名寄
旭川から快速列車に乗ると1時間30分程度で、宗谷本線の要衝である名寄に着きます。宗谷本線は、名寄で明確に区分され、名寄までは、旭川の近郊区間として、普通列車以外にも、主要駅のみ停車の快速“なよろ”も運転されています。以前は、名寄本線、深名線を分岐し、機関区もあって、文字どおり鉄道のまちとしても賑わいを見せていました。その後、両線も廃止されて、現業機関も無くなり、宗谷本線の中間駅となりました。市の人口も減少が著しく、いまや3万人を割り込む状況です。駅の乗車人員も宗谷本線のなかではいちばん多いものの、JR北海道が公開したデータでは442人/日に過ぎません。 ▲急に冷え込んだ夜の名寄駅、上下の列車が交換する。稚内から走り通して来たキハ54の後部が、その苦闘ぶりを物語る。
当時、宗谷本線には昼間に客車列車が上下一本ずつあり、その交換が名寄で行われていた。C55同士の交換を収めるため、名寄駅1番ホームで待ち受けた。豪雪地帯も3月下旬では、すっかり春の装いで、構内に雪はほとんど残っていない。
▲交換する左:322レ C55 47〔旭〕 右:321レ C55 50〔旭〕▲▲列車が見当たらない現在の同一地点、ホームの屋根は変わらない。詰め所は撤去されている。▲名寄駅1番ホームで、321レの到着を待つ乗客たち。まだ、名寄本線、深名線があった時代、乗換客も多かったのだろう。右手わずかに駅弁の立ち売り姿が見える。拡大して見ると、「弁当200円」「寿司150円」と書かれている。
◀北海道ならではの服装をした乗客越しに322レ牽引のC55のキャブを見る。機関助士は、帽子に「団結」の白鉢巻を巻き、タバコを吸っている。動労の勢力の強かった北海道では、労使対立が激化し、蒸機には落書きが見られた時代だった(昭和47年3月)。▼現在の1番ホーム、支柱の木組みは補強されているが、今も変わらない。
▲名寄を発車した321レ(上)と322レ、どちらも停車時間は20分余りあったから、片方の発車を撮り、それから駅の反対側へ行って、もう片方の発車シーンを撮ることができた。駅の東側には名寄機関区があり、多くの側線があった。▶現在では、雪に埋もれているが、線路は撤去されているようだ。
▲名寄駅に進入する「サロベツ1号」、宗谷本線の特急は高速化が図られ261系に統一されている。
▲19時30分発の音威子府行き4333D、これが名寄から北へ向かう普通列車の最終。
▲昭和2年建築の名寄駅、マンサード屋根を持つ風格ある駅舎だが、18時以降は無人駅で、大きな待合室も人気がない。▲▲20時の名寄駅前、駅前にはクルマ、人はゼロだった。温度計はマイナス12.5度を指している。
総本家青信号特派員様
厳冬の北海道を懐かしく拝見しています。321レ、322レにはよくお世話になりましたし、名寄に着くとホームに降りて手足を伸ばしたり、弁当を買ったり、先頭まで行って牽引機を写したりと停車時間を楽しんだものでした。駅弁ですが、以前の「寒中北海道見聞録 復刻版」の中でも使った映像ですが、コメント欄に写真添付ができるようになったので初めて活用してみます。49年前の昭和44年3月7日購入の角館(かくだて)商会の100円の寿司です。
西村様
さっそくデジ青の新機能を活用していただいて駅弁の掛け紙を拝見しました。改めて「青信号」23号の見聞録を見直しました。当日は、夜行「大雪」で遠軽下車、名寄本線で撮影下見をして名寄まで行かれ、その際に買われたものでしょうか。そのあと、折り返して、撮影地の上興部へ向かわれたと書いてありました。私の写真では、寿司は150円となっていましたが、別の寿司も売っていたのでしょう。値打ちのある100円でしたね。
昔の写真と今の写真を比べると、いつも違和感におそわれる。
今回その理由が分かったような気がする。
一つにはカラーと白黒で時代感が違うこと。
もう一つは駅に人物が写らないこと。
個人的な好みかもしれないが、人物が無い写真は無機質で興味がわかないのだ。特に雪国の駅には“ねんねこ“や“かいまき”が必須品である。なつかしい写真に気持ちまで暖まります。
米手さま
いつも、鋭い考察のコメント、ありがとうございます。“駅で人物が写らない”こと、全く同感です。地方へ行くと、駅には高校生しか見当たりません。昔は、いろいろな人が駅に集まってきました。高校生もいましたが、お年寄り、働き盛りの中年、子ども、家族連れ、時には、その筋の人まで、駅は人種の坩堝でしたね。歳を取ったせいでしょうか、小さな子どもを連れた家族連れが、これから乗る列車を楽しみにして、改札が開くのを待っているのを見ると、ほんとに平和で心の安らぐ場面だなと思いますよ。