国鉄時代、阿木でC12貨物を撮る
明知鉄道が国鉄明知線だった時代、一度だけ撮影に出向いたことがありました。昭和47年3月、DRFCで越後鹿渡での合宿が行われたとき、集合が夜の名古屋駅だったため、昼間はT君とともに明知線に向かったものでした。狙いは、2往復運転されていた貨物列車、一往復は、昼間のいい時間帯に走る、C12の牽く貨物列車でした。ずっとネガ・ベタ焼き状態のままでしたが、50年近く経って、初めてスキャンして、当時を偲ぶことができました。 当日は、飯羽間で下車し、阿木方面に歩いて、上下の貨物列車を撮影、最後は阿木でDCの入線シーンを収めて、撮影は終わりました。 ▲33‰勾配に挑むC12の牽く貨物列車、恵那方面行きは逆向運転となる。ドラフト音は勇ましいものの、さすがに速度は極端に落ちる(阿木~飯羽間 昭和47年3月(以下同じ))。
▲阿木~飯羽間を行く明知方面行きの463レ、C1242が貨車9両を牽く。
当時、明知線の交換可能駅は、岩村、阿木で、3つの閉塞区間になっていた。列車本数は、旅客8往復、貨物2往復(うち1往復は不定期)で、現在の15往復より少ないものの、3閉塞区間を活用して、柔軟な運転が行われていた。朝のラッシュ時は、岩村で交換、昼間・夜間は、阿木で交換が行われていた。明知線には最急33‰勾配、しかも、4つのサミットがあり、両側から上っている。明知線におけるC12牽引の換算は11両で、とくに明知(当時駅名)からの積み出しは、重量のある耐火煉瓦などが多いから、積車の場合は、せいぜい5,6両だろう。逆に上の写真のように明知に向かう列車は空車が多かったが、これで限度一杯だったと思われる。先日の明智の車庫での見学会でも、国鉄出身のご案内の方から聞いた話では、明知を出た貨物が、いきなりの上り勾配で空転して動けなくなり、明知まで後退して戻って、勢いを付けて、再び勾配に向かって行ったと言う。
▲小型機だけにドラフトは歯切れがいいが、ゆっくり、線路を噛み締めるように、33‰を上って行く。▲旅客は、強力型のキハ52が2両編成、日中も2両のままで、いまの明智鉄道の単行気動車に比べると、定員だけでも約3倍以上はあるだろう。本数は少ないが、輸送量は今よりもうんと多かった。
▲阿木~東野で待つこと3時間、明知で貨物を積み込んだ折り返しの464レが通り過ぎる。炭庫を伸ばし、ゼブラ模様に塗られた逆向運転は、独特の眺めだ。▲最後は、阿木でのDC入線シーンで締めくくった。時刻は17時過ぎ、下校する高校生が通路を渡って、続々と列車に吸い込まれていく。駅から徒歩5分のところにある阿木高校の生徒で、同高校は、いまも昼間の定時制高校として存続しているが、明知鉄道の利用者はどの程度いるのだろうか。
▲もちろん阿木には駅員が配置されていた。ダブレットを授受して、発車合図を送り、列車は発車して行く。こんな、日常的な光景が見られたのも、明知線だった。
明知線の無煙化は、訪れた翌年の昭和48年10月で、DD16に代わった。貨物も次第に減少し、末期はほとんどワフ1両だったと言う。この時見た貨物は、明知線にとって最後の華だったのかもしれない。
▲明智鉄道の車内から見た現在の阿木駅構内、交換の出来ない棒線駅になったが、かつてのホーム・線路は、そのまま残っている。明智鉄道開業時に用意されたアケチ2が廃車となり、倉庫として利用されている。
総本家青信号特派員様
当然のことながら蒸機は生き物で同じ車両でも新幹線とは雲泥の差ですね。33%の勾配区間では煙が真上にあがり喘ぎ喘ぎ登る様子はよろしいですね。もっとも先日説明された元機関助士の方はそれどころではなく、石炭のくべ方や機関士の腕で随分と走行や時間通りの運転に差が出たと言われ少しわかるような気がしました。勿論仕事が終わったら風呂は必ず入らないと帰れない話はうなづけました。中津川区乗務員は中央線は名古屋から塩尻まで担当したようです。私の明知線も今回が最初で最後の乗り鉄になりそうですが、総本家さんは新旧対比撮影が続きますね。阿木のキハ52のバックの山はいいですね。阿蘇の根子岳を感じさせます。
準特急様
コメント、ありがとうございます。明智の車庫見学会では、準特急さんが、もと機関助士の方に、いろいろ聞いておられるのを、小耳に挟みながら、ご苦労を偲んでいました。中津川区の機関士は、中央西線も担当されたとのことですが、本線D51での苦労もたいへんだったと思います。新旧対比は、この阿木で行いたかったのですが、その前に行った岩村の印象が良く、結局、車中からの対比で済ませました。
総本家青信号特派員さま
ポッポッポッというC12クラス(好きなC56も)独特の軽快なドラフト音が聞こえてくるような写真です。小生は小海線のC56を想起してしばし懐かしい想いに浸りました。「極端に速度が落ちる」のは両機と両線に共通した現象だったようで、小海線では何度となくそれこそ今にも止りそうなC56を見ています。暫くC56のドラフト音に慣れた耳には、後年会津線で聞いたC-11のバッバッというドラフト音は、とても小型機とは思えないほど迫力がありました。この伝でいうと大型機のはドッドッとでも言えましょうか。
昭和50年頃の明知線初乗車時の旅客列車は確かにキハ52の2連で、これで恵那~明智間を往復しました。この時は旧名古屋空港(小牧)へJALのアジア短距離国際線用DC8ー50型や727-100を撮りに行った際の時間待ちで出かけました。この頃はまだ国鉄型や原色車はどこにでも当たり前のように走っていたこともあり、退役まじかの初期のジェット機に現を抜かしていた時期でした。余談ですが帰路の恵那駅で、たまたま駅務室前のホームで名古屋へ戻る電車を待っていたところ、室内のラジオが「中標津空港でYS-11が墜落」とのニュースを流していました。
1900生さま
いつもコメントをいただき、ありがとうございます。明智の車庫でC12を見学した際、ロッドなどの刻印を調べていた、でかんしょさんから、C56の刻印が入った部品を教えてもらいました。なるほど、C12とC56は、共通の部品で出来ているのだと改めて思いました。
「中標津でYS11墜落」を調べますと、昭和58年3月11日でした。事故廃機となり、1900生さまにお世話になった、例の「YS11物語」にも写真は載っていませんでした。
総本家青信号特派員さま
昭和58年でしたか。不確かな記憶で年号を記載してしまい申し訳ありませんでした。
C12とC56は、大まかにはC12にテンダーを付けた設計なので、共通仕様とでもいえるものです。ですからもちろん部品も共通ですね。明智のC12にそんな部品が付いていましたか。SL末期には両数が減って部品取りが行われたのでしょうね。