混合列車の魅力
客車列車は数多く乗りましたが、「混合列車」となると、乗車機会はウンと少なくなります。それでも、思い出してみると、釧網線、根室本線、石北本線、五能線、日中線、大社線、木次線、高森線、肥薩線で、蒸機の牽く混合列車に乗った記憶があり、昭和40年代、まだこれだけの混合列車が残っていたことに改めて驚きました。どのローカル線でもあったわけではなく、客車列車のスジがあるものの、旅客数は少なく、貨物量も少しはある、このような客貨のバランスがあって、混合列車が設定されたようです。乗ってしまえば、客車列車と変わりはありませんが、発車時のショックで前に貨車が連結されていることを感じ、途中駅では、旅客ホームのないところでも平気で停車し、客扱いが終わっても、悠然と貨車の入換えに励むなど、混合列車ならではのシーンが見られました。
▲石北本線は、本線格で、客貨もほかの線区よりは多いから、混合列車もスケールが大きい。これはDRFCメンバーとともに、下り「大雪6号」に乗り、遠軽に着いて、始発の523レに乗り換えたもの。生田原で補機が付いて9600+D51の重連となり、貨車も長く、その編成にも興味が湧く。常紋に向けて、列車は力闘を始める(昭和44年9月)。
▲混合列車の良さをしみじみ感じたのは、五能線だろう。昼間に全線を走り通す客車列車が一往復あり、通常は貨車を連結した混合列車だった。東能代~弘前を、気動車なら4時間少々だが、この列車なら6時間も掛かる。それだけ主要駅での貨車の入換え時間がたっぷりあって、そこで展開される、混合列車ならではのシーンを撮った(昭和47年2月)。
▲列車が到着すると、さっそく貨車の入換えが始まり、貨物ホームへ貨車は転線する。客車には、荷物車が連結されているから、手小荷物も取り扱う、駅員や地元のオバチャンが総出でホームは大賑わいする。宅配便というものが皆無の時代、地方では、この手小荷物が生命線だった(昭和47年2月)。
よく、話題になるのは、貨車は入換のため、蒸機の次位に連結されるため、客車への蒸気引通管が通じず、冬期の暖房をどうするのか、ということ。昭和30年代は、ダルマストーブで対処していた。さすがに昭和40年代になると、事業用客車の一部でみられるだけで、それに代わって、五能線、北海道線区では、混合列車に使われる客車専用に独立式暖房装置が取り付けられた。たまたま、以前の本コーナーで、弘前で撮ったオハ60(上)を載せたが、この床下に(温)と書かれた箱があり、これが暖房装置のようだ。
▲こちらは日中線の混合列車、列車は貨物の出荷量によって、客車のみの場合もあった。途中の会津加納には、石膏、石灰品を製造する工場が近くにあって、貨車の出入りが多かった。ここでも客車を置いて、貨車の入換えが始まる。駅が遊び場の子ども達と、作業が一段落した係員とが歓談する、この時代ならではのシーンも見られた。
総本家青信号特派員様
お久しぶりです。
デジ青とPCの相性が悪くなって以来ipadでの閲覧を余儀なくされ、6月以降は歯がゆい日々が続いておりましたが、此の度再登場させていただく事となりました。
何しろipadと言う奴のキーボードは使い勝手が悪く、と言うより使いこなせず『生き甲斐?』のコメントが出来ないため、お手上げでした。
さて、前置きはさて置き、今回の混合列車ですが、中学時代に模型をやっていた頃の事を思い出させてくれるテーマに、懐かしさを感じました。
それにしても貴殿の日本全国を『クマナク』カバーする取材力に感服です。
それと、いつもの情景描写の上手さにも感服する事しきりです。
この記事を見て、かの有名な『だるまストーブ』の意味を始めて知り、今更ながらの迂闊さに呆れております。
小生にとっては専門外?の『汽車の話』とは言え、『蒸気暖房が有るのにストーブ?』との疑問さえ持たなかった自分にうんざりしております。
今回は死ぬまで気付かなかったかも知れない基礎知識をご教示いただいた事に感謝です。
河さま
こちらこそ、ご無沙汰しています。私もスマホ族の一員となりましたが、“さわる”キーボードは私も苦手で、長文のメールはできません。やはり、キーボードは“押す”ものですね。
私の鉄道の知識は浅いもので、そのためにも、写真で鉄道の魅力を伝えられたらと思っています。全国くまなくカバーも、今から約50年前の現役時代の産物で、いまもその残り香で生きていることになります。
総本家青信号特派員様
「客車のある風景」シリーズを懐かしさのあまり目頭を押さえつつ拝見しております。混合列車ですが、倉吉線が印象に残っています。DE10になったあと若桜線でも乗りました。北海道の炭鉱鉄道でも混合列車がありましたね。暖房装置ですが「ウエバスト式暖房機」と呼ばれる 今でいう石油温風ヒーターでしたが、蒸気暖房に比べて非力でした。床下で燃焼音なのかファンの音なのか低い連続音がしていました。多くの気動車の暖房もこのウエバスト式だったと思います。
西村様
目頭を押さえながらの閲覧、ありがとうございます。皆さんから速攻コメントをいただき、感謝しています。倉吉線、若桜線にも混合列車は走っていましたね。私は両線とも乗る機会はなかったのですが、中国地方は、ほかにも大社線、木次線と、混合列車が多かったですね。ウエバスト式暖房機については、デジ青を検索しますと、例のKawanakaさんの雪中撮影記にも出てきますし、井原さんの廃車体訪問記では写真も紹介されていました。
総本家青信号特派員さま
石北線の523レは混合でしたか。小生も同行していましたが全く記憶にありません。遠軽までの急行「大雪6号」での睡眠不足を補うためにウトウトしていたようです。特派員さまほどには乗っていませんが、小生も釧網線、石北線(記憶にはないが乗ったらしい)、五能線、日中線、飯山線、木次線で乗りました。簡易ローカル線から乗り鉄を始めた小生にとって、初めの頃に乗った飯山線の混合レには今でも印象深いものがあります。列車は長野11:48発越後川口行223レで、途中駅での貨車入替時分が豊野20分、飯山28分、森宮野原32分、十日町44分もあり、また主だった停車駅でも小荷物積み下ろしのため数分づつ停まって17:57越後川口着でした。何十分も停車して入替を眺めるのは楽しい時間でしたね。DCレで3時間強、SL旅客レで4時間のところを倍ほどの時間をかけて走るのは、さすがに当時でさえ時代遅れの感がありました。その後次のダイヤ改正で長野発車が2時間ほど遅くなりました。春未だ浅き頃の乗車でしたが、豊野で信越線と岐れて最初の停車駅の「信濃浅野」では信州らしい駅名の読み(しなのあさの)と雪解けの始まった周りの風景や、これから飯山線に乗るんだという期待感とがないまぜになって、強烈な印象として脳裏に焼き付いています。憧れのオハユニ61に乗って楽しんでいましたが、途中信濃白鳥辺りで乗客のオバサンが荷物係員に「ミカン箱を線路脇に落としてくれ」と頼んでいました。家族が待ち構えていたからですが、自宅近くの線路脇へ降ろしてもらうのは随分合理的だと感心したものでした。当時はこういうサービス?もあったのですね。ただし中身が何だったかはずっと気になったままですが。混合レは古き良き時代の鉄道風景の一つだったと思います。
1900生さま
「大雪6号」、一緒に乗りましたね。あの時は、10人前後が“現地闘争”と称して、北海道各地を回りました。飯山線もC56の牽く混合列車で有名でした。私も昭和42年に飯山線に初めて行きましたが、この時には、すでにDC化されており、蒸機列車は、ラッシュ時に残るのみでした。この時代でも、鉄道の近代化は着々と進んでおり、学年が一年二年違うだけで、訪問時の様子がずいぶん違っていたのですね。途中で荷物を投げ下ろすのは、何やら、戦後すぐ、ヤミ米を窓から投げ下ろして、警察の手入れを逃れていたことを思い出しました。逆に、駅でないところから荷物を載せるのは、小海線で野菜の出荷の際、途中で貨車を止めて、積み込んでいたこともありましたね。
総本家青信号特派員さま
戦後のヤミ米取り締まり逃れまでは思いつきませんでした。戦後すぐとはいえ一応戦後の生まれなものですから(笑)。小生より若い特派員さまが連想されるとはいささか驚きました。恐らく周囲から聞かれた戦中戦後の話を覚えておられたことからの連想だったのでしょうね。このエピソードを読んで皆でよく行った加太にまつわる話を想い出しました。あの頃親戚の法事の席で、クラブに入って加太へSLを撮りに行っていると近況を話したところ、叔父叔母が「加太はよく知っている。何度も買出しに行った。帰路京都駅で手入れがあるという情報が伝わると、皆鴨川の鉄橋上で窓から捨てた」と話をしてくれたのです。このあたりの事情は米手作市さまがお詳しいのではと思っていますが、今となっては何故加太だったのか、誰かツテでもあったのか、もう少し詳しく聞いておくべきだったと思います。昔は親戚の買出し、今(当時)SL撮影という時代の変化と何か因縁めいたものを感じたことでした。
総本家青信号特派員さま、
号泣しながら拝見しております。
国鉄が一番華やかだった頃の、ローカル線の想い出が次々によみがえります。乗客の服装に、同じ物を着ていたな、とか、こんな色だったな、とか、肌触りまで頭にうかびます。やはり写真は我が家のタイムマシーンです。
混合列車の暖房方法がやっと分かりました。ヌを繋いでないのに暖房が効いていることの不思議さが今まで続いていました。
河 昭一郎様、
お帰りなさい!お待ちしておりました。途中で途絶えているご投稿を是非とも再開してください。お手伝いも致します。
大阪通信員さんの写真整理が出来ましたが、その中に混合列車の写真が多くありました。ちょっと投稿してもいいでしょうか?無断投稿ですが、21時以降に投稿すれば大阪通信員氏には分かりません。なぜなら21時には熟睡されていますから。
米手さま
混合列車は、いかにも大阪通信員さん好みのテーマですね。人と貨物と列車が交錯する写真が見られそうです。ぜひ21時以降の投稿をお願いします。
尿意に促され不如意ながら今朝も早起きです。
総本家青信号特派員さま
客車シリーズ本当にいいですね。年を取ると涙もろくなるだけではなく皆様と同じく感動に咽んでいます。当時の情景を余すことなく残されておられるのは特派員という名に値いするものです。通信しない通信員として米手介護士のお世話になっておりますが、良くしていただいています。昔の画像を見るのは加齢する脳の活性化にも効き目があります。
米手作市さま
写真の電子化介護まことに有難うございます。どうぞ皆様の涙の乾かぬうちに混合列車の画像の掲示をお願いいたします。