【97803】京都市電600型研究

前・スレッドが伸びすぎましたので続編として新しく立ち上げます。

昨日、旅に出るので帰るまで待ってください、と言ったのですが、こんなおいしいごちそうを目の前にして頂かずにおられましょうか!
旅の準備は後ほどにして早速調べました。

烏丸車庫615

行き先から「烏丸車庫」と思いましたが、軽々には判断できません。まず所属を調べました。写真から、宮崎様の仰るとおり新製間なしと思われます。昭和十二、三年頃の所属表は長老様の資料にもありません。最古の資料でも昭和21年9月21日です。これによるとこの615は壬生車庫に所属していました。確かに壬生車庫の建物に似ています。しかし、手元の写真と見比べますと屋根の形が違います。中央の高いファサードが水平に箱形ですが壬生車庫は三角形をしています。私は烏丸車庫に入ったことがなく、写真も持っていません。そこでネットで探したところ、見つけました。

⇩その前に版権者のご説明。
撮影はADU様
出典は「路面電車のアルバム」より「京都市電編」から転載使用

ADU様撮影
烏丸車庫1974年3月31日

ほぼ同じ位置からの撮影と思われますので撮影場所は烏丸車庫です。

所属は戦争を挟んだ10年で大きく変わったのでしょう。横に写っている127号も21年の表では抜け落ちています。それまでに廃車になったのでしょう。

ところで、車内の写真は大変珍しく、参考になります。

原型600車内 新製時

照明の位置や形、中央の背中の当たる部分に何もないこと(市電の系統図が貼ってありました)、出入り口の戸袋に経由地が出ていること、座席の両端がはめ殺しになっていること、つり革の輪の形など興味が尽きません。

では、宮崎様、帰りますまで束の間、おいとまします。帰ってきたらご馳走が並んでいることを楽しみにしております。

京都市電600型研究” への28件のコメント

  1. 米手様
    烏丸車庫で間違いないと思います。昭和43年5月11日に行われた新入生歓迎烏丸車庫見学会での2600型の写真の背景に特徴ある車庫が写っていましたので添付しておきます。

    • 西村様
      証言、ありがとうございます。
      烏丸車庫は行ったことが無いため不安でしたがこれで安心!

  2. 米手さま、西村さま有難う存じました。御陰様で、撮影場所が判明し、記録の価値も向上しました。宮松氏は、同時に正面写真も残しているので、載せておきます。後年、向かって左上のルーバーが塞がれ、シングルポール化されたときに、左側ポールを撤去し、リトリーバーも無くなりました。裾周りで、ステップを隠すように、側板が三角形状に正面へと回り込んでいます。これは無い車もあります。増備を重ねる中で、途中から設計変更されたものかもしれません。

  3. 米手さま御留守の間に、御馳走を.。これは如何でしょう? もう食べたとおっしゃられると困りますが。戦前ダブルポール時代の形式写真は、あまり見られぬので、お許し下さい。宮松氏が615号と同時に撮影されたと思われる、612号です。行先は「銀閣寺」、経由は「千本通」を表示。当たり前ですが、615号と殆ど同じです。敢えて違うところを探すと、前投稿で触れた、側板の回り込みがなく、ドアスッテプの蹴込みが、見えています。正面左右窓の上部は、ヒンジ付小窓で上部へ跳上式。これは戦時中か、戦後直ぐに除去されたらしく、後年は見られません。後ろにチラリと見える、広軌1型、119号はオープンエンドで、612号は、如何にも近代的に見えます。

  4. 戦前の600形形式写真は、これでおしまい。廣田章一郎氏が撮影した641号です。どこの車庫なのか、判りません。既にお目に掛けた612や615と較べると、ポールフックの補強が無く、簡易化されています。そんなに頑丈にせずとも大丈夫と考えたものか。行先表示の「油小路」が、判りません。「京都市電が走った街 今昔」を参照しましたが、発見できず。後に改称されたものでしょうか。東京にも「甲州街道」とか「青梅街道」など、余所の人には、どこにある駅か、てんで判らぬ駅名があります。小生も調べて、「油小路」がどこを通る道なのかは知れましたが、停留所がどこなのかは、判りませんでした。

    • 宮崎繁幹様
      今し方帰って参りました。で、すぐに開いてみましたらおいしそうなご馳走が冷めかけていましたので、取るものも取りあえずお返事いたします。
      641号の写真撮影場所は九条車庫だと思います。「油小路」とは九条油小路のことでしょう。今は京都駅の西にある堀川通りと一緒になっていますが、戦時中の疎開で拡張された事で油小路通りとひっついてしまい、東海道線以南は堀川通りも油小路と言うようになりました(というより、そもそもこの辺りでは堀川通りというのはなかったのかもしれません)。
      写真は昭和12年11月22日から14年2月21日の間に撮られたものではないかと思います。東から建設が進む九条線は昭和12年11月22日に九条車庫と九条油小路間が開通します。そして14年2月21日には九条油小路と九条大宮間が開通します。その1年3ヶ月間だけ「九条油小路」が終点でありました。
      「軌道事業略史・京都市交通局編」参照

  5. 米手さまには、帰られて直ぐ、お疲れのところ早速に、調査・回答頂きまして、有難う存じました。場所(車庫名)だけでなく、撮影時期まで行先から、推定できるのか!、と感心致しました。短い期間のみの終点であった訳ですね。。「京都市電が走った街 今昔」の地図を見ますと、最後は九条近鉄前になった電停名のようでした。さて641の写真(▲▲)を御覧に入れたのは、少し訳があります。実は、宮松コレクションには、同時に撮られたと思われる乾板(▼)がありました。若干構図が異なりますが、問題はお判りですね!80年の間に、悲惨な状態に陥る乾板もあるのです。支持体(ガラス)と感光乳剤層は、物性が異なるので、夏冬で伸び縮みする時、同じようにはいかない。積り積もると、こうなる乾板もあります。お目に掛けたのは、恐らく撮影後、間を置かず焼かれたプリントです。フィルムも最近は、ビネガーシンドロムで大変と云われますが、大昔の乾板は更に大変なことになるかも。それを防ぐのは、プリントで保存、そして方々に配っておく。そんなことしなくても、デジ画像で配ったら?、その通り!! デジ青の皆様は、小生の「ホケン」をお願いしているとも言えるのです。今後も、どうぞ宜しくお願いします。

  6. 宮崎繁幹様
    “悲惨な写真”を見せて頂きましてありがとうございます。
    私はカメラ店をしておりました(東京の“カメラのきむら”に勤めておりました)のでよく解りますが、ネガでも同じ事が起こります。ベースのフィルムと乳剤の経年変化による収縮率が違うのか、湿度や温度により差が出るのか分かりませんが、亀裂や縮緬皺が出たのを見ています。デジタルで残すのがいい、といいますが、これも問題ありです。初期のフロッピーはすでに無く、メディアチップも今はSDカードですがコンパクトディスクやメモリースティックは何処へ行ったのでしょうか?フィルムにおける35㎜や2Bや110ならなんとしても見られます。この先、SDカードもどうなるでしょうかね?やっぱり写真というハードコピーが一番だと私は確信しております。

  7. ダブルポール時代の終わりは、終戦とほぼ同じです。シングルポール時代へ参りましょう。とは云っても、米手さまが調べて下さった通り、この時代は10年ほどで、記録も少ないようです。小生のコレクションにも600形は1枚しかありません。井口悦男氏の撮影で、614号。記録がシッカリしております。昭和25年3月22日に、加茂大橋で撮られたもの。ポールのシングル化だけでなく、正面左右小窓の撤去、塗分けの変更、進駐軍指示による電車追越し時の速度制限表示等々。戦災に遭わなかった京都でも、変化が激しかった時代であることが、読み取れます。

    • 宮崎繁幹様
      加茂大橋・通称“出町柳”です。系統板を付けていないので分かりませんが、1号系統か3号系統か補四号系統のいずれかでしょう。当時は錦林車庫がまだ出来ていないので、すべて壬生車庫の所属です。系統板が付いていれば“赤”です。

  8. 米手さま、素早いコメントを有難う存じます。京都の地理に疎い小生は、いつも路線図片手に、拝見していますが、この辺りは同志社大の近くですね。西村さまに倣い、ストリートビューで現代にタイム・スリップしてみました。左手のお寺はそのまま、電停がバス停に変わりましたが、雰囲気は70年前とあまり変わらぬような気が致します。京都と云う街のなせる業でしょうか。

    • 宮崎繁幹様
      バスの後方に同志社大学があります。前方には京都大学があります。運がよければ交差点の真ん中で、こたつを囲んで鍋料理が食べられます。

      • 米手作市さま
        交差点で食べる鍋は美味しかったのでしょうか?ゆっくり味わえなかったのではないでしょうか。学生時代は少々羽目をはずしても大目にみられた時代もありましたが、それでも人さまに迷惑をかけるのはいけませんね。DRFCでは宵の八坂神社石段でバンザイ三唱をしたり、深夜の烏丸今出川でレールに10円玉を置いて市電のポイントを切り替えて遊んだりしたくらいで、迷惑をかけるような狭軌いや狂気の沙汰はなかったですね。

        • 1900生様、
          「人に迷惑をかける」など、断定はいけません。ノーベル賞を多くもらっている大学のこと、きっと深慮遠謀があってのことでしょう。近々、いい発表があるのでしょう。

  9. それでは600形ビューゲル時代へ、移りましょう。と思ったが、614号の撮影者、井口悦男氏の写真の中に、以前取り上げたパンタ試験車があるのに気づきました。600形ではなく、500形535号です。スレッド・タイトルから外れますが、珍しい記録のようですので、御許しを願い、ご紹介しておきます。昭和26年5月20日の撮影、場所は京都駅南口引込線とあります。

    • ひとつ書き落としました。方向幕の表示が、ナント「故障」になっています。パンタの調子が、よくなかったのでしょうか。しかし京都市交通局の御方は、正直ですね。最近のどこかの役人とは、大違いです。

    • 宮崎繁幹様
      535号は8月に故・羽村宏先輩が撮られた写真が残っております。この場所は、現在のアバンティー、ホテル京阪の場所です。

    • 宮崎 繁幹さま
      パンタ試験車の写真に絶句です。しかも500型で試験とは。超貴重な写真ではないでしょうか。引込線については2つ後のコメントに米手さまが書いておられますが、ここに伏見線を管理する九条車庫の出先機関(正式名称は不詳)がありました。高倉の陸橋を下がってから、伏見方面に向かって右側へ分岐していたと思います。ご紹介の写真では1線ですが、記憶では2線あったように思います。通常は朝ラッシュ後に間引かれた市電が数両留置されていました。九条車庫への回送のムダを省くためだったと思われます。伏見線の乗務員もここで交代していました。

        • 1900生さま、米手さま色々とご教示下さり有難う存じます。京都市電は出版物も多いですが、運行や施設に関する記述は限られています。実際に見聞された方々のお話によって、一枚の写真も大きな意味を持ったと思います。

  10. 寄り道を致しましたが、600形ビューゲル時代へ、進みましょう。いちばん最初に、米手さまの呼びかけに応え御覧に入れた、高倉陸橋の603号のGordon Davis氏が撮影した、N電25号との並びです。残念ながら600形の方は、車号不明。彼とは三十年来の友人ですが、この外人さん日本語は全く話せないのに、良い撮影場所にちゃんと行っているのが不思議です。野次馬的な見方をしますと、旧車N電が600形に、最近ハヤリの煽りに会い、何とかデュアルゲージ区間から脱出しようとしているところです!昭和30年頃に撮った、と聞いています。

    • 宮崎 繁幹さま 米手作市さま
      30年頃といえば母の大丸百貨店への買い物についてよく乗っていた直後の頃ですね。区間が大宮五条~四条大丸前だったので、その際には写真のような風景はごく当たり前のものでした。特にN電が煽られていたような記憶はありませんが、写真はまさにそんな風に見えますし、そうイメージすることで情景に楽しさが加わりますね。
      あるとき九条車庫所属の500型⑦系統で出かけた時でしたが、丁度写真の辺りで乗車中の500の屋根が焼けてボヤになり、全員下車させられたことがありました。事件の細かいことは忘れたものの、キナ臭い匂いが漂ってきてほぼ満員の車内が騒然となり、我先にと脱出して難無きをえましたが、降りてから500の屋根を見上げるとSLのような小さな煙突状の筒が出来ていました。いま思うとよく無事だったと思います。架線のスパークが原因だったのかもしれません。
      N電はあちこちで随分見ましたが、乗ったのはただの一度きりでした。家が大宮五条だったため、元々北野線を利用するシチュエ-ションではなかったわけです。どういう機会に乗ったのかも忘れましたが、とにかく通路が狭く向かいに座った人がすぐ目の前に居たように見えたことと、走行時に上下・左右にやたら揺れたことを憶えています。最終日に北野電停を通りかかったので暫く眺めていましたが、当時は中学生でカメラなど持っていなかったため撮れませんでした。悔いが残ります。

  11. 宮崎繁幹様
    これはまた、当会の古い会員にとって、感慨無量の一枚です。
    後ろに写っている「京都産業相互銀行」は1964年に「京都相互銀行」となった銀行です。会員の一人がこの銀行に勤めていました。
    場所は、四条西洞院。N電はこれから右へ曲がって西洞院通りを南へ、京都駅まで行きます。三線軌条がよく見えますね。

  12. 米手さま、1900生さまには、いつも現役時の市電のお話を聞かせて頂き、有難う存じます。余所の者には、京都市電と云うと先ずN電を連想しますが、実際は極く一部ですね。都市交通の手段には、とても無理だったとは思うが、有名なサンフランシスコのケーブルカーの様に残っていれば、有力な京都観光資源になったのでは、と夢想してしまいます。小生の600形所蔵写真も終わりが近いのですが、1900生さまに700形をお目にかけるとお約束しましたし、N電が出たので、また寄り道をして、ツーショットを御覧にいれます。撮り人知らずですが、撮影月は、昭和34年8月と記してあります。700形登場直後か。両車の歳の差は、60年以上あるのではないでしょうか? 場所は、先の写真と同じかと思いましたが、三線区間の逆の端のようです。

    • 宮崎繁幹様
      ここは四条堀川東詰です。堀川中立売から堀川通を下がってきたN電が四条通と合流して東へ曲がると、次が先ほどの四条西洞院、一区間だけの三線区間です。700型は昭和33年新製です。

  13. 京阪地区の皆様には、ご災難でした。一夜明け、落ち着かれましたでしょうか。ひとことお見舞い申上げます。能天気に電車で遊んでいて、よろしいのか?、と自問自答致しましたが、私どもにはこれが元気の素と、勝手に解釈し続きを発表したく存じます。再び600形に戻りまして、京福との交差を渡ろうとする656号です。撮り人知らずですが、撮影月は、昭和34年5月とあります。左側に立つ人は、旗を手にしています。交通局の踏切番(?)の方でしょうか。架線を見ると、併用軌道の市電はカテナリー、専用軌道の京福が直接吊下式のようです。何だか逆のような。市電は高級志向だったのか、或いは高速化対応だったのでしょうか。

    • 宮崎 繁幹 さま
      お見舞いのお言葉を有難うございます。今日の昼前にもややきつめの揺れがあり、気持ちのいいものではありませんが、地震ですから致し方ありません。また当掲示板の読者には先の阪神淡路や東北大震災の時のような甚大な被害を被られた方はおられないと思いますので、東方から送られて来た元気の素をご一緒に楽しませていただければと存じます。
      これは当時の叡山本線「元田中」交差点で撮られたものですね。市電は東山線南行の⑥系統京都駅行のようです。京福は写真からもわかるように左下から右上方向に斜めに八瀬に向かって交差していました。余談ながらこの数年前まで右下~右上方向に渡り線があって、競輪開催日に市電が宝ヶ池まで乗り入れていました。市電はビューゲル、京福はトロリーポールの時代でした。なお手旗の係員は京福の人です。市電との交差というより、京福が東山通りを横断するための警戒要員として配置されていたものと思われます。

  14. 宮崎繁幹様
    ご丁寧なお見舞いの言葉を頂きまして、会員一同に代わりましてお礼を申し上げます。
    ご心配を頂きましたが、今のところ当地の会員には大きな被害はございません。どうぞ今まで以上にご投稿をお願い致します。貴重な写真ばかりで大いに期待しております。
    さて、今回のお写真は、すでに1900生さんからご説明を頂いたとおりですが、停留所名は「叡電前」です。昭和24年12月から宝ヶ池に競輪場が出来て、開催日に市電の1000型が渡り線を使って宝ヶ池(当時は「山端・やまばな」)まで直通で運転されました。これまでには大変な苦労があったようで、市電は軌道法、京福は地方鉄道法の制約下にあり、さらに車高や車幅の違い、速度性能の違いなどで運輸省をはさんで調整に苦労したとのことです。この成功により全国の市交と私鉄の相互乗り入れが現実化してきた、と「軌道事業略史・京都市交通局編」には書かれています。
    それから1900生さんのご説明で「市電はビューゲル、叡電はポール」とありますが、どちらもポールでした。そのために乗り入れる1000型は最後までポールでしたがビューゲルに換装されるに及んで乗り入れが終わった、とのことです。

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