北京―上海・北京―杭州鉄道、12月から時速250キロ寝台車両投入

 北京―上海・北京―杭州鉄道は来月、最高時速250キロメートルの寝台車両を投入する可能性が高まった。乗車料金は普通席よりも高く、当初は隔日運行の見込みとなっており、国内初の高速寝台車両の投入となる。「北京晩報」が伝えた。

 鉄道部門関係者によると、新型高速寝台列車は16両編成で、うち先頭の1号車および最後尾の16号車が二等普通席車両、8号車が食堂車、残りの13車両がすべて寝台車となる.

まもなく運行が始まる北京―上海、北京―杭州鉄道で使用される新型高速寝台列車が16日、上海で発表された。中国初の高速寝台車両となるこれらの列車は、21日に北京駅から出発する。時速は250キロ。上海から北京までの所要時間は9時間59分となり、これまでの最短時間よりも1時間29分短縮された。北京―杭州間は11時間となり、「Z」系列直行特急列車よりも2時間近く短縮された。このほか、車内の設備やサービスも改善されたという。

こんな記事が掲載されていました。自国製なのか、客車なのか、初めての電車寝台となるのかは、不明ですが、是非とも初乗車したいとの衝動にかられました。初乗車の際は、また感想記を投稿させていただきます。

列車のキー

悪評高い「2ちゃんねる」の愛読者でもある小生は、興味あるスレッドをみつけました。

函館本線での運転事故に関する新聞記事を取り上げていました。記事は次のようなものです。

>13日午前6時15分ごろ、北海道蘭越町のJR函館線蘭越駅で、蘭越発札幌行きの快速列車の男性運転士(25)が、ホームと列車のすき間に運転キーを落とすトラブルがあった。この快速など3本に遅れが出て、約70人に影響した。JR北海道によると、運転士は折り返し運転のため、先頭の運転室に向かう途中にキーを落とした。ホーム上を探したが見つからず、代わりのキーを手配して約1時間遅れで出発。
後続列車の運転士がキーが線路に落ちているのを見つけた。キーは前後の運転室の制御切り替えに必要だった。<

これに対する読者からの書き込みがこれだ。(品がないのはご容赦を!)

>電車にキーなんかあるわけねえだろw エンジンついてるのかよw

>>後続列車の運転士がキーが線路に落ちているのを見つけた
 よほどでかいキーだったんかね?

>電車ではなく気動車

>1時間遅れで70人だもんなw

と、まあこんな具合です。鉄道に趣味がないと言うことは知識もないと言うことですから一般的にはこのやりとりは普通でしょうね。でも、改めて「キー」と言われるとどんなものだったか、昔の気動車ならマスコンにモンキースパナ型のを差し込んで前進位置へ動かせればOKでしたが最近のは分かりません。誰か教えて!電車はキーになってるのかな?

阪和貨物線廃止

JR西日本は11月17日付けで近畿運輸局に関西本線八尾と阪和線杉本町を結ぶ通称阪和貨物線(正式には関西本線の一部)の廃止届を提出した。「問題なし」と認められれば、1年後の平成21年11月18日付けで廃止となる。理由は「平成16年7月以降使用を停止しており、今後も使用する予定がないため」としている。

阪和貨物線は関西本線と阪和線の短絡を目的として昭和27年9月1日に開通した。当線を走った定期旅客列車は、名古屋発着の「くろしお」の車両基地への回送を兼ねて、昭和40年3月1日から昭和42年9月30日まで東和歌山~名古屋間を運転された特急「あすか」のみであったが、臨時列車、団体専用列車は時折運転されていた。記憶に新しいところでは、昭和62年に京都から奈良線、関西線、阪和貨物線、阪和線経由で紀勢本線白浜まで381系で運転された「ふれ愛紀州路号」がある。また、昭和48年9月20日、関西本線湊町~奈良間が電化された際、当初線内に電車区がなく、昭和60年3月奈良電車区が開設されるまで同区間に使用される電車は日根野の所属で、当線を経由して送り込みが行われた。(これが原因で奈良電車区の103系は向きが逆になっている)

 杉本町駅から阪和貨物線に入る東和歌山発名古屋行特急「あすか」   (昭和41年5月27日撮影)

途中の停車駅は、堺市、王寺、奈良、伊賀上野、亀山、四日市であった。和歌山、奈良から名古屋へのビジネス客を意識した時間設定であったが、乗り換えが伴っても新幹線や近鉄特急を利用した方が速かったため乗車率は低迷した。また、「あすか」の停車に合わせて「金岡」は「堺市」改称した。

 クハ111-32を先頭とする回送電車で吹田工場からの出場車           (昭和48年11月11日)

 ED608の引く和歌山方面行貨物列車 (昭和48年11月3日)

ED60のラストナンバーで、昭和35年川崎重工兵庫工場製。新製以降昭和61年廃車になるまで、一生を阪和線で過した。

 

 EF527の引く竜華操車場行貨物列車 (昭和48年11月3日)

昭和2年川崎重工兵庫工場製。最初の配置は国府津区で東海道本線東京口で活躍。その後中央東線用として甲府区に転属、昭和32年鳳区に転属した。昭和51年廃車となったが、生れ故郷の川崎重工業兵庫工場で保存されている。 

 EF15120の引く竜華操車場行貨物列車 (昭和48年11月18日)

昭和29年三菱重工三原工場製。最初の配置は新鶴見でその後宇都宮に転属、再度新鶴見に戻り、昭和45年に竜華に転属してきた。昭和58年に廃車となったが、摂津市の新幹線公園に保存されている。

 

 ED604の引く竜華操車場行貨物列車 (昭和48年11月3日)

昭和33年汽車製造大阪工場製。当初作並機関区に配置され、仙山線の直流区間で使用、2年後の昭和35年鳳区に転属、以降昭和60年廃車になるまで阪和線で活躍した。

 

 ED6117 (昭和49年1月4日)

昭和34年東芝府中工場製。当初甲府区に配置され中央東線で使用、昭和47年に竜華区に転属、昭和53年、浜松工場で飯田線用のED6216に改造された。阪和線のED61は、17、18の僅か2両の在籍で、しかもED62に改造のため昭和53年に姿を消したため、あまり目立たなかった。

第133回同志社EVEのご案内

本日(?)のホームカミングデー、懇親会では、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。現会長の田中と申します。

さて、寧静館ではあがってしまって、えらくしどろもどろな回答になってしまいましたが、ここで改めまして同志社EVEのご案内をさせて頂きます。

なお、今後下表の内容に変更が生じた場合、こちらで改めて告知いたしますので、定期的にご覧頂けると幸いです。

問合せ先:田中健文(bth1109@mail4.doshisha.ac.jp)

<場所>

同志社大学今出川キャンパス、寧静館402号室(N402)

<出展期間>

11月25日(火) (16時半~20時半)

26日(水)、27日(木) (10時半~20時半)

28日(金) (10時半~18時半)

※ただし、括弧内に記載した出展時間帯は昨年実績のものであり、今年度スケジュールは11月15日に同志社EVE実行委員会よりアナウンス予定。ですので、時間帯について正式なご案内ができるのはそれ以降となります。・・・が、多分昨年度と似たような時間帯になるかとは思います。

<出展内容(予定)>

・現役生による写真展示

・鉄道模型(Nゲージ)公開

・前面展望ビデオなどの上映

速報! 山科の人間国宝 元気にご帰宅!

本日行われたカミングデー後の懇親会で、突然床に伏された“山科の人間国宝”は、無事お元気で帰宅されました。皆さま、ご安心ください。人間国宝からも、ご心配を掛けた出席の皆さまによろしくお伝えくださいとの連絡をいただきました。搬送に当たっていただきましたS本さん、付き添っていただきましたT田さま、ありとうございました。

なお、本日行われましたカミングデーの様子については、管理人よりのちほど写真特集で配信されますので、お楽しみに。

12/6は中之島へ

先日、乙訓老人に引っ張られて、京阪中之島線の終点に聳え立つリーガロイヤルホテルを訪れた。ここで来たる12月6日(日)に「昭和と京阪電車とドイツの路面電車」と題する京阪中之島線開業記念の講座が開かれる。講師の名前を見てほしい。なんと我が乙訓老人である。
この日は、会場の下見をするために訪れ、帰路に「掲示板に載せといてくれ」とチラシを渡されたのである。講座の内容は、老人が三歳のときから京阪に親しみ、「将来は京阪の社長になる」と小学校の卒業文集にまで綴った、京阪への愛惜の思いを吐露し、合わせて電車の母国たるドイツの路面電車も加えた、絢爛豪華なスピーチとなっている。リーガロイヤルホテルと言えば、大阪を代表する格式あるホテルである。乙訓老人の品格と、ホテルの格式が見事に一致した、稀代の講座と言えよう。
大は数百人から小は2、3人まで、老人は多くの講演を経験してきた。ところが、それらはすべてタダであった。今回は、金3300円を徴収する有料のセミナーである。さしもの老人も構えが違う。まだ一ヵ月以上も時間があるのに、老人の顔には心なしか緊張感があふれていた。
3300円が惜しくない会員、あるいはヒマを持て余している会員、12月6日は中之島線に乗ってリーガロイヤルホテルまで足を運んでほしい。

昭和の京阪がよみがえる

須磨・乙訓の両古老の著書がベスト鉄道書にノミネートされる!

「本の雑誌」11月号で鉄道本の特集があり、巻頭の出版界鉄人座談会で、須磨の大老『内燃動車発達史』、乙訓の老人『京都市電が走った街今昔』が奇しくも「鉄人の選んだベスト鉄道書」にノミネートされた。
「本の雑誌」は、本にまつわる話題を扱った月刊誌で、最近では「本屋大賞」を制定し、とくに書店員に人気がある雑誌である。斜に構えた編集姿勢が持ち味の雑誌で、今回のコーナーも大した期待もなく読み進めたところ、これがなかなかの的を射た座談会。30年以上前に発行された書籍を例に出すなど、出席者も相当の老練な鉄道ファンと想像される。それだけに両老人の努力の結晶が正当に評価された結果ともいえ、まことに喜ばしい限りである。
両老人とは先般ご一緒する機会があった。老いたりとはいえ、酒量も衰えず、鉄道の話になると口角泡を飛ばしての意気軒昂たる元気さである。この分だとあと10年は生き続けるであろうと、当会の老人パワーを改めて思い知った次第である。

赤線に注目(クリックするとポップします)

「都電荒川線の日」記念イベント

9月27日土曜日、「荒川線の日」の記念イベントとして、荒川車庫の一般公開が行われたので、都心に出掛ける途中一寸覗いてみた。ポスターやHPに「保存車6000形撮影会の実施」と書かれており、確かに以前「6152」が保存されていたが、平成15年に「荒川遊園地」に移されている。しかも「昭和24年日本鉄道自動車製」と記されており、一般に知られている保存車の中には同社製のものがなく是非確かめたいと思った。

 当日9時40分に自宅を出た。金町・町屋間は僅か15分、町屋で都電に乗換え荒川車庫には10時40分に到着した。車庫の前には山吹色も鮮やかな6086がビューゲルを上げて停まっていた。

6086の経歴は、ネコ・パブ社「RM LIBRARY19 都電6000形」によると、昭和24年3月8日付で入籍し、青山車庫に配属。その後、南千住→青山→三田→巣鴨→神明町→大久保→三ノ輪→駒込と転属し、昭和45年12月24日付で荒川車庫の配属となり、昭和53年4月27日付で廃車となっている。廃車後の足跡については公表されていないが、恐らく個人に譲渡され、大切に保管されていたものと思われる。所有者に手放さなければならない事情が生じ、解体寸前の処を、岩手・宮城内陸地震で亡くなられた岸 由一郎氏のご尽力により保存されることになったそうである。

その他、7515と7027が展示され、7515は車内も見学できた。また、6086については、離れての型式写真と、近くでの記念写真の時間がそれぞれ決められており、見学、撮影者も現場案内担当の方の指示に従い、マナーはよかったと思う。

 6000形については6152が平成12年12月まで動態保存的に営業運転されていたが、京福福井支社の事故により不可能になったため、荒川遊園地での静態保存になってしまった経緯があり、6086については6152の二の舞とならないように願う次第である。

 

昨年登場したレトロ調の新製車9001との並び

 

6086が荒川車庫に運ばれるまでの行程を紹介したパネル

 平成19年5月16日、荒川車庫に隣接して「都電おもいで広場」が設置され、本物のPCC5501と7500形で車体未更新のまま残った7504が展示されている。5501の車内は座席が撤去されギャラリーとして使用されており、運転台は道路に面した片方だけが復元されている。7504の車内は現役時代のままであるが、家庭用のエアコンが取り付けられている。オープンしているのは土・日・祝日の10時~16時までであるが、それ以外の日でも外からの撮影は可能である。

5501の運転台

当初は画像の通り、足踏式であったが、扱いにくいということで後日通常のマスコンに取替えられている。

 

ナニワ工機の銘板

 

7504

京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (5)

先日、米手作市さんからお誘いを受け、乙訓老人とともに、旧京都駅関連の地図を調べに京都府立総合資料館へ行って来ました。知らないことは誰彼なく聞きまくるという積極的な姿勢を信条とする作市さんが、旧京都駅に関する資料の有無を同館に問い合わせたところ、旧京都駅を描いた地図があるとの回答をいただき、この日の訪問となったものです。
見せてもらったのは、明治17年に京都市が発行した『下京地籍図第32組』。京都市内全域で作成された色刷りの地籍図のなかの旧京都駅付近の地域です。土地の区分を表す地籍図のため、地上の施設や建造物は描かれていませんが、鉄道線路だけは地図記号ではっきりと描かれています。なかでもこのシリーズ1~4で紹介した、現京都駅付近から大宮通に至る区間は、道路や川との関係が手に取るようにリアリティをもって迫ってきます。詳細なうえに着色されているので、その真実味がさらに増します。これを見ると、天下の東海道線とはいえ、家並みの裏手を抜けたり、道路と併用軌道のような感じで通り抜けたりした、ごく小規模な鉄道だったことが伝わってきます。
残念だったのは、旧京都駅そのものの地域は、鉄道記号が省略されており、単に「官有地」としてしか土地の表記がされておらず、線形などを読み取ることはできませんでした。
前回の(4)では、旧駅東の正行院前の道を旧線跡としましたが、今回、この地籍図を見ると、寺の前には細い道がもともと存在していました。旧線はこの細い道の北側を並行して走っていたことになります。

(5)西大路駅付近の開業時の橋脚
旧線は、大宮通付近までは現在線の北側を通っていたが、そこから西へはちょうど梅小路貨物駅を斜めに横断するようにして、現在の西大路駅付近で現在線と合流している。したがってここから西へは開業時の区間を走ることになる。
西大路駅ホーム西端に西高瀬川を渡る鉄橋がある。下の橋台・橋脚はコンクリート製である。昭和の初期の河川改修の際にコンクリート製になったということである。ここから少し西に水路を渡る小規模な上路ガーダーが2ヵ所ある。1ヵ所は立ち入ることができないが、もう1ヵ所は線路の直下まで行くことができる。

複々線+向日町回送線の5線のうち、上り2線を支えているのが、写真のような石と煉瓦の組み合わせで造られた橋脚である。あまり知られていないが、正真正銘の明治9年の大阪~京都間開業時の構造物がいまも現役として使われているのである。その他の3線はその後の線増時代のもので、コンクリート製である。
ここから桂川鉄橋まですぐ。桂川を渡れば、くだんの25連の避溢橋のあったところである。

(おわり)