本稿(1)で江若鉄道OBの皆さんが、写真に写っている仲間たちの名前当てに興じていることを伝えましたが、自分の姿が写っている写真に巡り会うOBは、なかなかありません。たしか最初のスカイプラザ浜大津の展示の際に、叡山駅を通過する列車のタブレット授受の写真のなかの駅長が、会場にお見えになり、“自分が写っています”となり、その写真を後日お渡し喜んでいただいたことがありました。本日、なんと二例目の方が来られて、びっくりしました。
▲この写真、昭和44年11月1日の「さよなら列車」の車内の様子、くだんの方は、この車両ではなく、なんと次位の車両で列車を運転されている方だった。お見えになった途端“これワシやで”となって、会場が一気に盛り上がった。ちゃんと、顔写真入りの動力車運転免許証を持参され、「50年前は若かったなぁ、いま79歳や」と述懐されながら、まだ記憶力の衰えを見せず、つきつぎと当時の思い出話が湧いて出た。
江若鉄道のDCのうち、総括制御のできない車両は、写真のように一両一両、運転士が乗り込んで、ブザーを頼りに協調運転していた。さよなら列車は、下り3本、上り5本が、11月1日の午前中に運転された。さよなら列車にしては、車内が空いているのは、整理券発行の定員制としたことで、われわれも一週間程前の整理券発行時に仲間が並んでもらって人数分を確保し、北小松学舎に泊まった翌日は、上りの4列車に乗ることができた。編成は、14+15+52と手帳に書かれていた。乗った車両は中間の15で、もとキハ41000(のちのキハ05)らしく、肩よりも低い背ずりで、車内がずいぶん広く感じられる。ご夫人が多いのは、この日が平日のためである。くだんの運転士が乗られた52は、51とともに熊本の熊延鉄道の廃止により、江若に移ってきた。半室の運転室のため、お顔がちゃんと写っていたのだ。晩年、この2両がよく使われていたのは、“運転がしやすかった”と運転士の方も言っておられた。
総本家青信号特派員様
お疲れ様でした。
「撮影OK」の表示を見て、何枚か撮影させていただいたのですが、そのうちの一枚に記憶とつながる店の看板が写っていました。北小松に入線するキハ15を見守る駅長さんの写真ですが、右手にコカ・コーラのマークと共に「菓子の店ヒロ」が見えます。JR北小松駅前の広場は江若鉄道北小松駅跡ですが、駅前のお店でお昼を食べた折に、ご主人と話したことを思い出しました。「子供の頃から北小松の駅前に店があって」と伺ったのですが、まさに、その看板が写っていました。他にも江若の話を聞いたのですが、すっかり忘れていました。看板を見て少しづつ記憶が蘇り、もっと真剣に聞いておけば良かったと反省しています。
沿線住民の方や、写真に写ったご本人とは比べようもありませんが、半世紀前の記録が小生の記憶に繋がりました。
紫の1863さま
さっそくのご来場、ありがとうございました。北小松駅の看板、これですね。私は、お聞きする今の今まで、このような看板が写っていたとは知りませんでした。いつも感心するのですが、紫の1863さんの観察力は凄いですね。看板がきっかけで、北小松での思い出が蘇ったとのこと、何よりでした。やっぱり写真は“記録より記憶”ですね。
総本家青信号特派員様
丸太町の市電といい、江若といい、誠に心温まる写真展を感じます。最近は各地で鉄道写真展が盛んでそれぞれ撮影者と来場者や関係者との対話があるものと思いますが、写っている方に写真を渡されるなど総本家さんの交流は特別です。デジ青ならではの臨場感あふれる会場風景の発表に頭が下がります。最終日の前日夜にDRFCヘッドマークを急遽作成した話などは昔小学生の頃の8月31日に作成した夏休みの宿題を思い出しました。また、総括制御のできないアナログ的といいましょうか原始的な運転形態の2両目運転士は、これは傑作だと思います。私は1回だけ北陸鉄道能登線で見たことがりますが、海水浴客で超満員で写真は撮っておりません。毎度のことながら総本家さんのますますの独創的な発表を期待しております。
準特急さま
いつもお褒めの言葉を頂戴し、ありがとうございます。最近は、ほぼ月替わりで写真展をやっていますが、決して、一人だけでやっているのでは無く、市電では勘秀峰さん、江若は西村さんや前からお知り合いの皆さんとの共同作業の賜物です。これもクローバー会のネットワークならではです。ヘッドマークは、まさに夏休みの宿題的発想でした。思いつきや、一夜漬けで何かを生み出せたのも、若かったからこそと痛感します。今は、思いつきの発想も出てきませんし、一夜漬けする体力もありませんが、歳相応の活動を続けていきたいと思っています。
総本家青信号特派員様
江若展、ご盛況だったようで誠におめでとうございます。
それにしても、この鉄道展に凄い、素晴らしい出会いがあるものですね! 以前の高島市や歴博での展示会を思い出し、そして、人と人との出合いや交流の創出がなされることに、改めて思いを深めております。
また、統括制御が出来ないと一両毎に運転士さんが乗り込み、長編成の列車を運行する様は、高校の遠足で当時の京福で5両ぐらいだったかな?(ベビーブームで仰山生徒がおりました)それに詰め込まれ、大野方面に行った記憶があります。
運転士さん同士の意思統一をどうしていたのか?よく分かりませんでしたが、多少ぎくしゃくした動きの中走行した思い出があります。
この長編成の京福電車が越前本線を走った風景を見てみたかったものです。
特派員様の次の機会を楽しみにさせて頂きます。お疲れ様でした。
マルーンさま
いつも暖かいお言葉、ありがとうございます。
今回もいろいろな出会いがありました。私自身と来場者との出会いもさることながら、初対面の来場者同士が、写真を前にして、話し合っておられる光景を見て、写真展が新たな出会いを提供できた点、意義があったと思っています。
京福の越前本線、まだ大野まで伸びていた時代に撮影したことがあります。ちょうど、江若鉄道と同じようにローカル色の濃い、地元密着の鉄道として機能していました。また機会を見て発表します。
総本家青信号特派員様
江若鉄道展。相変わらず貴殿の写真展は盛況で何よりです。
2015年の4月に大津で開催された『江若鉄道の思い出』展が蘇りました。
『京都の桜』に浸りに行く途中、米原で新幹線を降り、在来線に乗り継いで訪問した同展は圧巻でした。
中で、『徹夜で製作したトレィンマーク』の場面が映えていたのを記憶しております。
実は江若鉄道は小生に取っては疎遠で、小学生時代にたった1回身近に見たきりでした。
それは、家族で大阪から『琵琶湖水泳』の観光バスで近江舞子に行った時の事でした。
湖岸の至近を2~3両がトラックのようなエンジン音を響かせて走り抜けるのを見た時、その運転状態に『愕然』(ちょっと大袈裟?)としたものです。
各車両に運転手が乗って運転していたのです。(これに気付く辺りは、さすが?鉄ちゃん=自画自賛)
後になって、総括制御の事を知りましたが、そうでは無かった『機械式』の運転手間の連絡はどうだったのかを見過ごしたのが心残りです。(『鉄』の常識ではタイフォン又は車内ブザーでしょうが・・・)
河さま
いつもコメントを頂戴し、ありがとうございます。河さまは、大津市歴史博物館にも足をお運びいただいたのですね。改めて、御礼申し上げます。今回は「徹夜で作ったヘッドマーク」も含めて、大津市歴博のものを再展示しました。私にとっては見慣れた写真ですが、来場の皆さまには、新鮮な気持ちで見ていただけました。
私も生活者として江若鉄道に乗ったのは、小学生のころ、水泳で乗った2回ほどしかありません。ただ、河さまと同じく、ふだん乗っている京阪や阪急とは全くちがう異次元の鉄道だったことが、趣味者として、廃止前に足繁く通う動機づけになりました。