらからお入りください。

(登場人物:あいうえお順)

  • ・ 川中勉 66年度生   KAWANAKA(デジ青でのペンネーム)
  • ・ 小林純爾 66年度生1900生(同)
  • ・ 西村雅幸 68年度生 ペンネーム同じ

登場人物は氏の敬称を付しています。この3人は今でも存命であり、それなりの社会的地位もあると思いたいので、そうします。また当時の良き関係は今に至って、クローバー会の有難みを享受していることを付記しておきます。

(主な行程)

2月23日 京都(新大阪)-東京/上野-(十和田5号)→青森

24日 →青森~-函館-大沼公園(紫水荘ヒュッテ)

25日 大沼公園-倶知安(ニセコYH)

26日 倶知安-小沢-岩内-札幌(円山YH)

27日 札幌-夕張・大夕張-(423レ)→尺別

28日 尺別鉄道・雄別鉄道(釧路YH)

3月 1日 釧路-北浜(原生花園YH)

2日 北浜-常紋(留辺蕊YH)・・・豪華なすき焼きの夕食

3日 留辺蕊-塩狩(塩狩YH)

4日 塩狩-美唄-沼ノ端-登別(登別駅前YH)川中が先に離道

5日 登別-札幌(札幌ハウス)

6日 札幌-(札沼線)-恵比島-札幌-(大雪6号)→遠軽

7日 →遠軽-上興部・天北(稚内の喜登旅館)

8日 稚内-日曹炭鉱-羽幌-札幌-(大雪6号)→常紋

9日 常紋-美幌(美幌YH)

10日 美幌-尾岱沼-釧路―(狩勝3号)→札幌

11日 札幌-函館~-青森-(津軽2号)→米沢

12日 米沢-坂町-新潟-(きたぐに)→京都 小林氏東京へ

13日 →京都 西村氏京都無事到着帰還し旅程終了

 

 

 

1 プロローグ

暮れも押し迫った12月のある日、私小林は真面目?に講義に出た後、例によって例の如くBoxに顔を出しました。

 

※当時、新町にDRFCのBoxがあって、何時でも開放状態であり、授業がないとき、否あるときでも誰かが屯(たむろ)していて、賑やかでありました。小林氏もその一人で、授業のあるなしに関係なく、要するに授業が有ろうと無かろうといつも席を暖めていた輩であったのです。DRFCメンバーですから別に断る必要もなく、Boxに戻ってきたというのが正解でありましょう。そして夕方になると自宅に一晩の宿にと帰っていくのであります。

※ 当時のBoxの配置・・・写真を探しています。お持ちの方はご連絡ください

運命の悪戯とはこういうことをいうのであろうか。偶々、川中と西村両氏が北海道に行く話しをしているではありませんか。何も知らない初心なワタシ小林は彼らが仲間を探しているとは露知らず、ウッカリその話に乗ってしまったのであります。当然のことながら彼らは「北海道に行こう行こう」とヒツコク勧めたのですが、賢明なワタシはこれにはきっと何かがあると素早く悟り「北海道は寒いやろうな。何度位に下がるのかな。さぞかし寒いやろうな」と例の病気を盾に断り続けたのでありますが・・。

※このときは仕方ないねえ位の認識であったが、鉄は行きたいと思うと何をおいても行きたくなるもので、当然、嫌々を言う小林氏の心にも、「そんなら行ってみるか」、と思い始めていたことは容易に想像できるのでした。文中に「賢明なワタシ」とありますが、そうでもなく、旅中にしょっちゅう回路が故障もしたし、小林氏本人は冬になるとネコのごとく超寒がりで今でも炬燵に潜るのを最上の楽しみにしている。そしてデジ青にコメントを書くのが楽しみの1つなのである。その彼が行く気になるということは、旅のメンバーが人格者であることはもちろんであったと当時思っていましたが、本人も持(○゛?)病の持主であり大変な決断だったのであろうと容易に想像できるのです。もちろん、残りの2人も猛烈な寒さ(後で記載)は経験がなく、「童謡の当たろうか当たろうよ、北風ぴーぷー吹いてくる」、位の経験しかないので、やはり小林氏は賢明であったのかもしれません。

さて年が明け、嫌な試験も済んで、何となくどこかへ旅行に行きたいなあという気になっていたところ、追い出しコンパの席上、ワタシは2人に再び呼び出されたのであります。

小林氏自身もどこかへ行きたいという気分になっていたので、2人にカマが無くなるで、と言われればズルズルそのペースにはまって行くしかありません。ワタシは旅費3万円也を模型の方に使う予定であったので、ひたすら抵抗するのでありましたが、所詮は学生の分際、両得とは行かず泣く泣く「わかった、わかった。寒いから小林はあの病気が出るんやろう。やっぱり○゛や」と脅されるのがイヤでて模型を諦めて屈服したのでありました。(※西村氏は豚の貯金箱を割って?旅費を捻出し、川中は京都の交通公社で切符の発券などのバイトをして旅費を稼いだのでありました。かくして目出度し目出度し、行くと決まればと準備に掛かるのであります。)

2 出発まで

さて以上のような経緯で北海道に渡ることになったのですが、実は何時から何時までとか、北海道へ何しに行くのか何も決まっておりません(カマを見に行くんでしょうが・・)。まあ、行き当たりばったりで行くとしても、せめて何日はどの辺にいる位は決まっていないとワタシのような上流階級では親が許してくれない?のであります。それで、2月の16日に伏見の山上にあるキャッスル西村(西村城)のところでそれらを決めることになったのであります。ところがその席で川中氏「ワシゃ、3月6日から伊豆と大島に行かなあアカンから、それまでに戻って来れるよう2、3日したら出発じゃ!」とこっちの都合も聞かず一方的にのたまわれたのです(川中の注:先約があり、親友のT氏が伊豆大島に行きたいし、T氏から「わしはYHの予約をしていたので変更できへん。頼むで~」と言われ人情深い川中は断れなかったのであります。従って渡道の日数を確保するために出た発言であると思い出した次第)。

しかし、たまたま若殿西村の妹さんが居られ「お昼に」と言って、スパゲッティ(古い言い回しであります。今ならパスタを作って、とするところ)これを交換条件で、つまり食わせてやるから、ということで結局、2月23日まで出発を延ばし決定に至ったのであります。

その間、各人は出発の準備に余念なく、その様子は小林の手記に書かれています。

1週間というもの、衣料品店やデパートに何度も出かけてスキーズボンやらスキー用靴下、寒さを防ぐための諸々の下着類を買い漁りました。何せ、冬の北海道なんぞ誰も行ったことがない(家族・親族など周辺の人。ロケハンした先輩はいたが)し、汽車の写真を撮るために吹雪の中で何時間も粘らねばならないとなると、セーターなど何枚持っていけば良いのか分からなくなるし、洗濯してもすぐには乾かないだろうし、いったいどうすれば良いのかイライラしながら準備しました。

その成果が次の写真で、時期ははっきりしないが函館本線小沢で撮影したときのものらしいですよ。

キャプション:小林氏撮影。川中と後ろの西村氏。このあと、雪まみれで雪中撮影をする。その前のひととき。椅子に荷物が見える。

 

 

もし寒さで万一のことがあって、「京都の学生3人汽車を撮っていて凍死」なんてことになれば、我DRFCは勿論のこと同志社にとって大きな損失になると考えた我々は寒さに対して万全の準備をしていくことにした次第です。第一、そんなことがあったら新島先生に申し訳がない。広く世界に将来貢献しようとする矢先に雪に埋もれ、ツララに刺さり、羊蹄山死の彷徨、流氷漬けになって雪解けを待って路線保守で発見されるとかなんて大恥ではないか。絶対に寒さでくたばること、否、霜焼けで痒いことすら許してはならない。しかし、そう思いカイロを用意したのは小林氏だけでありました。
3.出発、蝦夷の地に一歩を印す

[出発]かくして約10kg超のリュックを背たろうて、いよいよ北海道へ旅立つこととなります。京都からの出発はアレコレ考え東京経由、しかも時間節約のためにNTLで行くことになったのであります。

西村氏の均一周遊券とNTLこだまの切符
KAWANAKAはNTLは別に駅で買っており、硬券との違いが分かる。ところで、このこだまの特急券の有効期日は25日です。すごいです。KAWANAKAの特急券は控えめな2日間の有効です。更に硬券の切符は、タイプミスがあり、「ご乗車される特急券」とすべきを「ご乗車さるれ特急券」になっている。珍券なのかなあ。

 

 

 

 

※今であれば、まずJALかANAもしくは最近はケチってLCCで渡道する、シニアであれば割引のチケットを使うのが通例でありましょう。当時は急行に乗れる均周を利用して急行「日本海」自由席を使うとか、川中氏執着のビュフェが2輌ある急行「なにわ」で東京に入り夜行急行などで青森に出るか位でありました。勿論座席車です。「日本海」は特急格上げ前の急行で(と思う)、食堂車もあったので「晩年の日本海」より風格はありました、また「きたぐに」は青森までは昼行となるので座席だけが1段ロケットよろしく段落ちして寝台と食堂を新潟で捨てていく。「日本海」は北海道行き以外の遠距離の通しの客も多く、ほぼ1日掛かる長行程にさすがにでれーっと疲れた風情の客が目立った。金と覚悟のある人は青森まで一気のDC特急「白鳥」の選択もないことはなかったのですが、学生には特急や寝台は贅沢なのでありました。まして当時新幹線を利用するというのはかなり覚悟を決めた行程であったという訳です。今やShinkansenと称する新幹線も昔はNew Tokaido Line(NTL)と呼んでいたのも懐かしいし、BulletTrainと称していたりしました。古いなあ。

当時のNTLの0系の座席はガメツク両面を座席に利用する転換式3人+2人のクロスで銘々に固定の肘掛がついていてどんなに疲れていても、病気で死にそうな目にあっていてもゴロンと横にもナナメにもなれない、そんな0系は座るとアレッと思うような固めの座り心地の椅子でありました。シートとしては中間肘掛はなくても京阪・阪急の特急の方が遥かに出来はよく、NTLの着席は4時間が我慢出来る限界であったと思います。小林氏は痛かったはずなのなのですが辛抱してよく耐えたと思うのです。

 

小林氏のNTL印象

実は3人は最初から同一行動ではなく、川中は出発直前の22日から準特急先輩、藤本、高田各氏と宮津線にロケに行っており、小林、西村両氏は先に上野に行くことになっていました。それで2人は16:30新大阪の2番線で落ち合った後、17:05のこだま142号に乗車することになったのです。乗ったのは最後尾1号車中ほど山側、2人であるからまあD,E席は当然です。

さて50%の効率で新大阪駅を発車したこだま142号は京都からはほぼ100%の客を乗せて一路東京へとひた走ります。これで小林氏の大好きな京阪ともしばらくお別れと思っていると上牧あたりで何かを追い越した。阪急の1600急行であったがあっという間の出来事でありました。※今でもこの辺りで追い抜きますが、ちょうど河原町から梅田に向かって阪急が100km/h超で走ってくるのと同じ相対速度です。約4秒の世界。追い抜きではなく何かあったかなという感覚です。(川中はこだまのビュッフェカウンターに座っていたはずですが食事に夢中で記憶はないそうです)。

しかし17:30頃とはいえ2月であるから外はすでに薄暗く景色を見ることもなく一同退屈な4時間を過ごしてしたのですが、しかし何度乗ってもNTLは素晴らしいと思います。210km/hで走ってあの乗り心地、大いに世界に誇れるものだと思いますね(※これは同感。ただし、25mの定尺レール区間では、ボギーのジョイント音が車長とレール長が同じなので、gatagatan、gatagatam・・・の連続で GATAN tatatata ・GATAN tatatatan(またはGATAGA tan・・GATAGATAtan 乗っている場所で違う)のリズム感がないことや、ジョイントの状態による音の変化がないのが詰まらん。さらに追加。 210km/hは当時の先進諸国の特急の最高速度が160km/hであったことを考えると大いに誇りうるし、この速度が軸受けの許容する限界に近いこと、仏の331km./hの記録が最高で300km/hを超えると鉄輪と鉄軌の摩擦に頼る鉄道ではほぼ限界速度であるというようなことを聞いた。今や、この理論最高速度を超え、狭軌でさえもその気になれば160km/hも常用のレベルであることを考えると正に技術の隔世の感があります)。

ただ、車掌アナウンスの前後になるあのオルゴール、間違って逆に回したのではないかと思われるあのチンプンカンプンの音楽だけはほとほと参りました、途中に止まる駅の数10駅、当時は品川も掛川も三島も、名古屋の手前で放送される「三河安城通過しました」もなかったのですが、その前後に車内案内をするので例のオルゴールを40回聴いたことになり、逆にこれがせめてもの退屈凌ぎになったのです(※申し訳ない。また、編集者がお邪魔します。ただ当時のオルゴールはそれぞれ風情があったと思います。電車は走ってやるぞの「汽笛一声」、DCは峰々が澄んだ大気の先に見えるような「アルプスの牧場」、夜行は旅情を誘う「ハイケンスのセレナーデ」・・・とそれぞれ聞くたびに気分を掻き立てられたものです。なおNTLのオルゴールは、そのあと変更されていますが、「Do They Know It’s Christmas?」のがええと思います。いまだにファンが多いでしょう。この曲は始発と終着のみ流れ、その間は4打音だけのチャイムであったことを覚えておられる人も多いと思います。その後「Ambitious Japan」と「いい日旅たち」になりましたが、「Do They Know It’s Christmas?」の曲の一部のオルゴールがええですね。音符なしでカナを打てばタンタラタンタ  タンタララ タン  タラタン タンタ  タラララタンでしょうか)。また、詰まらないことを書いて紙面、いやメモリーを使ってしまいました。そうこうしているうちに街のビルが建ち始めた田舎の雰囲気が残る新横浜を超え、東京に着いたのです。)

 

友よりビュフェ

東京駅についた後、ワタシと西村氏の2人は京浜東北に乗換えて車中の注目を浴びながら上野へ。上野の地上ホームへ入りかけたところ、西村氏が「あれ川中と違うか?」という。5m先をのたーっと歩いている男を見ればそのみすぼらしい姿の男は正に川中氏そのものではありませんか。「川中!」と呼ぶと振り向いて「何でこんなとこに居るねん?」「北海道に行くんやろ。別におかしいくないやないか」と2人。彼は頭がおかしくなったのではないでしょうか。準特急先輩に洗脳されて狂ったのかもしれませんね。2人と同じ「こだま142号」に乗っていたのですが食欲を優先させていたようでありました。

「何で車内を探さんかったんや、一番後ろに乗る言うたやないか」平然として「腹が減ったしビュフェに近い5号車に乗ってしもうた。新大阪出てすぐビュフェで食べたさかいに探す暇なかった」。2人のコメントでは、これから一緒に旅する友人よりもビュフェの方が良いのでしょうか。そういえば彼の大飯食らいはたいしたもので北海道に入ってからでも、飯メシの連続でありました。(※しかし言わせていただくと、このおかげで皆欠食することなく寒さにも耐えることが出来たと思います。また100%を超えている乗車率の中、確保した席を放棄して探しにいけると思いますか?至ってまとも、狂ってはいないと思いますし、長躯、宮津線から駆けつけ、そりゃ腹は減っていますよね、ということで半世紀前の出来事、ご容赦いただきたい)

「急行十和田」の人になる

小林氏の手記に戻る。さて我々の御座席は205レ急行十和田のハ。ハネでもハザでもましてやロザ、ロネではなく、何もついていない基本の「ハ」。「ハ」であります。その205レは⑲番線からの発車、⑲番線には各乗車位置にはすでにそれぞれ20人位の列ができているではありませんか。我々が乗るのは先頭の12号車。とりあえず列に並んでみたものの、こりゃ混んでおるワイ。、その辺をうろうろしていると並んでいる列の上に掛かっている乗車札には「十和田5号 青森行 2等2列」とあるやおませんか。頭脳明晰なる(と自認している)ワタシは「?」と気が付いた。皆様は何故かお分りかな?客車の扉は狭いので並ばせるのは1列のはずである。2列はおかしいではないか。今並んでいるのは11号車と12号車の両方にまたがっている乗車口なのではないか。ひょっとすればまだ先、機関車寄りにデッキがあるのではないか、かく考えたワタシは列から離れ1人ホームを歩いていきました。あった、あった。「2等車1列」がありました。柱の影に隠れていて札が見えなかっただけであります。我々がそちらに移り先頭で乗り込んだことは言うまでもありません。

※教訓

  • 列に乗客が既に並んでいても他にないか知識を動員して列を確認すべし
  • 2列で並ぶときでも女子がいると必ず1列にしか並ばない。勇気を持って横に並ぶべし
  • どの列も列が長くて座席が確保し難いと判断すれば、中間駅では後ろから乗るべし
  • 万一、席にありつけないときは、デッキや入り口に居らず空きそうな座席の前に立つ
  • クローバー会メンバーは紳士であるので、床に座ったり低級なマネはしない。

というところであろうか。最初の教訓以外は付録ですけど。

上野駅
こんなに人がいなかったっけ。ということは誰も並んでいない先頭で撮った?左より1900生、西村、KAWANAKA

無事座席にも着けたので、発車まで30分もあり編成調べに。22時とは言え上野駅は見送りの人などで混雑、発車前の何ともいえない雰囲気が漂う。寝台のおっさん、夜食を売店で買い込んで席に戻る人、何が旨いものがあるか物色する人、ボックスシートでくつろぐ人・・・。さっと客を乗せて無表情で発車してしまう夜行バスや窓の開かない電車ではこうした人間模様はない。人がガヤガヤいて人間くさい雑踏の駅頭こそ鉄道旅の始まりに相応しい。北へと向かう胸が高鳴る。北へ言うだけで旅情があるではないか。そこにノートを持ってナンバーを調べにいくのは旅情にそぐわない。気の弱いワタシは非常に恥ずかしい。一緒に行こうと言っても誰も行ってもくれない。仕方なく調査した結果は、

←(青森) EF8023[田端](日立)=⑫ナハフ11 2029+⑪ナハ10 2905+⑩ナハ11 2050+⑨ナハ11 2062+⑧ナハ11 2075+⑦ナハ10 2087+⑥オシ16 2006+⑤スハネ16 2331+④スハネ16 2224+③スロ62 2041+②オロネ10 2056+増①スハネ16 2216+①スハフ42 2054

下線は乗車客車で機関車の次位であることを示します。正に急行列車に相応しい堂々の編成で13両、うち1両の食堂、各1両のロザ、ロネ、2両のハネを含み、凡そどのような客にも対応できる編成で素晴らしい。なお、所属は増①が盛アオ、その他が東オク。カマは水戸から[青]のED761003(日立)でありました。

上野からの夜行列車と駅頭の雰囲気として福音館社の「やこうれっしゃ」から引用しました。ついでに117系の新快速に乗って草津?から西明石まで旅する絵本「電車にのった」もいいですよっ。

ホームの雑踏を乗せて急行「十和田」はグイッと連結器の軽い衝撃を残して北への旅へ。さて、川中氏はといえば、また「ビュフェに行こう。夜食食べよう」と矢の催促、こだまで食したんですよ、困った人ですねえ。何でもビュフェは23時でクローズなので20分間のうちに行かないとアカンという。でも「今、食べとかんと朝まで食べられへんで」とおどされ、また1度オシ16に乗ってみたいと言うこともあって参加。やはり深夜なのでたいした物はなくサンドウイッチとオレンジジュースの夜食となった。このオシ16はフラットを起こして高い打撃音を響かせて走っていた。一方我々の乗車は機関車次位である。静まった客車に機関車のモーターの唸り、波のうねりのような機関車の連続ジョイント音と思い出したようなホイッスルがこだまする。電車区間をゆっくりと走って次第に寝静まりつつある夜行列車の雰囲気を醸し出していく。

水戸でカマの交替を見る。0:35であった。代わってED75に引かれた「十和田5号」は時折ホイッスルを奏で夜の闇を切り裂き長躯青森目指して走る。日立を過ぎる頃には瞼が挨拶してくる。まず、川中氏が「座ったままでは寝られへん」と床に新聞紙を敷いてごろ寝、続いて原ノ町から西村氏が。結局最後まで座席で頑張ったのは○゙のワタシだけでありました。機関車の次位につけている客車であるので遠慮なく床に寝ることができた訳であります。

※途中、目を覚まして奥中山はどうなったかなと、なんと言うことはない、何事もないように80~90km/hで快走通過。また再びごろ寝を決め込み、目が覚めれば一面雪の中の青森。正に津軽海峡冬景色の歌詞そのもの。もっともこの曲は1977年(昭和52年)の発売18歳の当時可憐な石川さゆりの歌なのですが、発売前なのでそのころはそんなことを思う人はいなかった、北島三郎の「は~るばる来たぜ函館~」、というのが当たっています。

北の大地へ

当時は渡道するのは連絡船を利用するのが普通であったので、当時よく売れた実業の日本社刊のブルーガイドブック(青い表紙の旅行本)にも、「長い汽車旅で飽きたころ青森に着く。車中で乗船証が配られ記載して連絡船に乗り込むが、旅なれた人は我先にと走っていく。転ぶと詰まらないので落ち着いて乗船しよう」なんて書いてある。その乗船証を車中で書きたかったのであるが、到着直前でなくなり、桟橋で記入して、いよいよ乗船。乗船名簿を書くのは万一のときに、何処の誰兵衛と分かるようにであるが、小林氏には沈まないことが分かっていても良い気分でないと思っていたそうな。

※実は昭和29年の9月26日、台風下函館を出航した連絡船洞爺丸が転覆し1155人が亡くなったことがあった。最近は気象の予報もまともになっており、船自体のシブトさも向上しているので、沈没するときはよっぽどのときで、あの世から呼ばれたとき位であろう。

連絡船は一番新しい十和田丸、12:30貨車積み込みの時間延で15分遅れで出航。例のブルーガイドブックには、「初めて乗船する人は連絡船の大きさと立派さに驚くであろう」と書かれているが、正に小林氏の印象は図星で、いす席を選んだがその立派なこと。高田君が1等と間違えたのも無理からぬことと思ったとある。その1等は200円だったと思うが、このとき、この値段では安いと思ったのか川中はその後の旅ではずっと1等に乗っておった。1等に乗って、レストランの海峡ラーメンをすするなんて、このアンバランス感もええと思いませんか(因みにこのときは3人とも食していない。ただ連絡船最期になってくると。この海峡ラーメンを食することが必須になっていたけど、編集者=川中は、そのときでも混雑ゆえ最後まで食することができなかった。そんなに旨いのかな。ラーメンごときで「食い」はない、と言いたいけど。どうでも良いか)。

写真を見ると、西村氏、KAWANAKAは同じソックスを履いている。偶然だが、当時はそれだけしか選択肢がなかったのかも。
なお、本当は別写真で「ほっとして寛ぐ小林・西村の両氏。カーペット席もあるが座席であるので、北へ向かう閉ざされた連絡船の雰囲気はない。楽しそうである。これからの寒さも知分からず談笑しておる」と載せるつもりでありましたが、肝心の写真が見つからず・・・。出てきたら追加します。

いよいよ北海道。は~るばる来たぜ函館~。

新大阪出発から夜行急行に乗り継ぎ1日近くかかりようやく北海道の入り口まで来た。ここまで「待て」が掛かっていたのであるから北海道に一歩を印すということは大きな期待と、はるばる来たぜ、の感激がひとしおであったのであります。

以下2号車に続く。

北海道寒中見聞録-半世紀前の旅物語 1号車」への6件のフィードバック

  1. 読者の皆様
    「寒中北海道見聞録」号1号車にご乗車ありがとうございました。実は我々3人が京都を旅立ったのが昭和44年2月23日です。その48年後の2月23日に合わせて投稿すべく、KAWANAKA殿が忙しい仕事の合間をぬって 長文を入力して頂きました(とは言え、まだ1号車です。何号車までつないでいるのか、まだ編成調べができていません)。何とか定時発車は果たしましたが、急いで飛び乗ったこともあって、誤記がありましたので 訂正しておきます。登場人物紹介で私が’64年度生となっていますが ’68年度生です。お二人の’66+2なのですが ’66-2=’64となったようです。それではこれから始まる長旅におつきあい下さい。

    • KAWANAKAです。
      すんません。事前のチェックでご指摘がありましたが、どこからか空気が漏れていて合わせて4年ほど老けさせました。我々この年では4年の差は貴重。改めて申し訳なし。
      西村様は後半担当です。併せてご期待。

  2. この五十年で外見がほぼプロトタイプのままなのは西村さんだけで、あとの二人はアコモ改造で原型をとどめずですな

  3. 米手作市さんのような高尚なコメントはできませんが、確かにKAWANAKAさんとは天橋立の股のぞきをしておりますが、そのあと直ぐに北海道に行かれたとは今日初めて知りました。行程表を見ますとお三方が帰られる頃に私も入れ替わりで渡道しております。牽引機関車や客車編成を記入されているのを見ますとその時代に戻った気分になります。期待しております。

  4. いやいや、素晴らしい企画。1号車でワクワクしてきました。2号車以降楽しみにさせて頂きます。早春の楽しみが増えました。半世紀前の情景が浮かんでします。有り難うございます。

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