羽村さんが遺したアルバムから 〈カラー版〉〈13〉

正月の京都駅前の賑わい 昭和36年
平成最後の年が明けました。珍しく一日中テレビの番をしていると、平成時代を総括する特番が多くあり、見ていますと、“昭和か平成か、どちらが良かったか”との調査結果がありました。昭和を知らない若い世代が、平成を良かったと回答するのは当然としても、両方の時代を経験したはずの中高年では、すべての年代で“昭和”が圧倒的でした。われわれが昭和の鉄道の検証に熱心なのもよく分かります。で、平成最後の年も、羽村さんの昭和の正月風景から始めることにします。
いつもはモノクロの羽村さんシリーズだが、少数だがカラーポジも遺されていた。昭和36年の正月に、京都駅前で京都市電を撮られたものだ。写真は、河原町線、伏見・稲荷線が発着していた東乗り場の光景、「いなり行き市電のりば」の看板の下には、きっぷ売り場まで出る賑わいだ。これだけ見ると、昭和30年代の当たり前の正月風景に見えるが、よく見ると、行き先幕は「白梅町」、緑地の「臨」系統板、そう、この市電は、これから手前の東西連絡線を渡って、西乗り場へ行き、スイッチバックして、烏丸線を北上するのである。通常は、営業車両が通らない東西連絡線を、正月の臨時電車が乗客を乗せて行く貴重なカラー写真だ。

京都中央郵便局、丸物百貨店を見て、京都駅前に進入する700形、これもよく見ると、行き先は「いなり」、赤地の「臨」系統板。これは壬生車庫前・四条大宮を始発とする、壬生車庫受け持ちの臨時いなり行き、阪急がまだ大宮止まりの時代、阪急沿線からの稲荷へは、乗り換えなしで行ける、この臨時系統がいちばんだった。

簡単に京都駅前の市電乗り場の変遷をたどると、昭和25年の京都駅の焼失で、駅前広場の見直しがあり、ループ線が廃止された。昭和27年には、西乗り場として、3線折返しのターミナル停留場に改修された。この時、東乗り場とは一時的に連絡が途切れてしまったが、昭和35年に東乗り場も駅舎側に移設の上、東西の乗り場が連絡線で接続された。そして、この連絡線が初めて活用されるのは、この昭和36年正月の初詣輸送で、烏丸線と伏見・稲荷線を連絡する臨時系統が設定された。以降も、初詣だけで無く、節分、初午の際にも、市中心部から稲荷への輸送が行われた。昭和38年になると、祇園祭の増車運転でも、西乗り場発着の河原町線経由、四条河原町新京極行きが運転されている。

西乗り場で「いなり」のヘッドマークを掲げた600形、これも緑地の「臨」系統板で、烏丸車庫持ちの臨時系統。この3点は連続写真、一枚目は、烏丸線を下って来た804号が曲がって西乗り場に進入するところ、二枚目は乗降を済ませて折り返し、信号待ち、三枚目は、信号が青になり、連絡線を渡って東乗り場へ向かうところ。なお、冒頭の写真も同じ804号であり、これは稲荷まで往復して、京都駅前へ戻って来たところだ。

 羽村さんが遺したアルバムから 〈カラー版〉〈13〉」への2件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員さま
    京都生まれを自認する小生ですが、お恥ずかしいことながら、駅前ターミナルを東西に渡っての初詣臨時系統があったことを今回初めて知りました。初詣は家族揃って四条大宮から出ていた帝産バス(ヤサカだったかな)の初詣バスで八坂神社~伏見稲荷大社~石清水八幡宮に詣でていたので、京都駅近辺には近づかなかったからだったと思います。ところでこの臨時系統の乗務員はターミナルで乗り換えていたのでしょうか。烏丸車庫や壬生の乗務員は稲荷線に入ったことはなかったハズだと思うのですが。信楽衝突事故以来、他社への乗り入れが厳しくなった昨今と違い、まして同じ事業者(京都市交通局)で、かつ低速の市電ですから直通していたことも考えられます。ご存知でしたらお教えください。

    • 1900生さま
      私も京都生まれを自認する身でしたが、羽村さんのカラーを見るまでは、このようなシーンがあったとは知りませんでしたし、ほかの趣味誌を見ても記述は見られませんでした。
      乗務員の運用ですが、たしかに京都駅前で方向が変わり反対になりますが、乗務員は通しで運転したのではないでしょうか。当時、盛んだった貸切では、定期、臨時の系統だけでなく、車庫持ち以外の区間にも足を伸ばすことは、よくあったことだと思います。

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