追憶の九州 一人旅 (4)

大畑再訪

「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」を使った九州の旅も終盤となります。日豊本線で485系を撮ったあとは、肥薩線の山線区間の再訪とします。隼人から乗る特急「はやとの風」は、日曜日とあって自由席の確保が心配でしたが、案に相違してガラガラ、木を多用した車内の設備とあいまって快適な列車の旅となりました。
途中、明治の駅舎としてブレイク中の嘉例川駅に停車すると、すごい人出に迎えられます。ところが、駅前を見ると自家用車で満杯、何のことはない、鉄道を一切利用せず、鉄道の名所を車で訪れる現実に、鉄道ブームの断片を見た思いでした。終着の吉松駅に着いて、向かいのホームの「しんぺい」に接続1分間で連絡、いよいよ肥薩線の山線区間に入って行きます。
平成16年の九州新幹線の開業時に生まれた観光列車「しんぺい」「いさぶろう」は吉松~人吉間に2往復、上りを「しんぺい」、下りを「いさぶろう」と呼びます。指定券があれば乗れる普通列車で、絶景ポイントでは停車・徐行、車載カメラからの展望ビデオの放映、真幸、矢岳、大畑の各駅では10分余りの停車、駅では地元の特産品販売、そして制服の似合うアテンダントの甲斐甲斐しい接客と、観光列車らしいサービスがたっぷり。
大畑も40年ぶりの再訪となりましたが、以前に大畑の情景に惚れ込んだTさんから、「大畑は木が茂ってあきまへんで」と聞かされていました。確かに、蒸機の時代と比べると、大畑ループは車両を超す草木が茂っていて見通しが利きません。名声を博した撮影地が最近はすっかり写せなくなったとよく聞きます。それは、人工物の構築より、むしろ草木の繁茂など自然の変化によるものが多いようです。
変化した車窓と、観光地化した山線に、かつての大畑を訪れた時の感動がなつかしく甦ってきました。

スイッチバックして大畑駅に進入する「しんぺい」。大畑駅の配線は昔と変化なく、通過のできないスイッチバック配線は、昔のままだった。

大畑駅で10分停車する「しんぺい」。キハ47、140の3両編成で、古代漆色と呼ばれるエンジのカラーが青空によく映える。

大畑ループを行く。歳月は自然も変えてしまった。本来なら駅までも見渡せる地点だが、見通しはほとんど利かない。

ループ線の矢岳寄りのカーブを登って行く1121レ、爆煙を上げるD51。大畑で迎える朝の光景は、蒸機の良さをしみじみと感じた。当時の草木の茂り方はこんなものだった。

 

1121レとは、門司港発、鹿児島本線・肥薩線・吉都線経由の都城行きの夜行鈍行だ。当時、九州にまだ多く走っていた夜行鈍行の一本。何度もお世話になった列車で、列車番号は変わっているが、戦前から走っている列車だった。冬の朝、ループ線を上がってくる1121レ、南九州とは言え、さすがに寒い。煙を編成全体に纏わりつかせながら、ループ線を上がってくる。煙の軌跡が、そのままループ線の形になって残っていた。

大畑駅で発車を待つD51の牽く混合列車。重装備のD51が先頭、わずか1両の客車は、本日は貴重なダブルルーフのスハフ32、その後に長大な貨車編成が続き、しんがりをまたD51が務める。

戻りとなる都城発門司港行き1122レが深夜の大畑駅に停車する。車内は1121レよりさらに空いていて、1両にほんの数人の乗客だった。D51と客車から洩れる光が、駅構内をほのかに照らす。これほど夜行列車の旅情があふれた列車もない。1121レ、1122レは昭和47年3月改正で消えた。

追憶の九州 一人旅 (4)」への3件のフィードバック

  1. 40年経過すると自然界の植物も変化するのでしょうか。撮影地を再訪すると以前と勝手が違い、成長し過ぎた木に悩まされることはよくあります。多分、総本家さんの撮られた時期の肥薩線の風景は同線が鹿児島本線と言われた時期や4110やE10が活躍した時期とそう変化はなかったと個人的に推察します。しかし、その後の植物の繁茂は異常気象か手入れ不行き届きではないかとこれまた勝手に推察しております。日本の代表的な車窓風景のこの場所、機関車が当時食傷気味のD51であったためか、殆んど行っておりません。昭和42年8月のDRFC大合宿は宮原線麻生釣で行われましたが、その後、個人行動をした伊集院まで撮影記録がありません。確か、大畑でテント張ったような気もしますが、1枚も記録がないなら単なる通過であったのか、このあたり合宿残存兵のぶんしゅう旅日記さん、記憶がありませんか。もう1回は昭和47年5月、技術士のKさんの名ドライブで吉松みなとや旅館に泊まり、日豊線C57等の撮影後夜間山越えで人吉に向かいそこで泊まった様な気がします。翌日はやはり球磨川沿いのC57を撮り、高森に向かっています。もう一人の同行者はロギング太郎さんでしたが、皆D51よりC57が好きだったんでしょうか日本一の鉄道風景を見ていません。今から思えば損をした気がします。

  2. お書きになっている昭和42年8月のDRFC狂化合宿は、私はまだ高校3年生で、知る由もありませんが、「青信号19号」を見ますと、T塚さんが詳細な合宿レポートを書かれています。それによりますと、宮原線麻生釣のキャンプの翌日に、大畑でもキャンプを張られていますね。
    余談ですが、この「青信号19号」は、DRFCの入会直後に手に入れ、むさぼるように読んだ思い出があります。合宿レポートでは、準特急さんの今も変わらない人柄をとくと知ることになりました。

  3. 総本家様、有り難うございました。やはり、大畑でテントを張ったのですね。1枚も写真撮っていないのが、今となっては不思議です。同行した人は撮影したのかどうか、ぶんしゅうさんはどうでしたか。この後、龍馬が日本初の新婚旅行に行ったと言う霧島方面を散策し、韓国岳に登っております。さらに指宿枕崎線の終点枕崎で宿泊したような記憶があります。確か、熱烈な京阪ファンのY氏の親戚か知人宅に御世話になったような気がします。薩摩富士を見ながらバスガイドさんと撮った写真にぶんしゅうさんも写っております。

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