花巻電鉄軌道(鉛)線


鉛温泉に到着する上り鉄道線用広幅車 道路もここだけ若干広くバスとすれ違えるが 右のミゼットから奥は離合不能である 1960年3月18日

乙訓老人からチョッカイが出た。通常なら須磨から乙訓へ、やれコメントせよ、ソレ何か言えと迫るのに今回は逆だが、事花巻の、それも軌道(鉛)線とあらば、須磨老人が黙っているわけに参らない。早速挑発に乗り、シコシコとキーボードを叩き始めることに。

開業時の電車デハ1 窓数とモニター窓数は通常一致するものだがこれは後者が1個多い

花巻電気として開業以来、盛岡電気工業、花巻温泉電気鉄道、花巻電気鉄道、花巻温泉電鉄、最終が花巻電鉄(1953年6月1日)と社名を変えた。鉄道線は1925年8月1日盛岡電気工業として開業し、軌道線は1921年12月25日同社に合併されたのである。

軌道線は1913年8月3日特許、1915年9月16日西公園-松原間8.2kmを開業した。車両は24人乗り、オープンデッキのデハ1が1両のみ、他に無蓋貨車2両。メーカーは大日本軌道鉄工部(→雨宮製作所)で、恐らく雨宮としては電車の処女作であろう。15馬力×2、営業時間が「自日出、至日没」とあってもたったの4往復で、西公園発7時30分、10時、13時、15時30分、所要41分。松原発は8時41分、11時30分、14時19分、16時36分。こんな列車数でよく電化したと思われるだろうが、元来電気会社だからで、蒸気機関車なら走行用より待機中の保火用石炭の方が沢山要るだろう。電燈用の間隔の広い電柱をで架線を保持したため、盛大にたるみ、最後までポールで過ごし、電車走行を真横から眺めると、ポールの部分だけ架線が持ち上がっていた。

何分共道路が狭く、恐らく15尺=2間半(4.55m)程度しかなかったので、車体幅が5フィート2インチ(1,575mm)と狭いものだった。2両目のデハ2は1918年製、デハ3は1923年製であった。


1926年製サハ2、3 この時点では扉が1枚引戸で開口部が狭い
1926年製デハ4 1928年製のデハ5も同形 後者は竹梯子をサイドに装着して最後まで残存
半鋼製デハ1(軌道線) 西鉛温泉 奥に無蓋車が1両いるが無人停留場である
恐ろしい急カーブにさしかかる鉄道線デハ4 車体幅は2,134mm(7フィート)あり、車体前後も絞ってない 山ノ神-鉛温泉間
この母子は電車が近づいてきて店内に逃避した このあたりは少なくとも道路の広い側の枕木は露出していないが 幅は2間半あるんだろうか 軌間と比較してご推定あれ

この電気軌道は1918年1月1日花巻(後中央花巻)に若干伸び、岩手軽便鉄道と接続。1920年4月志度平-湯口を延長開業。1922年5月1日馬車軌道だった温泉軌道(大沢温泉-鉛温泉)を合併し、その後電化。最終1923年5月4日湯口-大沢温泉に達し、18kmが全通した。

ボギー電車は木製のデハ4が1926年、デハ5が1928年に登場。車体前後を絞り、最大幅は1インチ拡がった5フィート3インチ(1,600mm)である。車輪は一人前の34インチだから、床高は空車で38インチ(965.2mm)。モーターは30馬力×2、定員40人(内座席22人)。


車内幅は間柱内面間で4フィート5インチ1/2(1,359mm)で 座席が左右各背もたれ共1フィートだから 座席間は749mmしかない しかもその後定員を50(内座席28)人に増加させた

恥ずかしながら26年前の拙著『私鉄私鉄紀行 奥の細道(上)』(レイル14号)から引用する。
「(前略)奥行きの恐ろしく浅いロングシートが両側にあり、しかもその上吊革もちゃんと2列に並んでいる。普段はさすがに千鳥にしか人は座れない。すなわち座席定員の半分しか座れない。その間をぬって車掌が乗車券を売りに来る。混んでくるとまさに膝が突き合いへしあいで、結構吊革にも人がぶら下がり、それでいてやっぱり車掌がやってくるのは神技である。ここの車掌はふとった人では絶対に勤まらない。」

1931年6月15日記号番号変更届で2軸車のデハ1をサハ1に、デハ2をデハ1に繰り上げ、サハ1に旧デハ1の台車モーター等を装着しデハ2とした。ところが8月16日に車庫火災があり、デハ1、3、4、サハ1を焼失。電気機関車も焼損したが、翌年復旧している。

1931年新製のボギー車デハ1、3、4は、ほぼ木製デハ4(焼失)、5をそのまま半鋼にしたもので、やはり両端は絞ってあり、その狭い妻面は「義理堅く」3枚窓なのも同じ。これが本稿主題(であるべき)「馬面」電車である。


西鉛温泉を出た「馬面」デハ1+ワ 流石に道路横断部分は併用の法定仕様に「やや」近い

ここになると路面と「軌道施工基盤」が同一=道路の約半分を事実上軌道が排他的に独占し バスやトラックとは離合不能

上の写真は道路が旧態依然―道路幅2間か2間半しかなく、しかも軌道がその約半分を独占使用しているのが分るだろう。本来併用軌道とは、道路を軌道と車馬とが仲良く使えという主旨なのだが。実はこれにも古い歴史?がある。1918年認可当局職員の現地視察復命書を引用する。
「(前略)道路ノ不良ナルニ加ヘ軌道ノ敷設亦頗ル乱暴ニシテ『軌条間ノ全部及其ノ左右各一尺五寸通ハ木石砂利其ノ他適当ノ材料ヲ敷キ鉄軌面ト路面ト高低ナカラシムヘシ』トノ命令書ノ条項ハ熊野停留場附近約半哩間ヲ除キテハ殆ント遵守セラレタル所ナク(尤モ路面ソノモノニ甚シキ高低アリ)枕木面ト路面ト同高ナルヲ常態トシ甚シキニ至リテハ施工基面ト同高ナル場所少ナカラス(殊ニ二ッ堰志度平間ニ於テ甚シ)。」

会社側にも言い分があって、当初は法定通り施工した(という)が、道路の余りの不良ぶりに車馬は少しでも状態の良い軌道上を走行。「電車ヲ避クル際軌道ヲ斜行シテ甚シク軌道ヲ損ゼシメルヲ以テ会社ハ自衛上殊更ニ軌道間ノ土砂ヲ除去」した由。すなわち場所によっては軌道を全く掘り起こして車馬の乗り入れを物理的に排除したわけで、狭い道路の約半分を事実上、排他的に独占使用していたのである。しかも道路管理者からも別段苦情や注意はなかったと見え、実に1969年9月1日の軌道線廃止まで続いた。こんなケースは全国的にもそうザラにあるものではない。

もう一点、この狭い併用軌道に、なぜ前後車体絞りもない、車体幅7フィートの鉄道線電車が平然と走っているのか。実は狭い軌道線電車ですら、カーブでは狭い側の法定残余(3フィート)に5インチ不足していたというのに。

1926年会社は全通により浴客激増輻輳を申し立て、夏季のみ軌道線に鉄道線電車の使用を、いわば「緊急避難」的に申請。「軌道線ノ道路使用幅員ハ之レカ為左右僅カニ9寸ツツ増大」「該軌道布設ノ為メ荷馬車ノ往来ノ如キモ極メテ僅少ニシテ自動車ノ如キハ殆ント往復ナク交通上支障」ないと強弁。10月31日までとの限定ながら、西花巻-西鉛温泉間への広幅車両の乗り入れを勝ち取ったのである。

ところが翌年もシャアシャアと同じ申請をし、当局は「其ノ後道路拡築ノ手続モ採ラス同様ノ申請ヲ為シタルハ穏当ナラス」と、これはマトモな対応だったのだが、どうしたことか1928年10月5日すんなり?認可。恐らく会社は認可の有無などお構いなく運行を続けていたのであろう。しかもこれは爾後完全に既得権となり、我々の時代でも平然と行われ、廃止まで続いたのであった。


鉄道線用広幅付随車に乗っていても、前頭の電車が狭幅なら前の景色が見えるという証拠写真 志度平温泉 こんな駅でも駅員が数名いた 

花巻電鉄軌道(鉛)線」への6件のフィードバック

  1. 須磨の長老様、
    写真に引き込まれます。ついこの間見た東北の日常がここにありました。もんぺとかい巻き、雪混じりの地道、音や匂いも思い出します。花巻駅に留まっていた馬面に乗ってみましたが堀川線のN電より狭いな、が印象でした。
    ところで質問があります。文中の「後者は竹梯子をサイドに装着して・・」とはどんな状態を言うのでしょうか?

  2. N◯Kよりこちらの投稿写真の番組内での使用依頼が来ています。
    掲示板への登録メールアドレスは現在使用されていないようですので、至急このコメント欄にて転載依頼への可否を教えていただくか、管理人アドレス(掲示板のサイドバーに表示されています)へ連絡をお願いします。

  3. N〇Kとは、かの有名「日本薄謝協会」でしょうか。小生は別段構いませんが、当然なことながら撮影者名、出処は明記して欲しいですね。それにいつのどんな番組で使うのかがわかりません。できれば使用した番組のDVDが頂ければ幸甚です。管理員さん仲介お願い申し上げます。

  4. 昨日のブラタモリで花巻のことが放映されていた。当然、花巻電鉄がでてきたのである。私にとっては苦い思い出の花巻電鉄。花巻と言えばもう1つ、宮沢賢治であるが、賢治が書いた「銀河鉄道の夜」に出てくる汽車は花巻電鉄の電車がモデルであるとの考えを花巻市博物館の学芸員の方が述べられていた。それも一つの考えであると思うのだが・・・確かにカムパネルラは「アルコールか電気だろう。」と言っている。しかし、その後で謎の声が「ここの汽車は、スティームや電気でうごいていない。・・・」と言っているので動力は電気ではないのであろう。動力は何かということは別にして、いろいろな情景描写などから考えると私は岩手軽便鉄道がモデルではないかと 思う。ところで湯口先輩の「RM LIBRARY 花巻電鉄(上)」に軌間1067mm未満の軽便鉄道で電車ー電気動力での開業はこの花巻電鉄が日本最初ということだと書かれてある。花巻電鉄とは記念すべき鉄道だったと言える。

  5. ブラタモリ、見ました。
    解説はともかく、久しぶりに「うまづら」を見て懐かしくなりました。まだ残っていたのですね。でも、あんな色だったかな?

  6. 私もブラタモリ、見ました。懐かしくて今日、昔の記憶を頼りに軌道跡を散歩しました。運動公園に車を停めて駅を過ぎてテハを置いてる公園を過ぎたら、あれどこ通ってたっけ で、うちに帰ってから路線図を調べていたらこのサイトにたどり着きました。
    ちょっとのつもりが長い散歩になりました。続きは来週です。

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