やっぱり蒸機が好き! 《九州》列車・線区編 8 高森線

続いて高森線の後編です。この紀行文のもととなった旅行は、学生生活を終えて、社会人の一年生の時でした。たしか、当時の有給制度は、入社半年後にしか取得できず、7ヵ月後に2日の有給を使って、上司の反対を押し切って、行ったものでした。まだ土曜日はすべて出社していた時代、日曜と組み合わせて、三日間の旅行となりました。馴れない仕事に忙殺されていた時期、何とも貴重な時間となったこと、いまも思い出します。

晩秋の南阿蘇を行く立野行き、C12+貨車+客車の列車。長陽付近(特記以外、昭和47年11月)。

高森線の二番列車が立野に到着した。続々と豊肥本線ホームへ移動するが、ほとんどが女子校生だった。

立野駅スナップ 女子旅でも蒸機に関心が行く時代となった。

高森線の撮影地と言えば、当時いちばん高い鉄橋として名を馳せた白川橋梁が真っ先に思い浮かぶが、途中の長陽、阿蘇下田、中松あたりで、ふらりと途中下車して、無人駅の待合室で何も考えないで時間をやり過ごし、次の列車を駅近くで写すのが自分の好みだった。時には、時間つぶしを兼ねて、2駅、3駅先まで歩き通すこともあった。一日粘っても写せる蒸機列車は8本だけ、社会に出始めて時間に追われる毎日を送っていた日々、こんな非効率で長閑な一日が得がたい時間に思えてきた。

立野駅の高森線ホームは、豊肥本線とは別の0番ホーム、背後は立野駅舎豊肥本線の列車が近づくと、また客車から学生達が降りて来た。接続時間があるから、高校生達は暖房の効いた車内で過ごし、乗り換え列車が来る頃に降りて来るのだった。立野から高森方面にも一定の通学生があり、豊肥本線からの乗り換えが見られた。外輪山を背景に高森線ホームを見る。中央に脚を立てたカメラクルーがいる。地元・熊本のテレビ局で、その15分後、待合室で休んでいた私は取材を受けることになる。“SLブームの立野駅では‥‥”というような内容で、京都から来たと言うと恰好の取材対象となったのだが、実際放映されたかは不明。

C12は距離の短い線区を想定しただけに、終点で転向することもなく、通常は上り勾配となる高森行きが逆行となった。テンダー機の逆行運転ほど冴えないものはないが、タンク機は似合っていた。なかでもC12は、細いボイラーのうえデフがないため、逆行列車を横から眺めると、次位に連なる客貨編成とともに絶妙の凹凸感が表れる。

小さなコールバンカーに石炭を山のように積み、炭庫に通風用の穴を設けた九州特有のスタイルを余すところなく見せて、歯切れのいいブラストを残して連続勾配を登って行く。定数一杯の列車を牽いて、懸命に連続勾配に挑む姿は、逞しくもいじらしい、高森線ならではの光景だった。

いっぽう真夏の立野駅、夏休みの期間中、リュック姿の学生達で豊肥本線ホームは賑わう(昭和48年8月)。草原が山頂近くまで広がる、阿蘇外輪山の独特の風景を背に、満員の行楽客を乗せた列車が過ぎて行く(昭和48年8月)。

ローカル線は夜も早い。19時57分、最終列車が高森に着いた。一駅ごとに乗客を降ろし、高森に着いたときは、2輌の客車は数えるほどの乗客になっていた。客車の白熱灯から洩れる光でホームだけが浮かび上がっている。

客車を残して切り離されたC12は、小さな駐泊所で一日の疲れを癒す。火床の整理を終えると、明日の朝まで早目の眠りに就く。時おり洩れる蒸気の音、低くうなる発電機、まるで寝息を立てているようだ。晩秋の山里は静かに更けていく。当時、高さ日本一の第一白川橋梁を渡る。川からレール面まで60mあった。熊本地震で損傷があり、架け替えのうえ、南阿蘇鉄道全体の復旧を果たすことになった。白川橋梁を渡ってトンネルを抜けると、短い区間、川沿いを走る。ほとんどを外輪山の麓を走る高森線では珍しい区間。

中松を発車した128レ、C12の控えめなスタイルが南阿蘇の風情によく溶け込んでいた。▲▲長陽を発車したDC列車、6往復のうち、2往復がDC列車だった。

阿蘇五岳と外輪山に挟まれた南阿蘇を行く短い旅は、まもなく終わる。コールバンカーを見せたバック運転は、ローカル線の列車によく似合っていた。中松~阿蘇下田(昭和48年8月)

「国鉄時代」40号(2015年2月号)より転載・要約

 

 やっぱり蒸機が好き! 《九州》列車・線区編 8 高森線」への8件のフィードバック

  1. 本線の大型蒸機を追っていた若い頃、C11やC12はもとよりC58でさえ小さいとバカにしていたものです。しかし、こうして改めて高森線の風景を眺めていると、C12の牽く混合列車はその地方の風土となんとマッチしているのかと思い知りました。
    これからの投稿を期待して待っております。

    • 米手さま
      いつも暖かい励ましのコメント、ありがとうございます。このC12という蒸機は、ほんとに目立たない、とくに人気のある蒸機ではなかったのですが、私はC12の走る風土とともに好きでした。とくに、文にも記したのですが、バック運転が実に似合います。とくに混合列車ですと、絶妙なあの凹凸感が編成にできて、たいへん似合ったものでした。

  2. ネタばれになるのを恐れて、コメントを差し控えておりました。
    高森線は第一白川橋梁や、阿蘇のカルデラをのんびりと走るシーンを思い出しますが、総本家様の切り口はひと味もふた味も違います。遠ざかる列車の後ろ姿からは、蒸気機関車の末路を暗示しているように感じ、通学の高校生で賑わうホームの描写では、少子高齢の現代とは異なる活気を感じます。詰襟の制服を着た男子学生は当時の私と同年代ですが、還暦をとうに過ぎてしまいました。ということは、女子高生も高齢者目前のオバハンですか!嗚呼、時の流れは恐ろしい…。
    ディスカバージャパンの最中で、アンノン続のお姉さんもよく見かけましたね。夜行列車で相席になると、嬉しかったものです。駅やホームの乗客が写っていると、列車だけではわからない「時代の空気」を感じられ、高齢者が目前に迫ったオヤジの胸に迫るものがあります。
    第一白川橋梁と前回の投稿にあった立野橋梁ですが、どちらも立野駅のすぐ近くにあったのですね。今回地図で確認するまで、恥ずかしながら知りませんでした。

    • 紫の1863さま
      いつもコメントを頂戴し、ありがとうございます。まず、私は立野橋梁と白川橋梁を混乱して間違ったキャプションを書いていました。訂正しておきました。さて、今回の高森線を撮影したのは、昭和47、48年です。初めて高森線へ行ったのは昭和42年です。いまから見るとわずか5、6年の差ですが、写真にすると、その時代差を感じます。1863さんが指摘された鉄道を使った女子旅、その頃のアンノン族が出現したのが、やはり万博後のディスカバージャパンの影響によるもので、昭和40年代前半は見掛けなかった光景です。写真は、そんな僅かな時代差も映し出してくれるものと思いました。

  3. 総本家青信号特派員さまの高森線、前・後編を懐かしく、また感心して拝見致しました。熊本には母の実家があり、偶に行きましたが、高森線に特化して撮ろうなどと殊勝なことは考えませんでした。しかし蒸機牽引の混合列車が、昭和40年代後半でも見られたのは貴重で、小生も惹かれるものがありました。デジ青には、他人様の作品紹介でお邪魔することが多いので、偶には小生の駄作もお目に掛けましょう。127レに乗車中に、撮影したものです。1972(昭和47)年のことでした。

    • 宮崎繁幹さま
      いつもデジ青にコメントを頂戴し、ありがとうございます。熊本にご縁があること、初めて知りました。当会にも、準特急さんはじめ、熊本にご縁のある方がおられます。さて、高森線の写真も見せていただきました。カーブで編成を撮ると、客車の窓に風景が映り込むのが大好きです。特段、高森線に特化したとも思わなかったのでが、客車列車が後年まで残っていたことも大きかったかも知れません。蒸機の本数はわずかなものですが、逆に社会に入って多忙な日々、蒸機を待つ間の無為な時間が貴重なものに思えたものです。

  4. 総本家青信号特派員さま
    一連の九州SL写真と記事を楽しく読ませて戴いております。今回は懐かしい高森線の写真を有難うございました。たった8本の列車を各地でよく撮っておられることと、乗客を入れてのムードある写真はさすがです。走行ムービー専門の小生にはとても真似できません。
    地方ローカル線はどこともほぼ独特の雰囲気を持ったものが多いのですが、高森線は外輪山近くという要素もあり、かなり独特の範疇に入るのではないかと思います。
    撮影ポイントでの列車待ちの間のあのボケーとした感覚はえも言われませんね。仰る通り、普段時間に追われている身には格好の気分転換方法であり、清涼剤でもありました。
    昭和48年か49年の正月休暇に九州の終焉期SL撮影計画を立て、全域を回ったことがありますが、丁度元日が高森線に当たり、朝一に白川橋梁で、以降阿蘇下田~中松辺りで外輪山やカルデラの風景と共に撮りました。夜は高森駅前の旅館に泊り、翌朝高森始発を撮るため、まだ明けやらぬ霜の降りた道を歩きました。立野から戻って来る列車まで極寒の中で待ちましたが、背景の中岳など阿蘇山がモルゲンロートに染まってゆくのを見て、寒さも疲れも一遍に吹き飛んだ記憶が残っています。8㎜に収録してありますので、機会があれば九州他線区と合わせてご覧戴ければと思います。

    • 1900生さま
      高森線の思い出、ありがとうございます。そうですね、草原が山頂まで広がっているなど、高森線から見える風景は、さすが阿蘇と感じさせます。ただ、スケールが大きすぎて、列車と絡めて撮ることができず、私はもっぱらスナップや接近撮影に徹しました。1900生さんには、先の総会ででたっぷり動画を拝見しましたし、明知鉄道の宿泊旅行でも、拝見しました。いまは、集まっての会合もできませんが、また拝見できることを楽しみにしています。

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