客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈5〉

長大編成と最短編成
客車編成を前にして、よくやったのが、編成調べでした。少し前のコメントでも1900生さんから、編成調べの話を聞かせてもらいました。当会でも編成調べの権威が多くおられました。私にとって衝撃的だったのは、入会した時にもらった「青信号19号」でした。前年に行われた九州の狂化合宿の旅行記を、一年上のTさんが記していました。12日間の旅行で、たとえ一駅でも乗車した列車を、端から端まで全列車全車両を記しておられ、その几帳面さには脱帽でした。編成調べの醍醐味は、思いもよらない珍車や、全く別の配置区の客車が混じったりすることですが、端まで調べ上げて、初めて“何両編成”と分かり、感慨に浸るのも目的のひとつでした。今回は、そんな客車の編成両数です。
私が撮影した中で、一番の長大編成は、西鹿児島発東京行き「高千穂」の16両編成だった。客車急行の全盛時代、東海道・山陽線の主要な急行列車は、荷物・郵便車、区間の増結車両を含めて15両だった。寝台特急の20系固定編成も15両編成で、このあたりが、ホーム有効長、牽引定数などから限界のようだ。この写真は、それを上回る両数だが、真夏なのに1両目だけ窓が開いておらず、回送扱いと思われる。それにしても、二列車の併結ではなく、単独でこの長さ、さすが、この時代である(昭和40年9月)。

東海道本線で最後まで残った急行列車「桜島・高千穂」も、座席車のみの編成として15両編成を昭和50年3月の廃止まで堅持した。「霧島・高千穂」の時代は食堂車もあったが、昭和47年改正で、食堂車なし、座席車のみの「桜島・高千穂」になった。同一スタイルが、ずっと続くのも興味深い(昭和50年1月)。
座席車のみ編成は、年末・盆の最大輸送時期の臨時列車にもよく見られた。写真は臨時急行「はかた・北九州」、端部まで勘定できないが、荷物・郵便車なしの座席車のみの15両編成のようだ。ハザの定員は、80人余りだから、列車全体で1200人以上を運んでいた訳である(昭和40年8月)。

いっぽうの最短編成、となると1両のみとなるが、これは、混合列車のなかの客車1両ではなく、旅客列車のみで見ると、案外撮っていない。客車2両なら、何例かあるが、客車1両なら、この時代には、気動車化されてしまうので、よほど特殊な例しかない。
ここは磐越西線野沢、ひと駅となりの無人駅で、一年上のSさん、同期のI君、M君とともに、ひと晩を過ごした。起き抜けに、撮ったのが、会津若松発野沢行き243レ、C11+オハフ61の243レだった。この列車、喜多方~野沢は休日運休になっており、朝のこの時間帯、高校生の通学のために平日のみ設定されたのではと思われる列車だった。このあと、反対方向へ行く224レが、しばらくして通過したが、後部に、しっかりこのC11+客車が連結されていた。つまり、反対の会津若松方への通勤・通学輸送も担っていたわけだ。
もう一例、肥薩線人吉~吉松の普通列車は、混合列車として有名で客車1両に多数の貨車を連結している。ただ、貨物量に応じて、貨車が付かない時期もある。とくに早朝の841レは、一年を通じて、ほとんど貨車のない列車で、通常はD51+客車1両だった。ほかにも、大嶺支線(南大嶺~大嶺)もD51+客車1両であり、デジ青誌上でtsurukameさんが発表されている。

 客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈5〉」への2件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員さま
    確かにT塚さんの編成調べは行動面・記録面ともに几帳面を絵に描いたようなものでしたね。小生もそれなりの刺激を受けましたが、夜行明けなど眠気からつい億劫になり、度々カマボコ(座席に張り付いていた)になってサボったものです。
    1葉目の東海道・山陽筋の長編成客車列車の両数は仰るように15両が限界だったようで、これは牽引定数もありますが、どうやらホーム有効長によるものだと思います。通常は14両編成という列車が多いようでした。15両では機関車がホームをはみ出していたはず(当時このケースはよく見られた)で、写真の列車は機関車と回送客車の2両がはみ出して停車していたのではないかと思われます。因みに東北線筋は1両少ない14両が限界で通常は13両編成が多く見られたようです。
    2葉目の「桜島・高千穂」は想い出のある列車です。名古屋の友人に会いに行った帰路に強引に豊橋まで引っ張っていかれ、解放された時に確か14時頃に同列車があったことを想い出し、豊橋から大津まで貴重な東海道線の急行客車旅を体験しました。座席車のみとなった当初はナハ10系で編成されていましたが、北陸トンネルきたぐに事故の検証結果を受けて、乗車時の編成はオハ35系とオハ化43系になっていて、およそ長距離急行とは思えないものでした。今思うとよくそこまでしてあの時代まで残っていたものだと驚きます。この時の編成をメモったなずなのですが手帳が見つかりません。そこでお詫びを兼ねて代わりに次葉とも関係する昭和45年3月21日の春季臨時急行西鹿児島行「桜島」の編成メモを記します。これは小生とKAWANAKAさん、犬伏さんの3名で九州へSL大撮影ツアーへ行くために京都から乗車しました。余談ですが18時過ぎの発車でガラガラでしたが、京都駅の放送は半時間後の定期列車(高千穂号?阿蘇号?)が名古屋で既に120%なので、この臨時に乗るようにと繰り返し案内していました。
    6201レ臨急「桜島」:EF58 11+①スハフ42116+②オロ1119+➂オ36131+④オ4788+⑤オ46392+⑥オ36100+⑦オ3697+⑧オハフ33561+⑨オハフ33519+⑩ス43597+⑪オ47145+⑫スハフ42209(オ=オハ、ス=スハ。配置区:EF58は不詳。①~⑧号車は鹿カコ、⑨~⑫号車は熊クマで熊本止め。⑧号車のみ未更新車で茶色)
    3葉目の臨時急行は恐らく搔き集めた35系あたりが主体の編成だったでしょうね。中にはオハ61などもあったかもしれません。
    4・5葉目以降の1両だけの列車は大嶺支線で乗ったような朧げな記憶がありますが、あとは肥薩線の混合1両しか知りませんでした。磐越西線の243レは時刻表では見ていましたが、2~3両はあると思っていました。昭和42年7月時刻表では野沢着8:01ですから、仰る通り通学列車だったと思われます。

    • 1900生さま
      編成調べの一端とともに、たくさんの思い出を聞かせていただき、ありがとうございます。
      磐越西線の243レに着目されていたこと、さすがの思いでした。私は、この一回だけの目撃ですので、断定はできませんが、この列車は会津若松発野沢行きで、まさか会津若松発車時には、この編成ではなく、客車数両は連結していて、喜多方からは、通学生用に1両のみの編成になったのではと考えています。喜多方~野沢は休日運休でしたから、特定の通学生・通勤客目的だったと思います。

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