京都市電600型研究

前・スレッドが伸びすぎましたので続編として新しく立ち上げます。

昨日、旅に出るので帰るまで待ってください、と言ったのですが、こんなおいしいごちそうを目の前にして頂かずにおられましょうか!
旅の準備は後ほどにして早速調べました。

烏丸車庫615

行き先から「烏丸車庫」と思いましたが、軽々には判断できません。まず所属を調べました。写真から、宮崎様の仰るとおり新製間なしと思われます。昭和十二、三年頃の所属表は長老様の資料にもありません。最古の資料でも昭和21年9月21日です。これによるとこの615は壬生車庫に所属していました。確かに壬生車庫の建物に似ています。しかし、手元の写真と見比べますと屋根の形が違います。中央の高いファサードが水平に箱形ですが壬生車庫は三角形をしています。私は烏丸車庫に入ったことがなく、写真も持っていません。そこでネットで探したところ、見つけました。

⇩その前に版権者のご説明。
撮影はADU様
出典は「路面電車のアルバム」より「京都市電編」から転載使用

ADU様撮影
烏丸車庫1974年3月31日

ほぼ同じ位置からの撮影と思われますので撮影場所は烏丸車庫です。

所属は戦争を挟んだ10年で大きく変わったのでしょう。横に写っている127号も21年の表では抜け落ちています。それまでに廃車になったのでしょう。

ところで、車内の写真は大変珍しく、参考になります。

原型600車内 新製時

照明の位置や形、中央の背中の当たる部分に何もないこと(市電の系統図が貼ってありました)、出入り口の戸袋に経由地が出ていること、座席の両端がはめ殺しになっていること、つり革の輪の形など興味が尽きません。

では、宮崎様、帰りますまで束の間、おいとまします。帰ってきたらご馳走が並んでいることを楽しみにしております。

京都市電600型研究」への73件のフィードバック

  1. 米手様
    烏丸車庫で間違いないと思います。昭和43年5月11日に行われた新入生歓迎烏丸車庫見学会での2600型の写真の背景に特徴ある車庫が写っていましたので添付しておきます。

    • 西村様
      証言、ありがとうございます。
      烏丸車庫は行ったことが無いため不安でしたがこれで安心!

  2. 米手さま、西村さま有難う存じました。御陰様で、撮影場所が判明し、記録の価値も向上しました。宮松氏は、同時に正面写真も残しているので、載せておきます。後年、向かって左上のルーバーが塞がれ、シングルポール化されたときに、左側ポールを撤去し、リトリーバーも無くなりました。裾周りで、ステップを隠すように、側板が三角形状に正面へと回り込んでいます。これは無い車もあります。増備を重ねる中で、途中から設計変更されたものかもしれません。

  3. 米手さま御留守の間に、御馳走を.。これは如何でしょう? もう食べたとおっしゃられると困りますが。戦前ダブルポール時代の形式写真は、あまり見られぬので、お許し下さい。宮松氏が615号と同時に撮影されたと思われる、612号です。行先は「銀閣寺」、経由は「千本通」を表示。当たり前ですが、615号と殆ど同じです。敢えて違うところを探すと、前投稿で触れた、側板の回り込みがなく、ドアスッテプの蹴込みが、見えています。正面左右窓の上部は、ヒンジ付小窓で上部へ跳上式。これは戦時中か、戦後直ぐに除去されたらしく、後年は見られません。後ろにチラリと見える、広軌1型、119号はオープンエンドで、612号は、如何にも近代的に見えます。

  4. 戦前の600形形式写真は、これでおしまい。廣田章一郎氏が撮影した641号です。どこの車庫なのか、判りません。既にお目に掛けた612や615と較べると、ポールフックの補強が無く、簡易化されています。そんなに頑丈にせずとも大丈夫と考えたものか。行先表示の「油小路」が、判りません。「京都市電が走った街 今昔」を参照しましたが、発見できず。後に改称されたものでしょうか。東京にも「甲州街道」とか「青梅街道」など、余所の人には、どこにある駅か、てんで判らぬ駅名があります。小生も調べて、「油小路」がどこを通る道なのかは知れましたが、停留所がどこなのかは、判りませんでした。

    • 宮崎繁幹様
      今し方帰って参りました。で、すぐに開いてみましたらおいしそうなご馳走が冷めかけていましたので、取るものも取りあえずお返事いたします。
      641号の写真撮影場所は九条車庫だと思います。「油小路」とは九条油小路のことでしょう。今は京都駅の西にある堀川通りと一緒になっていますが、戦時中の疎開で拡張された事で油小路通りとひっついてしまい、東海道線以南は堀川通りも油小路と言うようになりました(というより、そもそもこの辺りでは堀川通りというのはなかったのかもしれません)。
      写真は昭和12年11月22日から14年2月21日の間に撮られたものではないかと思います。東から建設が進む九条線は昭和12年11月22日に九条車庫と九条油小路間が開通します。そして14年2月21日には九条油小路と九条大宮間が開通します。その1年3ヶ月間だけ「九条油小路」が終点でありました。
      「軌道事業略史・京都市交通局編」参照

  5. 米手さまには、帰られて直ぐ、お疲れのところ早速に、調査・回答頂きまして、有難う存じました。場所(車庫名)だけでなく、撮影時期まで行先から、推定できるのか!、と感心致しました。短い期間のみの終点であった訳ですね。。「京都市電が走った街 今昔」の地図を見ますと、最後は九条近鉄前になった電停名のようでした。さて641の写真(▲▲)を御覧に入れたのは、少し訳があります。実は、宮松コレクションには、同時に撮られたと思われる乾板(▼)がありました。若干構図が異なりますが、問題はお判りですね!80年の間に、悲惨な状態に陥る乾板もあるのです。支持体(ガラス)と感光乳剤層は、物性が異なるので、夏冬で伸び縮みする時、同じようにはいかない。積り積もると、こうなる乾板もあります。お目に掛けたのは、恐らく撮影後、間を置かず焼かれたプリントです。フィルムも最近は、ビネガーシンドロムで大変と云われますが、大昔の乾板は更に大変なことになるかも。それを防ぐのは、プリントで保存、そして方々に配っておく。そんなことしなくても、デジ画像で配ったら?、その通り!! デジ青の皆様は、小生の「ホケン」をお願いしているとも言えるのです。今後も、どうぞ宜しくお願いします。

  6. 宮崎繁幹様
    “悲惨な写真”を見せて頂きましてありがとうございます。
    私はカメラ店をしておりました(東京の“カメラのきむら”に勤めておりました)のでよく解りますが、ネガでも同じ事が起こります。ベースのフィルムと乳剤の経年変化による収縮率が違うのか、湿度や温度により差が出るのか分かりませんが、亀裂や縮緬皺が出たのを見ています。デジタルで残すのがいい、といいますが、これも問題ありです。初期のフロッピーはすでに無く、メディアチップも今はSDカードですがコンパクトディスクやメモリースティックは何処へ行ったのでしょうか?フィルムにおける35㎜や2Bや110ならなんとしても見られます。この先、SDカードもどうなるでしょうかね?やっぱり写真というハードコピーが一番だと私は確信しております。

  7. ダブルポール時代の終わりは、終戦とほぼ同じです。シングルポール時代へ参りましょう。とは云っても、米手さまが調べて下さった通り、この時代は10年ほどで、記録も少ないようです。小生のコレクションにも600形は1枚しかありません。井口悦男氏の撮影で、614号。記録がシッカリしております。昭和25年3月22日に、加茂大橋で撮られたもの。ポールのシングル化だけでなく、正面左右小窓の撤去、塗分けの変更、進駐軍指示による電車追越し時の速度制限表示等々。戦災に遭わなかった京都でも、変化が激しかった時代であることが、読み取れます。

    • 宮崎繁幹様
      加茂大橋・通称“出町柳”です。系統板を付けていないので分かりませんが、1号系統か3号系統か補四号系統のいずれかでしょう。当時は錦林車庫がまだ出来ていないので、すべて壬生車庫の所属です。系統板が付いていれば“赤”です。

  8. 米手さま、素早いコメントを有難う存じます。京都の地理に疎い小生は、いつも路線図片手に、拝見していますが、この辺りは同志社大の近くですね。西村さまに倣い、ストリートビューで現代にタイム・スリップしてみました。左手のお寺はそのまま、電停がバス停に変わりましたが、雰囲気は70年前とあまり変わらぬような気が致します。京都と云う街のなせる業でしょうか。

    • 宮崎繁幹様
      バスの後方に同志社大学があります。前方には京都大学があります。運がよければ交差点の真ん中で、こたつを囲んで鍋料理が食べられます。

      • 米手作市さま
        交差点で食べる鍋は美味しかったのでしょうか?ゆっくり味わえなかったのではないでしょうか。学生時代は少々羽目をはずしても大目にみられた時代もありましたが、それでも人さまに迷惑をかけるのはいけませんね。DRFCでは宵の八坂神社石段でバンザイ三唱をしたり、深夜の烏丸今出川でレールに10円玉を置いて市電のポイントを切り替えて遊んだりしたくらいで、迷惑をかけるような狭軌いや狂気の沙汰はなかったですね。

        • 1900生様、
          「人に迷惑をかける」など、断定はいけません。ノーベル賞を多くもらっている大学のこと、きっと深慮遠謀があってのことでしょう。近々、いい発表があるのでしょう。

  9. それでは600形ビューゲル時代へ、移りましょう。と思ったが、614号の撮影者、井口悦男氏の写真の中に、以前取り上げたパンタ試験車があるのに気づきました。600形ではなく、500形535号です。スレッド・タイトルから外れますが、珍しい記録のようですので、御許しを願い、ご紹介しておきます。昭和26年5月20日の撮影、場所は京都駅南口引込線とあります。

    • ひとつ書き落としました。方向幕の表示が、ナント「故障」になっています。パンタの調子が、よくなかったのでしょうか。しかし京都市交通局の御方は、正直ですね。最近のどこかの役人とは、大違いです。

    • 宮崎繁幹様
      535号は8月に故・羽村宏先輩が撮られた写真が残っております。この場所は、現在のアバンティー、ホテル京阪の場所です。

    • 宮崎 繁幹さま
      パンタ試験車の写真に絶句です。しかも500型で試験とは。超貴重な写真ではないでしょうか。引込線については2つ後のコメントに米手さまが書いておられますが、ここに伏見線を管理する九条車庫の出先機関(正式名称は不詳)がありました。高倉の陸橋を下がってから、伏見方面に向かって右側へ分岐していたと思います。ご紹介の写真では1線ですが、記憶では2線あったように思います。通常は朝ラッシュ後に間引かれた市電が数両留置されていました。九条車庫への回送のムダを省くためだったと思われます。伏見線の乗務員もここで交代していました。

        • 1900生さま、米手さま色々とご教示下さり有難う存じます。京都市電は出版物も多いですが、運行や施設に関する記述は限られています。実際に見聞された方々のお話によって、一枚の写真も大きな意味を持ったと思います。

  10. 寄り道を致しましたが、600形ビューゲル時代へ、進みましょう。いちばん最初に、米手さまの呼びかけに応え御覧に入れた、高倉陸橋の603号のGordon Davis氏が撮影した、N電25号との並びです。残念ながら600形の方は、車号不明。彼とは三十年来の友人ですが、この外人さん日本語は全く話せないのに、良い撮影場所にちゃんと行っているのが不思議です。野次馬的な見方をしますと、旧車N電が600形に、最近ハヤリの煽りに会い、何とかデュアルゲージ区間から脱出しようとしているところです!昭和30年頃に撮った、と聞いています。

    • 宮崎 繁幹さま 米手作市さま
      30年頃といえば母の大丸百貨店への買い物についてよく乗っていた直後の頃ですね。区間が大宮五条~四条大丸前だったので、その際には写真のような風景はごく当たり前のものでした。特にN電が煽られていたような記憶はありませんが、写真はまさにそんな風に見えますし、そうイメージすることで情景に楽しさが加わりますね。
      あるとき九条車庫所属の500型⑦系統で出かけた時でしたが、丁度写真の辺りで乗車中の500の屋根が焼けてボヤになり、全員下車させられたことがありました。事件の細かいことは忘れたものの、キナ臭い匂いが漂ってきてほぼ満員の車内が騒然となり、我先にと脱出して難無きをえましたが、降りてから500の屋根を見上げるとSLのような小さな煙突状の筒が出来ていました。いま思うとよく無事だったと思います。架線のスパークが原因だったのかもしれません。
      N電はあちこちで随分見ましたが、乗ったのはただの一度きりでした。家が大宮五条だったため、元々北野線を利用するシチュエ-ションではなかったわけです。どういう機会に乗ったのかも忘れましたが、とにかく通路が狭く向かいに座った人がすぐ目の前に居たように見えたことと、走行時に上下・左右にやたら揺れたことを憶えています。最終日に北野電停を通りかかったので暫く眺めていましたが、当時は中学生でカメラなど持っていなかったため撮れませんでした。悔いが残ります。

  11. 宮崎繁幹様
    これはまた、当会の古い会員にとって、感慨無量の一枚です。
    後ろに写っている「京都産業相互銀行」は1964年に「京都相互銀行」となった銀行です。会員の一人がこの銀行に勤めていました。
    場所は、四条西洞院。N電はこれから右へ曲がって西洞院通りを南へ、京都駅まで行きます。三線軌条がよく見えますね。

  12. 米手さま、1900生さまには、いつも現役時の市電のお話を聞かせて頂き、有難う存じます。余所の者には、京都市電と云うと先ずN電を連想しますが、実際は極く一部ですね。都市交通の手段には、とても無理だったとは思うが、有名なサンフランシスコのケーブルカーの様に残っていれば、有力な京都観光資源になったのでは、と夢想してしまいます。小生の600形所蔵写真も終わりが近いのですが、1900生さまに700形をお目にかけるとお約束しましたし、N電が出たので、また寄り道をして、ツーショットを御覧にいれます。撮り人知らずですが、撮影月は、昭和34年8月と記してあります。700形登場直後か。両車の歳の差は、60年以上あるのではないでしょうか? 場所は、先の写真と同じかと思いましたが、三線区間の逆の端のようです。

    • 宮崎繁幹様
      ここは四条堀川東詰です。堀川中立売から堀川通を下がってきたN電が四条通と合流して東へ曲がると、次が先ほどの四条西洞院、一区間だけの三線区間です。700型は昭和33年新製です。

  13. 京阪地区の皆様には、ご災難でした。一夜明け、落ち着かれましたでしょうか。ひとことお見舞い申上げます。能天気に電車で遊んでいて、よろしいのか?、と自問自答致しましたが、私どもにはこれが元気の素と、勝手に解釈し続きを発表したく存じます。再び600形に戻りまして、京福との交差を渡ろうとする656号です。撮り人知らずですが、撮影月は、昭和34年5月とあります。左側に立つ人は、旗を手にしています。交通局の踏切番(?)の方でしょうか。架線を見ると、併用軌道の市電はカテナリー、専用軌道の京福が直接吊下式のようです。何だか逆のような。市電は高級志向だったのか、或いは高速化対応だったのでしょうか。

    • 宮崎 繁幹 さま
      お見舞いのお言葉を有難うございます。今日の昼前にもややきつめの揺れがあり、気持ちのいいものではありませんが、地震ですから致し方ありません。また当掲示板の読者には先の阪神淡路や東北大震災の時のような甚大な被害を被られた方はおられないと思いますので、東方から送られて来た元気の素をご一緒に楽しませていただければと存じます。
      これは当時の叡山本線「元田中」交差点で撮られたものですね。市電は東山線南行の⑥系統京都駅行のようです。京福は写真からもわかるように左下から右上方向に斜めに八瀬に向かって交差していました。余談ながらこの数年前まで右下~右上方向に渡り線があって、競輪開催日に市電が宝ヶ池まで乗り入れていました。市電はビューゲル、京福はトロリーポールの時代でした。なお手旗の係員は京福の人です。市電との交差というより、京福が東山通りを横断するための警戒要員として配置されていたものと思われます。

      • 1900生さまには、毎度教えて頂き有難う存じます。手旗の係員は京福の方でしたか。今は、この踏切は遮断棹が付き、普通の踏切になったようですね。昔は信号だけで、係員の方も神経を使う大変な仕事だったことでしょう。京都市電は、他線との平面交差が多いので有名でしたが、全て信号(と警手)のみで、遮断棹などは無かったのでしょうか?

        • 宮崎 繁幹 さま
          この京福との交差のほか、京阪との交差も含めて大きな道路との交差部分は基本的には信号と警手でしたが、京阪と交差の四条・七条には昇降式の遮断棹が付いていました(昔の遮断機と同じものです)。京阪が横断する際にはけたたましいベルの音と共に警手が詰所から飛び出て来て、通りの中央で笛を吹きながら両手を拡げて車と歩行者を遮り、ややあってからスルスルと遮断桿が降りて来た様子をハッキリ憶えています。余談ですがその降りた遮断桿に沿って道路を横断する人も多くいました。横断中や京阪通過を待っていると、よく断路器の「パカッ」という大きな音に驚いたものです。発車してこの辺りで制限速度に達するので、一旦ノッチオフしますが、その際に大電流遮断時の火花を吹き消す装置の作動音でした。最近のVVVF車では味わえない昔の電車の懐かしい音でした。

          • 御丁寧な解説を頂戴し、有難う存じました。永年の小生の疑問が氷解しました。 当時の踏切の様子が生き生きと伝わって参ります。1900さまは、京都市電の語り部であらせられます! 

          • 「パカッ」の意味を、今知りました!
            “火花を吹き消す装置”てな装置が付いていたのですか?作動原理を知りたい。

  14. 宮崎繁幹様
    ご丁寧なお見舞いの言葉を頂きまして、会員一同に代わりましてお礼を申し上げます。
    ご心配を頂きましたが、今のところ当地の会員には大きな被害はございません。どうぞ今まで以上にご投稿をお願い致します。貴重な写真ばかりで大いに期待しております。
    さて、今回のお写真は、すでに1900生さんからご説明を頂いたとおりですが、停留所名は「叡電前」です。昭和24年12月から宝ヶ池に競輪場が出来て、開催日に市電の1000型が渡り線を使って宝ヶ池(当時は「山端・やまばな」)まで直通で運転されました。これまでには大変な苦労があったようで、市電は軌道法、京福は地方鉄道法の制約下にあり、さらに車高や車幅の違い、速度性能の違いなどで運輸省をはさんで調整に苦労したとのことです。この成功により全国の市交と私鉄の相互乗り入れが現実化してきた、と「軌道事業略史・京都市交通局編」には書かれています。
    それから1900生さんのご説明で「市電はビューゲル、叡電はポール」とありますが、どちらもポールでした。そのために乗り入れる1000型は最後までポールでしたがビューゲルに換装されるに及んで乗り入れが終わった、とのことです。

    • 米手作市さま
      間違いをご訂正頂き有難うございました。「元田中」は京福の駅名で、市電は「叡電前」でした。
      またポールとビューゲルの点は説明不足というか舌足らずでした。宮崎さまからカテナリーと単線架空線のお話が出ていましたので、市電と京福をイメージしてコメントしてしまいましたが、文脈からはビューゲルで乗入れていたとの意味になり、不適切なコメントでした。
      ところで市電に関するいい「バイブル」をお持ちのようで羨ましいですね。また色々とお教え願います。

  15. それでは前期型の最後の一枚をご紹介しましょう。これ以降の写真は、みな撮り人しらずです。撮影月は、昭和34年11月と裏面にあります。場所、これは小生にも判りました。京都駅前を出て行く631号です。駅前乗り場で、小生はウッカリ直前横断をして、警備のオジサンに、「アカ~ン!!」と怒鳴られたことがありました。怒られたことは、先生や親父、上司など数々あれど、「アカ~ン!!」とやられたのは、この時のみで、よく憶えています。

    • 宮崎繁幹様
      懐かしい写真です。
      昭和34年11月と言えば私が中学二年生です。烏丸車庫所属の6号系統ですから私も乗っているかもしれません。
      交通整理の警官が乗る台、右手の中央郵便局(今は京都タワー)、かつてのラクヨーホテルは関西電力京都支店になっています。現在はその間に新阪急ホテル、オムロン本社などビルがつながっています。

  16. 米手作市さま
    先のお尋ねですが、もう返信欄が続けられなくなりましたので新たに項を起こします。パカッについて少々説明させて頂きます。以前にぷるぷるさんから聞いたことがありますが、小生の理解不足などにより充分ではない可能性がありますことをお断りしておきます。要するにノッチオフ時にスイッチを切離して大電流を切ると大きな火花が発生するので、高圧空気を瞬時に吹きかけて火花を飛ばす時に出る音なのです。断路器(社により名称が異なるかも)という機器が山側(京阪の場合大阪に向かって左側)床下にあり、タイミングによっては目の前でパカッとやられてビックリするわけです。一応制御器のカム軸などでゴトゴトと電流量を変換して速度調節をする昔の電車に付いています。これ以上の詳しい説明はぷるぷるさんに聞くしかないようですが、これは叶わぬことになりました。

    • ありがとうございます。
      電気仕掛けのカラクリなど、全くの無知な私(河 昭一郎様に怒られる!)なので、「パカッ」はブレーカーでも飛んだのだろうと勝手に解釈していましたがそんな大層な仕掛けと意味があったとは知りませんでした。でも、ちょっと想像してみるとなぜか笑えてきますね!
      パカッの一言で何を言ってるかが分かるのも面白いですね。

      • 米手作市さま
        拙い説明でおわかり頂けたのは嬉しいです。ついでにブレーカーと聞いて市電のブレーカーに驚いたことを想い出しました。市電のは前後どちらかの運転台の天井に設置されていました。下校時などよく車掌台の反対側、つまりコントローラーの真ん前辺りに陣取って後方を眺めていたものですが、たまたま車掌側に設置されていて少々荒っぽい運転をする運転士の場合によくボカッとビックリさせられたものでした。例えば信号が変わりかけて急にコントローラーを上げて急発進した場合によく飛んでいたようです。モーターに許容以上の電流が流れたのではと思っていました。その音たるや到底パカッの比ではなく、頭上で何かが爆発したのではと思うくらいの大迫力の轟音でした。いっときその音が怖くなって頭上にブレーカーを見つけた時は車内へ場所を移して逃げていました。いつもどうでもいい話ですみません。

        • 人間の五感に対応する記録は、圧倒的に、視覚を写真として残したものです。聴覚(音)は、それに次ぐと思いますが、残されたものはずっと少ないですね。言葉で、残して頂くのは、大変興味深いと思いました。

  17. さて米手さまの御誘いがあったのを良いことに、延々と続けてきた600形の写真発表も、あと少しで終着となります。今回は、ラス前に引っ掛け、600形のラス前、694号の写真で、御機嫌を伺うことと致しましょう。後期型は、車長が伸び、車端の絞りが無くなりました。優美さ失ったとも云えるが、良く云えば堂々とした感じになったとも言えましょう。昭和34年8月の北野での撮影の由です。架線がカテナリーで立派、自動車が殆ど見えず、京都市電の専用道路のようです!

  18. 宮崎繁幹様
    お久しぶりです。お待ちしておりました。
    写真を拝見して場所が何処か、気になりました。
    昭和34年8月、北野付近、20号系統、
    光線が左手前から差しています。20号系統は千本北大路からに西大路通を南下して白梅町から今出川通を東へ、千本通から四条通へ入り四条河原町で折り返します。さて、このコースで写真のような光線になるのは何処でしょう。夏ですが北側から日差しは入りません。午前と午後では変わりますが道幅からは今出川通か西大路通でしょう。今出川通りであれば午前中に西向きに走っていることになります。西大路通なら午後に北上しています。右にかすかに見える山並みは、今出川通の西向きでは距離感が合いません。西大路通りであれば「左大文字」の感じになります。従って私の見立てでは「西大路通の白梅町から金閣寺方面へ走行中」との結論ですが、土地勘のある1900生さんや今出川淨福寺さんはどう思いますか?方向幕が三文字なのが気になりますが、「金閣寺」と書いてある可能性もあるのでは?

    • 米手作市さま
      北野付近の⑳号系統も懐かしいですね。前述の通りわら天神前に住んでいたので、市内繁華街へ出る時はこの系統を利用し、家族と一緒に随分愛用しました。なのにこのような写真すら撮っておらず、記憶にのみ頼るのが悔やまれます。因みに市バスは殆ど利用しませんでした。
      ところで本題ですが、方向幕が金閣寺であれば午前中の西行ではないかと思われます。京福北野線を押しやって開通した白梅町~千本今出川間ですが、東西方向に走っていたのは僅かで、撮影予想区間の北野付近は概ね北東~南西方向に向いていましたので、整合は取れると思います。なお⑳系統は我々の学生時代は四条河原町折り返しで、円観でのコンパの後は祇園石段下で万歳三唱をして、更に有志で木屋町辺りでお茶をしてから、ぷるぷるさんらと最終電車に乗って帰るのが常でした。いつ頃だったか忘れましたが、後にギオン~熊野神社前~天王町~銀閣寺へと延長されました。

      • 1900生さまのコメント中に、「ギオン」があるのに反応しました。京都市電の行先表示に「祇園」はなく、必ず書き下しの「ギオン」であった、と以前記されていたと思います。証拠?があるので、貼っておきましょう。

        • 失礼!よく見たら、「ギオン」ではなく、「ぎおん」でした。或いは、カタカナ表記もあったものか?

  19. さて、もう1回で600形は、御仕舞にしようと思っていました。ところが昨日、600形写真の最初の1枚の撮影者、Gordon Davis氏から、大量の写真が届き、中に600形の写真も2枚ありました。せっかく地球を半周りして届いた、米国ファンの好意ですので、飛び入りで御紹介したく存じます。900形が、前後を600形に挟まれ留置されているのは、烏丸車庫。昭和31年5月撮影とのことです。戦前の写真で、米手さまが判定してくださった車庫も遠方に、見えております。路面電車の車庫は、狭苦しいものが多いが、烏丸車庫はゆったりとした感じを受けます。

    • 宮崎 繁幹さま
      返信ではないのですが、何度も烏丸車庫と読んでいるうちにまた妙な想い出に至りましたので少々書いてみます。烏丸車庫前電停での市電操車のことです。学生時代、烏丸今出川~烏丸車庫前~わら天神前と通学していたのですが、普段は直通で走る京都駅前発烏丸通り~北大路通り経由の④号系統に乗車していました。しかし烏丸車庫は京都駅からだと市街地を30~40分かけて走った地点に在りましたから、道路交通事情により遅延することがままありました。そんな場合は一定時間以上遅れると、一応ダイヤを確保するために車庫から予備車と予備乗務員が駆り出され、臨時の代車を仕立てることがありました。また乗車系統以外の遅延によって車庫前で突如系統が変わり、降車して後続に乗換を余儀なくされることも度々でした。変わった例では京都駅発東山通り経由の⑥号系統が大幅に遅れ、例によって車庫始発の京都駅行⑥が特発され、遅れて着いた⑥は車庫前で打ち切り入庫になって、お客が降ろされたことや、たまたま四条烏丸発烏丸通り~北大路通り~千本通り経由の壬生車庫所管㉑が停まっていた時に、後続の烏丸車庫所管⑤系統が打ち切りになり入庫しましたが、この時はまさに発車しようとしていた㉑の乗務員に、電柱に設置してあるスピーカーから「壬生さん壬生さん、後の⑤が打ち切りになったので乗り換えてもらいます。暫く待って下さい」と放送があり、お客が乘り移ってから発車して行ったこともありました。これなどは㉑と⑤のルートが四条大宮まで重複していたからできたのだろうと思っていました。こういう操車は壬生車庫前でも経験したことがあり、普通に行われていたのだろうと思っています。ところで毎日乗っていると、運転台にあったスタフ(主として交差点等の通過時刻表)の時刻が微妙にズレていることに気づきました。これは小生にとって長いあいだのナゾでしたが、つい先日ふとしたことから当会OBのF本さんに尋ねたところ「1分毎にダイヤがあった」と教えてもらいました。正直1分毎とはとも思いますが、かつて見たスタフは確かにそう思うほど微妙に違っていましたから、現在ではさもありなんと納得しています。また連想ゲームのような話ななりすみません。

      • 1900生さまには、臨場感溢れる操車の様子をお話し下さり、有難うございます。この写真(▲)を、「京都市電が走った街 今昔」に掲載の烏丸車庫内の線路図と較べますと、ここから北大路へと出て行こうとする出庫線です。3輛の電車は、その順番待ちをしているところとみえます。

  20. Davis氏が今回送ってくれた、もう1枚の600形の写真をお目にかけましょう。同じ、昭和31年5月の撮影で、場所は金閣寺とあります。左側電車の行先札は、4系統で、金閣寺と読めます。正面の車番が見えないな?、と思ったらこの行先札が車番を隠していますね。後年に行先札の位置を上げたのは、これを防ぐためでしょうか。白(銀色?)に輝く、架線中が等間隔でずぅ~と奥の方まで並んでいるのが、見事と思いました。こんな広くて、空いた大路を走る電車に乗ったら、さぞかし快適だったことでしょう!

  21. 宮崎繁幹様
    西大路通が未舗装ですね!
    でも、こんな系統板は見たことも聞いたこともありません。
    撮影場所は白梅町を上がった辺りではないかと思います。拡大すると突き当たりで右へ振っています。ここは平野神社の北端になります。昔はこの辺りには大きなお屋敷が軒を並べていました。

  22. お邪魔いたします。小生は市電が走っていた頃はわら天神前に住んでいましたが、子供の頃(昭和30年代後半)の西大路通りはまだ田んぼや畑を見ることができました。この写真を見て最初はわら天神前あたりかと思いましたが、黒板塀のお屋敷は米手様がおっしゃる通り白梅町を上がったところですね。衣笠校前電停付近で二軒ほどあったような気がして、ストリートビューを見ると今もあるようです。昭和22年・38年の航空写真でも確認でき、お屋敷の南側に見える柵は畑を囲んでいたと思われます。この場所は現在ガソリンスタンドとなっており、衣笠小学校の南端から撮影されたと考えられます。
    昭和31年は小生が生まれた年で、その頃の西大路通りが未舗装だったとは驚きました。車も見えませんが、安全地帯も見当たりません。そもそも安全地帯が無かったのでしょうか? 衣笠校前に住まわれていた方の写真集に、昭和35年の撮影ですが安全地帯ができています。この間に作られたのでしょうか。
    それにしても西大路通りが広く感じられ、これほど山がきれいに見えていたとは驚きました。ビルが立ち並ぶ現在の西大路通りからは想像もできず、60年余りの年月に隔世の感を覚えます。

  23. 紫の1863 さま 米手作市さま
    やはりそうでしたか。小生も写真を見て白梅町~衣笠校前あたりかと思いましたが、風景は見慣れたものであったものの確証がなく、時間もなかったため投稿できずにいました。小生もかつてわら天神前に住んでいました。中学1年生からでしたが、妹と弟は写真右手の衣笠小学校へ通い、その友達の一人のお宅がこの左側に写っている黒塀のお屋敷でした。写真が撮られた数年後に一度わら天神前へ行ったことがありますが、前後の行程は憶えているものの、西大路通りが未舗装だったかどうかは全く記憶にありません。しかし同地に転居した35年から数年間は、わら天神前から西へ堂本印象美術館~宇多野方面への道路はまだ未舗装で、夏季には散水車がもうもうと砂埃を上げて水を撒いていました。31年の西大路が未舗装であったのは、都心部でもなくどちらかというと周辺部にあたり、かつ交通量が多くなかったためでしょうね。なおこんな系統板は小生も知りません。烏丸車庫独特のものだったのでしょうか。

  24. 皆様には、いろいろと教えて頂き、有難う存じます。この場所は、紫の1863 さま や、1900生さまの地元であった訳ですね。600形ではないが、Davis氏が同じ日に近くで撮ったと思われる別の写真があります。この機会を逃すと、お目にかける折がないかと思い、投稿いたします。場所は、同じで“Kinkakuji”と記してありました。4系統を示した同じ形態の系統版を掲げているが、行先は「京都駅」です。反対周りの、電車でしょうか。1000形の正面車番表示は、600形より少し低いのか、端の数字は見えますが、間の数字は読めません。寄り道ばかりで、なかなか終着となりませんが、御許し下さい。

  25. 宮崎 繁幹さま
    仰るように南向京都駅行のように見えますが、画面中央部背後の山の形からこの電車は北向です。仮に南向だとするとこの山はないことになりますので。また右の車の辺りに電停があって、その左に金閣寺への参道の松並木が写っていることも北向きに撮られた写真の証拠です。そのあたりをややこしくしているのが方向板の「京都駅」表示ですね。西大路の北端に近いとはいえ、反対方向にある京都駅を表示するの?と訝られると思いますが、この写真が金閣寺前電停のすぐ南で撮られているのがミソです。気の早いというか大概の乗務員が通常わら天神前停車中に行先表示を「金閣寺」→「京都駅」に巻いていましたから、その流れで系統板をひっくり返していたのではないかと思われます。つまりこの写真は返された直後を撮ったものと推測します。1000型の写真を拝見しましたのでまたまた余談ですが、1000型は同じ3扉大型車でも古い500型よりはよく走りました。尤もパワーが800型などと同じだったはずで、800型よりは大ぶりな分少々鈍くさかったことは否めませんでしたが。朝のラッシュに1000型が来るとラッキーと思ったものです。安全地帯の乗客がまず問題なく乗れたのと、従って各電停での乗降時分も短くて済み、電車が遅れることが少なかったからでした。いっぽうの500型は本当に鈍足でした。日中でも何両も数珠繋ぎになって走るときなど、ノッチオンが重なると白熱電球の車内灯が電圧降下で殆ど消えそうになることもしばしばでした。

    • 1800生さまには、丁寧にご説明頂き、有難う存じました。京都市電初心者の東男は、系統版早返しの業に、いとも簡単に引っ掛かり、相手の術中に墜ちてしまいました。

  26. 1900生様
    「京都駅」表示はすべてその通りでしょう。ただ、原住民だった貴兄に言うのははばかられますが、撮影場所は「わら天神」下ルあたりとは考えられないでしょうか?写真を拡大すると森が見える辺りには石垣が見えます。バス停もあります。この石垣がわら天神の石垣ではないかと思います。もっともこの当時の金閣寺辺りを知らないので「農林会館」あたりに石垣があったのか分かりません。1000型の左側に道があるような雰囲気ですが、現在の平野神社北上ルの交差点とは考えられませんか?

  27. たびたびお邪魔します。
    北行き④番の行き先が「京都駅」?、これは何かの間違いでは?と思いましたが、1900生様の解説で納得できました。
    北行きの根拠は中央の黒い電柱の右に見える山に、「左大文字」の『大』の字の上部が顔をのぞかせていることです。
    撮影場所は米手様がご指摘の通り、平野神社北端あたりと考えます。
    石垣は切り石積みに石の柵を載せたもので、これはわら天神敷地神社の南、蘆山寺通を渡ったところにある『金〇八幡宮』のものです。〇のところは初めて見るややこしい文字で、読めないために漢字を見つけることができませんでしたが、ウェブ上の地図にはしっかり漢字が表記されています。長年近くに住みながら名前が読めないとは恥ずかしい限りです。
    また、電車の後ろには西大路通りから分かれる鏡石通が北へ伸び、米手様がおっしゃる場所に相違ございません。1000形中央扉の後ろの家は、衣笠校前辺りから左大文字を画面に入れた定番写真には頻繁に見られ、多少の造作は変わったものの今も同じ姿で建っています。中学校の同級生がこの辺に住んでおり、学校帰りに寄り道したことを思い出しました。

  28. 写真を見ると脳が刺激され、色々なことが思い出されると云われます。地元の方々で無ければ、判らないお話を伺ううちに、直ぐに終着に向かうのが惜しくなりました。せっかく米手さまに名づけて頂いたスレッド・タイトルからドンドン外れて誠に恐縮ですが、Davis氏の記録にあった西大路沿いの写真をもう2点、ご紹介させて下さい。多分これ迄の写真と、同じ日に撮られたものでしょう。これは京福・北野線が、市電・西大路線を横切り北野へ向かうところと思われますが、如何でしょうか?

  29. 紫の1863様、
    私の推察を証明してくださり、感謝致します。
    「金攫八幡宮」は「きんかくはちまんぐう」と読みます。理由は分かりませんが、一攫千金に由来しているのではと思います。あるいは金閣寺の近くですからあやかって付けたのでは?ないでしょうね。

    宮崎繁幹様
    当たりです。
    この時代の写真は、以前にこのデジ青で発表されていました。
    いずれにしてもこの写真は、右の「京阪バス」や左の「着物で自転車に乗るおじさん」ぐらい今では珍しいものです。

  30. 宮崎繁幹様、紫の1863様、
    現地を確認してきました。
    まず、金攫神社を望む地点です。

  31. ほぼ同じ地点の現在
    正面の家が1000型の左側に写っている家です。はるか前方に白いビルが見えますが、その手前にあるのが金攫神社の石垣です。木が茂っていて家が見づらいですが60年の時が過ぎました。

  32. 金攫神社の石垣は変わりませんが、植え込みが出来たのと街路樹が伸びたのでよく見えません。

  33. 衣笠校から北方を見る
    この黒塀のお家は現在も二軒あります。やはり街路樹と植え込みで見にくくなっていますが、それにもまして交通量が段違いで撮影が難しく、ビルも建っていて遠景も見づらいです。

    • 米手様
      暑い中、早速の現地調査に出かけられるとは、頭が下がります。この写真の撮影場所はちょっと自信が無かったのですが、間違ってなかったようでホッとしました。
      昭和2年の古地図によると、西大路通りに市電が走る前、この辺りは狭い鏡石通があって、このお屋敷はその頃すでに建っていたようです。
      二枚の写真が並ぶと、同じ場所とは思えないほどの変わりようです。わら天神を離れて四半世紀が過ぎ、見慣れた風景が消えてゆくのは淋しいものです。
      なお、安全地帯ですが、母の記憶では昭和20年代のわら天神前には無かったらしく、衣笠校前にも無かったのでしょう。
      宮崎様
      昭和31年の西大路線、白梅町-衣笠校前-わら天神前の写真を見るのは初めてで、物心がつく以前の様子を知ることができました。ありがとうございます。

    • 米手さまの行動力に、感服です! 悠久の街にも思える京都も、変化の激しい60年であることが、よく判りました。市電が消えただけでなく、山があまり見えなくなったことで、景色が都会に変わったように思われました。

  34. 宮崎 繁幹さま 米手作市さま 紫の1863さま
    7月1日から昨3日まで広島で元京都市電1900型に乗ってきました。この間ちょっと留守をした間になにやら欠席裁判(笑い)が進行していて、正確な撮影地が特定されたようでご同慶の至りです。米手さまの現地調査により、撮影地は北野神社北西地点であることは疑いないものです。暑い中有難うございました。小生どうやらは余りに早すぎる系統板返しに惑わされてしまったようです。また件の金攫神社(居住当時は単に八幡神社と言っていたのですが、これが正式名称なのでしょう)は、朝の出勤時によく乗り逃がした市バスを追いかけて境内をマラソンしていた馴染みの神社でしたから、この風景はよく憶えています。
    ところで広島へ行きたくなったのは、本稿600研究シリーズで久方ぶりに京都市電のことをたくさん想い出したことが大きな理由なのです。機会があればと思い始めていたときに、たまたま1日・2日の両日に亘りEF66原色機が山陽線筋を走ることがわかり、それならと両者を合わせて楽しもうと出かけたわけです。1900は日中でもほぼ半数が元気に走っておりましたことをご報告しておきます。

  35. 1900生様、お疲れ様でした。

    この600型研究もそろそろ終着駅が近づいてきたようです。
    おもえば関先生の葵橋を快走する600型の画がきっかけで、思いも寄らない方々からの秘蔵写真が多数拝見できて嬉しいやら驚きやらで毎日が楽しみの一ヶ月でした。宮崎様はじめ多くの方々にお助けいただいたことに改めまして感謝を申し上げると共に、今後とものご投稿をお願いいたします。

    と、言いながら私からお礼の印をご覧ください。

  36. 米手さまの御誘いに乗じ、高倉陸橋上の603号を初めとして、デジ青の皆様を京都市中、二か月近く引き回しました。その間に色々なことを教えて頂き、感謝申し上げます。小生自身、こんなに京都市電の写真を溜め込んでいたのか!、と驚きました。収集するだけではなく、整理・調査することが大事と、改めて感じた次第です。ラストの1枚に相応しく、695号で京都駅に到着です。皆様たいへん、お疲れ様でした。11月には、修学旅行でまた京都へ伺うと聞いて居ります、お目にかかるのを楽しみにしています。

  37. 宮崎繁幹様
    永らくのご乗車、お疲れ様でした。
    おもえば一枚の画から京都市電600型を真ん中にお顔も知らない同志がこれほど盛り上がったことなど、そうはないのでは、と思います。鉄道仲間とはいいもんですね!京都へお越しの時は是非ともお目にかかって、もう一盛り上がり致しましょう。楽しみに待っております。
    最後の一枚は、なつかしい中央郵便局と丸物が健在だった昭和35年頃の春か秋の祭日の一コマです。駅前とはいえ、まだ靴磨きがテントで堂々と営業しています。人通りも今と比べるべくもない有様です。
    中央郵便局は京都タワーに、丸物はヨドバシカメラに身を代えて盛業しています。
    子供の頃に見た風景が写真で確認できたのは本当にありがたいことです。
    これからもお手持ちの写真を公開くださるようにお願い致します。

    • 最後の1枚の撮影月は、昭和34年11月です。書き落として失礼しました。でも何故「昭和35年頃」とお判りになったのでしょう? 米手さまは、何事も見落とさないのですね!、確かに電車の旗立てに国旗がさしてあります。11月の祭日と云うと、勤労感謝の日、23日でしょう。 これからも「お題」に沿う写真がありましたら、御邪魔させて頂きたいと存じます。

  38. 宮崎繁幹様
    京都タワーが昭和38年着工で完成が39年です。着工までの準備期間を考えたら、中央郵便局がまだ普段通りの営業をしているようなので35年頃だろう、と考えたまでです。

    宮崎様、これからは「お題」にかかわらずご自分で「お題」を掲げてスレをお立てください。我らがそれに投稿させていただきます。今回、いいご縁を作っていただいたことを大変嬉しく思っております。でも、まだまだ隠し球がありそうですね!
    今後ともよろしくお付き合いください。

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