追憶の九州 一人旅 (2)

早岐へ

土日2日間は九州内の新幹線・特急が乗り放題という「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」を握り締めて、まず博多から向かったのは、早岐でした。「かもめ」「みどり」「ハウステンボス」の3特急を併結した列車は、13両編成という最近では珍しい長編成です。
「はいき」という響きが、いかにも九州らしい好ましい駅です。長崎へは何度か行ったものの、脇にそれる早岐・佐世保は学生時代以来で、文字どおり思い出の駅を訪ねる旅でした。

駅舎は、40年前と変わっていなかった。中の待合室の様子もそのまま。もちろん細かくは改造もされているだろうが、40年前の思いが蘇ってきた。ただ、蒸機の時代は現業機関が集中し鉄道のまちとして賑った早岐も、単なる分岐駅となり、ずいぶん寂しくなってしまった。

0番ホームと1番ホームを見る。幅の狭いホームと、木組みの上屋が、いい味を出している。支柱の下部が補強してあるのは、九州の駅の共通のスタイル。早岐の駅名標をしみじみ眺めながら、過ぎし日を偲んでいた。

かつての早岐機関区は、とうの昔に姿を消したが、煉瓦造りの給水塔だけが、記念物のように置かれていた。左手に「早岐機関区発祥之地」の碑が見える。下掲の機関区とほぼ同位置からの撮影。

ハウステンボスから一駅だけの「ハウステンボス」が、先頭車改造された切妻のクハ783を先頭に入線する。ここで佐世保からの「みどり」と併結される。併結後は、両端が流線型のクハ783・クロハ782となるため、貫通面を見せたクハ783はこの佐世保~早岐~ハウステンボスでしか見られない。

早岐機関区の上路式ターンテーブルに乗るC57111。門鉄デフは、もっともポピュラーなタイプだが、C57にはいちばん似合っていたし、区名板の「早」が、いかにもC57のイメージに合っていた。1並びの番号もよく、言わば、もっともC57らしい、好きなカマだった。

早岐機関区は、佐世保・長崎本線用のC57、貨物用のD51、それに松浦線用のハチロク・C11が配置され、区には煙が絶えなかった。この年に初めて買ってもらった135ミリの望遠レンズを通して、区の賑わいを表現してみた。

駅の構内で佐世保方から来たD51の貨物をとらえる。中間に石炭車も見えるが、これは松浦線沿線に小さな炭鉱があり、そこから運び出されたものだ。この時期、駅の構内とはいえ、上空を遮る架線もなく、実に広々としている。

高校生の私を早岐へ向かわせた最大の理由は、このC11の牽く特急「さくら」であった(写真は佐世保での撮影)。C11が佐世保~早岐の末端区間で特急「さくら」を牽くことが「鉄道ファン」に大々的に報じられていた。
早岐では、佐世保方に対してはスイッチバックとなるため、DD51の機回しの手間を省くため、この区間のみC11が先頭に立つというもの。最後の蒸機特急と言われ(その後「ゆうづる」で復活することは判明していない)、しかもヘッドマーク付きである。
勇躍、佐世保へ駆けつけたのだ。ところが、早岐から回送されてきた「さくら」を見て落胆した。ヘッドマークがない…。これでは入替中と変わらない。機関士に聞くと、いつも付けていないと言う。
あとで聞くと、ヘッドマークを付けるのは、取材や撮影ツアーで区に依頼があった時だけ付けているのだった。本には、ひと言も触れていなく、のちにある鉄道雑誌の編集長になる、その書き手をずいぶん恨んだものだった。

追憶の九州 一人旅 (2)」への2件のフィードバック

  1. 早岐は門デフパシフィックのふるさと。九州の蒸機は北海道や東北の様なみっともない改造がなされず全体に綺麗で、整備も行き届いていた。新品のレンズを持った高校生がドイツ式デフレクターとも言われた門鉄デフの最も似合うC57を目の前にして時間が過ぎるのも忘れて撮影に没頭したことが目に浮かぶようです。実は、DRFCでは同じ昭和42年の夏に久大線の豊後森から分かれた宮原線(現在は廃線)麻生釣で合宿をした。現在、勇敢に中国を旅行中のぶんしゅうさんがデジ青でこのことを触れられている。小生、この合宿の後、総本家さんと同じ様に早岐に寄って「さくら」に連結するC11370を撮っているが、ヘッドマークもテールマークもなかった。その後、早岐に行くことはなく、この先もないと思う。

  2. 前回は大変失礼いたしました。
    中学校の同窓会で、週末は北九州入りしていました。
    「門ハイ」の客車所属表記も懐かしく、小倉や門司で、発着する長距離列車の、編成をながめていたことを、少し思い出しました。
    同じような性格の行橋も、駅が新幹線式の高架になり、田川線は平成筑豊鉄道となり、分岐は3セクの本当にちっぽけな扱いになり、いつ廃止されてもおかしくない状態でした。
    駅前に数年前まで残っていた駅弁店も、廃業し建物も無くなっていました。
    数年前に「築100年」のお店の話を聞きながら、駅弁を買っていた時に、撮影していないことが、悔やまれます。
    行橋の駅前では唯一、千鳥饅頭の2階に「ステーションレストラン」が残っていました。
    ここの2階の窓から、40年くらい昔の行橋の、幻影が見えるような気がいたしました。

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