「江若鉄道廃線50年 懐かしの写真展&鉄道模型運転会」、4日間の会期を終えて去る24日に幕を下ろしました。4日間の入場者は約300人、ピーク時には十数人が会場にあふれ、賑やかな思い出話に花が咲きました。駅前とは言え京都・大阪からは時間もカネも掛かる立地、ビルの都合で入り口には一切の案内表示なし(にも関わらずアンケートの来場理由の選択項目に「通りすがりに入った」とあったが、絶対にあり得ない話)、そして有料入場と、決して恵まれた条件ではありませんでした。どれほどの来場があるのか未知数でしたが、初日の開場早々からそれは杞憂に終わり、続々のご来場でスタッフは応対に嬉しい悲鳴を上げていました。
言うまでもなく、西村さんの江若鉄道の車両模型、滋賀鉄道模型愛好会の組立式レイアウトでの運転会、Sさんの湖西線写真展、ほか江若鉄道OBや主宰者の孫さんまで協力した多種多様な展示の賜物です。この種の展示会は、会場の賑やかさが成否のバロメーターだと私は思います。初対面の同士でも、写真をネタに会話が盛り上がれば大成功です。京都市電展と同じく、うるさいほどの会話が会場に充満していました。ご来場の皆さんは、やはり地元の大津市、高島市の方が圧倒的で、とくに江若鉄道のOBの皆さんは、同窓会状態が連日繰り返されていました。また鉄道雑誌の記事を見て関東方面からも数名がお見えでした。
▲最終日では、西村さん製作の歴代の江若鉄道模型を運転し、ラストランを飾った。湖西線の駅で待避する113系、485系「雷鳥」を、江若鉄道DCが追い抜く(!?)というシーンも見られた。
もと江若鉄道C111が修復中
いま東武鉄道で動態運転に向けて修復中の、もと江若鉄道「ひえい」C111についても修復中の様子を写真展示しました。保存に向けて奔走されていた東武博物館の元館長のHさんが、わざわざ日帰りでご来場いただき、びっくりしました。その二日前に「行かせていただきたい」の電話をもらい、正直、社交辞令かなと思っていましたが、ホントに新幹線で駆けつけられるとは、大感激の一瞬でした。Hさんは、自ら動態に適したC11を探しに各地を探索され、北海道から移送の際にも立ち会われるなど尽力され、当日は、Hさんが記録された写真もご持参いただき、現在の状況をお聞きしました。
▲同機の雄別鉄道時代、鉱員の通勤列車を牽くC111の姿(昭和43年、雄別炭山)。江別市での保存展示を経て、煙を吐いて走るとは信じられないことだ。江若鉄道ゆかりの車両は、ほかに現役、保存車両は全く残っていない。私は江若鉄道時代の同機は知る由もなく、湯口さんらの写真でしか知らないが、C111が唯一の江若鉄道由来の車両だ。来年には実際に走ると言うのだから、もうこれは感涙ものだ。
1号機の「鐘」発掘
そしてもうひとつ、貴重な「鐘」の発見です。開場の前日、江若交通の方が、一人では持てないほどの重さのある、「貴重品」と書かれた荷札の付いた「鐘」を搬入されました。ずっと同社の倉庫に眠っていて、社員の方も由来など知らず、「貴重品」の札だけを頼りに保管をされてきました。その由来の解明に、クローバー会のネットワークが役立つことになりました。蒸機に取り付けられた「鐘」と読んだ我々は、クローバー会編集の「レイル」江若鉄道特集号に眼が行き、西村さんが調査された結果、なんと江若鉄道1号機に取り付けられた、百年前の鐘である可能性が高いと結論づけました。この原稿は湯口さんが担当され、写真はデジ青愛読者の「レイル」編集のMさんの協力に依るもの、まさにクローバー会のネットワークが遺憾なく発揮されたお宝発掘でした。▲鳴らすと大きな澄んだ鐘の音が響いた。中央写真は鐘を付けていた1号機、右端は写真が掲載された「レイル」
▲そのあとのリリースも素早かった。朝日新聞社の取材があって12時間後には、もう同紙滋賀版に記事が掲載されたのだ。C111に続いて、1号機の部品が百年後に戻ってきたことも何かの縁なのだろう。
心癒やした写真?
最後に、手前味噌で僭越ながら、皆さんから展示写真に対して、お言葉をいただいた3枚について、私の思い出も添えて本稿の締めとします。いずれも「最後の二日間」に展示したものです。
▲営業最終日の昭和44年10月31日、始発列車に乗って終点、近江今津に着いた。この列車は、今津に通う高校生で途中から満員になった。男子はすぐ改札口を通って高校に向かったが、女子数人がホームに留まり、みんなで写真を撮りあっている。その向こうには駅員がいて、女子高生は意を決して駅員に呼びかけて、一緒に記念写真に収まった。長らく江若鉄道で通った高校生活も今日が最後、明日からはバス通学に代わる。そんな惜別の思いが、高校生に芽生えたのだろう。滋賀県の廃線跡を調査研究されている団体の代表者から「これはエエ」と言っていただいた。
▲その日の晩は、同志社北小松学舎に泊まり、最終列車を見送るために、みんなで夜道を歩いて北小松駅へ向かった。ホームには、明日のさよなら列車に備えた増結用のDCが1両ひっそりと停車していた。「ホームの待合室の灯火、車両から洩れる室内灯が、最終日の雰囲気をよく出している」と、いつも意欲的に撮影されている女流鉄道写真家に言われた。
▲翌日のさよなら運転時の日吉駅、小さな駅にも、最後を見送る地元の人たちが出迎えていた。向こうから来るのは、浜大津発堅田行きのさよなら列車、下り列車としては最終列車となる。この日は平日のため、ホームに集まったのは近所の母子だけというのが、生活に密着した江若鉄道らしさを物語る。「左の女性が泣いているように見えて感激した」と江若鉄道OBに言われたが、よく見るとこれはカメラを構えているのだろう。
江若鉄道の気動車は「角(つの:ポールorパンタグラフ)の無い電車」と幼き記憶に刷り込まれています。
また電車はふつうドアを閉めて走るのですが、客車の様に走行中にドアが開いている場合もあり、「けったいな車両」とも思っていました。
そして連結した時も各車両毎に運転士さんが乗っているのが子供心に面白く、その割に速度は遅く走行中に前後に「ガクガク」するのが不思議でした。(総括制御なんて知らないが、電車は運転手が一人と思っていました:苦笑)
廃止間際こそドアの鎖錠が励行された様ですが、のどかさの有る鉄道でした。
鉄鈍爺さま
コメントをいただき、ありがとうございます。私も小学生の頃、父に連れられて、琵琶湖へ泳ぎに行った時に、初めて江若鉄道に乗った時、同じ思いをしたことを覚えています。最後部の車両に乗ると、なんとドアを開けたまま走るのです。いつも乗る市電や京阪は必ずドアを閉めるはずなのに…、カルチャーショックでした。多分に、通風のためのドア全開だったのかも知れません。とにかく車内は満員でムシ風呂状態で、早く降りて、水に漬かりたい一心でした。さすがに廃止前の水泳シーズンでは、ドア全開で走ることはなく、きっちりドアは閉った状態で走っていました。
ドアを閉めたくても閉まらず、車掌がドア代わりという光景は見られました。
皆様のように江若鉄道の思い出を語れないのが辛いところです。廃線までに浜大津へは2度行っておりますが、乗ったことはもちろん、見た記憶も全くありません。今頃になって書籍や写真集を見て、遅まきながら勉強している始末です。
ダベンポートの鐘は貴重ですね。石原町の磐城セメントに譲渡された2号機には、江若の社紋が付いていましたが(奈良崎博保氏の「九州を走った汽車・電車」に掲載)、江若時代も2号機だったのでしょうか? もう一両の行方は? など、分からないことばかりです。江若が手放したのは昭和9年とされていますが、譲渡に際して取り外されたのか、それとも、もっと早くに何らかの理由で外されたものなのか、興味は尽きません。ですが、よく残されていたものと感心します。
紫の1863さま
いつもコメント、ありがとうございます。書籍の細かいところまで見ておられて、驚きました。「九州を走った汽車・電車」、たしかに江若鉄道の社紋を付けたままの磐城セメントの2号機の写真が載っていますね。西村さんの調査に依りますと、江若鉄道時代も2号機で、昭和9年に小倉鉄道へ譲渡され、昭和36年まで働いたとの報告がありました。同書は、私がまだ仕事をしていた時代に、出版社の編集長と二人で、企画・編集をしたもので、何度も小倉へ打ち合わせに行ったものでした。その後、島秀雄賞も受賞した思い出深い本です。著者の奈良崎さんは、小倉で産婦人科医をされている関係で、遠出が出来ず、九州に限定して撮影に専念されていました。海外はもちろん、東京へもほとんど行ったことがなく、九州の鉄道の生き字引のような方でした。