昭和の電車 改訂版(63)ー国鉄クモハ73型ー 投稿日時: 2020年4月8日 投稿者: 米手作市 昭和の電車63回は63系。 今回は思い出話が殺到することを期待します。 以下、河 昭一郎さんから以前にご投稿いただいた写真をもう一度ご覧頂きます。 ▲正面の通風口フタが無いぐらいで、ほぼ原型 クモハ73119 昭和の電車右端にかすかに描かれている改良後の73。クモハ73049 この記事を共有:Tweet印刷 関連 関連記事: 昭和の電車 改訂版(140)ー神戸有馬電鉄テン1号ー 昭和の電車 改訂版(133)ー遠州鉄道モハ1ー 昭和の電車 改訂版(108)ー京成クハ2000型ー 昭和の電車 改訂版(75)ー相模鉄道キハ1000系ー 昭和の電車 改訂版(62)ー伊予鉄道モハニ200型ー 昭和の電車 改訂版(31)ー相模鉄道モハ5000型ー 昭和の電車 改訂版(9)ー国鉄クハ79066ー 昭和の電車 愛知電鉄デハ3300系
此のところ、小生にとっては苦手の地方鉄道の記事が連続していたため、ついボヤっとしてたら得意分野の国電(ロクサン)が登場しているのをスル―していました。 しかも小生の名前が出ている上に写真も2葉掲載して頂いており、感謝に堪えません。 ・・・で、誰でも知ってる蘊蓄を少々。1枚目の写真は、関東で活躍中のロクサン⇒73化の典型車で、もう1枚はずっと後になって吹工で再改造(更新)された関西のナナサンですが、運転席の球体形通風器も然る事ながら、更に吹工独特の施工があります。 関西の国電がスピードにこだわっていた証ですが、今更の話でスミマセン。 返信 ↓
若輩の小生でも、この電車の思い出はありますが、デジ青の皆様のご関心は、もっと古いところにあると存じますので、宮松金次郎氏の作品からお目に掛けましょう。ちょいと不思議に思ったのは、客室部への(米兵)乗車禁止の警告(=OFF LIMITS)は、英語で標記されているのに、運転室立入禁止は、日本語表記です。米兵の運転室乱入を防止する為、この措置が取られたと聞くが、これでは「俺は日本語ワカラン!」居直られてしまったのではないか?、と心配してしまいます。このモハ63611は、池袋電車区で昭和22年11月7日の撮影です。 返信 ↓
きっと進駐軍にはよう言わないけど、日本人の買い出し客にも手を焼いていたのでしょう。 私が63型らしきものに初めて乗ったのは、昭和34、35年頃の京浜東北線でした。実際乗ったのが63型か73系かは判然としません。 三段窓で、その窓の上の楕円形ホーロー板に京浜東北や山手と書いてあったのを覚えている程度です。これはなんだったのでしょうか? 返信 ↓
宮崎繁幹殿 これは、これは貴重な写真を御披露いただき、実感出来なかった時代に心を馳せております。しかも、高松吉太郎氏と双壁の大御所、宮松金次郎氏の作品ですネ。 原形のまま?なので、その意味で美しい姿ですね。 蒲鉾の前面に有る通風ヨロイ、ドア上の屋根に付いた山形水切り、窓下の3等車標記、どれも小生の幼小時に見ていた姿が目に焼き付いております。 ただし、幼小時の事とて当然カメラでの記録は無く、このような写真で『偲ぶ』のも楽しいものです。 ありがとう御座いました。 返信 ↓
米手作市様 貴殿のコメントの最終部『これはなんだったのでしょうか?』ですが、室内(ドア上)と車外(扉間の幕板部)に掲出したホーロー板の事ですか? それは、63形~73形の時代を通して京浜東北線と山手(当時はヤマテ)線が品川~田端間については同一線路を走行していた上に、同一車種の使用が多かったための誤乗防止策でした。 なお、このサボに似たホーロー板は、通常の窓下サボの約半分の小形でした。 因みに、上記区間で両線が分離運転されるようになったのは1956(昭和31)年11月19日からで、それまでは増設線路敷設用敷地は空き地のままでした。 返信 ↓
そういえば山手線と京浜東北線の列車が向かい合わせのホームから発着していたことを思い出しました。しかも同じ茶色の電車でしたから表示が無ければ乗り間違いも多かったでしょう。関西には無かった「楕円形のホーロー板」が珍しかったのです。 返信 ↓
米手作市様 あの~、細かい事を言うようですが・・・このホーロー板はそれ自体は楕円形では無く、横38センチ、縦8センチの長方形で、その中に楕円形がデザインされており、路線名の京浜東北と山手が楕円形内に書かれていました。 また、取り付けは車内外とも四隅をビス止めしてありました。 なお、このホーロー板のデザインは京浜東北線は白地に紺色字だったと記憶しており、山手線には赤又はオレンジ色が使われていた気がしますが、詳細は失念しました。 返信 ↓
此のところ、小生にとっては苦手の地方鉄道の記事が連続していたため、ついボヤっとしてたら得意分野の国電(ロクサン)が登場しているのをスル―していました。
しかも小生の名前が出ている上に写真も2葉掲載して頂いており、感謝に堪えません。
・・・で、誰でも知ってる蘊蓄を少々。1枚目の写真は、関東で活躍中のロクサン⇒73化の典型車で、もう1枚はずっと後になって吹工で再改造(更新)された関西のナナサンですが、運転席の球体形通風器も然る事ながら、更に吹工独特の施工があります。
関西の国電がスピードにこだわっていた証ですが、今更の話でスミマセン。
河 昭一郎さん、
お久しぶりです。
なかなか国鉄型が登場しないのでヤキモキしておりました。今後、63型を使った私鉄車輌が出てきますのでお楽しみください。
若輩の小生でも、この電車の思い出はありますが、デジ青の皆様のご関心は、もっと古いところにあると存じますので、宮松金次郎氏の作品からお目に掛けましょう。ちょいと不思議に思ったのは、客室部への(米兵)乗車禁止の警告(=OFF LIMITS)は、英語で標記されているのに、運転室立入禁止は、日本語表記です。米兵の運転室乱入を防止する為、この措置が取られたと聞くが、これでは「俺は日本語ワカラン!」居直られてしまったのではないか?、と心配してしまいます。このモハ63611は、池袋電車区で昭和22年11月7日の撮影です。
きっと進駐軍にはよう言わないけど、日本人の買い出し客にも手を焼いていたのでしょう。
私が63型らしきものに初めて乗ったのは、昭和34、35年頃の京浜東北線でした。実際乗ったのが63型か73系かは判然としません。
三段窓で、その窓の上の楕円形ホーロー板に京浜東北や山手と書いてあったのを覚えている程度です。これはなんだったのでしょうか?
宮崎繁幹殿
これは、これは貴重な写真を御披露いただき、実感出来なかった時代に心を馳せております。しかも、高松吉太郎氏と双壁の大御所、宮松金次郎氏の作品ですネ。
原形のまま?なので、その意味で美しい姿ですね。
蒲鉾の前面に有る通風ヨロイ、ドア上の屋根に付いた山形水切り、窓下の3等車標記、どれも小生の幼小時に見ていた姿が目に焼き付いております。
ただし、幼小時の事とて当然カメラでの記録は無く、このような写真で『偲ぶ』のも楽しいものです。
ありがとう御座いました。
米手作市様
貴殿のコメントの最終部『これはなんだったのでしょうか?』ですが、室内(ドア上)と車外(扉間の幕板部)に掲出したホーロー板の事ですか?
それは、63形~73形の時代を通して京浜東北線と山手(当時はヤマテ)線が品川~田端間については同一線路を走行していた上に、同一車種の使用が多かったための誤乗防止策でした。
なお、このサボに似たホーロー板は、通常の窓下サボの約半分の小形でした。
因みに、上記区間で両線が分離運転されるようになったのは1956(昭和31)年11月19日からで、それまでは増設線路敷設用敷地は空き地のままでした。
そういえば山手線と京浜東北線の列車が向かい合わせのホームから発着していたことを思い出しました。しかも同じ茶色の電車でしたから表示が無ければ乗り間違いも多かったでしょう。関西には無かった「楕円形のホーロー板」が珍しかったのです。
米手作市様
あの~、細かい事を言うようですが・・・このホーロー板はそれ自体は楕円形では無く、横38センチ、縦8センチの長方形で、その中に楕円形がデザインされており、路線名の京浜東北と山手が楕円形内に書かれていました。
また、取り付けは車内外とも四隅をビス止めしてありました。
なお、このホーロー板のデザインは京浜東北線は白地に紺色字だったと記憶しており、山手線には赤又はオレンジ色が使われていた気がしますが、詳細は失念しました。