私の好きな電気機関車たち   ②

EF61  特急電車の補機も務めたスタイリッシュ機

電気機関車に関して、「鉄道ファン」創刊号(昭和36年7月号)で読んだ記事が忘れられません。「近く登場する新しい電気機関車」として久保敏さんが紹介していますが、ED72、EF30、EF70にまじって紹介されていたのがEF61でした。実際、これらの4形式は、この1、2年に登場していて、客貨ともに爆発的に輸送量が増大している時期でした。「側面の感じは、ぐっとモダーンに、フランスばりのスタイル」と記事は結ばれていて、側面図も添えられいました。機械室の窓と通風窓が一体となった、今までにないスタイルに、期待感を抱いたものでした。

EF61製造の経緯は、山陽本線の電化が進展し、客車列車用として蒸気発生装置を積んだ電機が必要になってきたことです。すでにEF58は製造を止めていたため、貨物用のEF60一次形をベースに製造されたのがEF61でした。EF60と異なる点は、歯車比の小さくして高性能性を確保し、蒸気発生装置を積んたこと、また将来の旅客列車の電車化に備えて小改造を施すことにより、貨物用として転用できるように考慮されていました。

初めてEF61を撮影したのは、やはり山科だった。東海道新幹線が開業する直前、東京発大阪行き145レを牽いてやって来たのはEF61 13だった。夜行鈍行とは言え、さすがは天下の東海道本線、ロザを2両も連結している(昭和39年9月)。

山科の大カーブでは、続々とEF61が西下して行った。左は東京発大阪行き「月光」EF61 7の牽引。優美な愛称とは裏腹に、客車は旧型ばかりだった(昭和40年8月)。右は名古屋発広島行き431レ EF61 4の牽引(昭和39年9月)。

何度も本欄で発表して陳腐極まりない写真だと思うが、山科の撮影の華は、この「高千穂」を牽くEF61 6だと思っている。最長16両(回送含む)の客車を牽き、山科大カーブを行く茶色のEF61、堂々としていて、ほんと、ええスタイルをしている(昭和40年8月)。

EF61は18両が製造され、全機が宮原区に配属された。当初は茶色塗装だったが、順次、青にクリーム帯を巻いた新塗装に改められた。初めて新塗装を撮影したのは、宇野線の各停に乗っていて、途中の妹尾で、東京発宇野行き「瀬戸」と交換した時、牽引は新塗装のEF61 7だった(昭和40年3月)。

 

 

つぎにEF61を見たのは、朝の広島駅だった。セノハチの勾配を153系「宮島」が越えるため、EF61 6の助けを借りて発車して行く。次位には、自連と密連を介するオヤ35 2を連結していた(昭和41年3月)。

特急電車もEF61のお世話になった。181系にパワーアップしても、自力では難しく、後部にEF61 4を連結していく。広島発新大阪行き「第一しおかぜ」。八本松で走行中、自動解放を行った(昭和41年3月)。

 

 

 

 

 

東海道新幹線の開業後、昭和40年前後がEF61の全盛時代で、上記のように補機として特急電車を押し、またブルトレはEF60 500代牽引だったが、ときどきEF61がヘッドマークを付けて代走することもあった。運用区間は東京(尾久)~下関で、文字どおり天下の東海道・山陽本線の新しい顔として活躍した。

その後、昭和43年10月改正で広島区へ転属、活躍場所は浜松以西の急行列車・荷物列車で、東京には顔を見せなくなり、一部では貨物も牽いた。急行でも、EF58とは運用は区分されていたようで、写真の熊本発名古屋行き「阿蘇」は、いつもEF61だった(昭和50年2月)。

急行列車の牽引が中心だったEF61も、急行そのものが廃止になり、もっぱら東海道・山陽本線で荷物列車を牽くことが多くなって来た。トップナンバーEF61 1の牽く荷38レ(昭和50年3月)。

EF61としては、最晩年の頃、荷38レを牽いて山科駅に近づく。荷物車も銀色の車体が多くなり、時代の推移を感じる。その後、昭和59年に、信越本線のEF62が急遽、東海道線に転用されて、荷物列車を牽くことになり、EF61はその座も奪われることになった。

 

 

 私の好きな電気機関車たち   ②」への7件のフィードバック

  1. EF61は大好きな機関車でした。
    模型も買っています。台数が少ないため写真はあまりないのですが、瀬野ー八本松で上り「つばめ」を押し上げている写真がありました。

    • 米手さんもEF61がお好きでしたか。しかもこの写真、セノハチの大カーブ手前では無いですか、貴重です。よく歩かれましたね。この角度で見ると、ホンマにカッコええ機関車です。やはり電機は一個ライト、茶色に限ります。

    • 新幹線博多開業の前には急行「音戸」が2本あり、下関行きの先頭に立つトップナンバーです。

      • 下関付近のEF61は、初めて見た気がします。ありがとうございます。下関行きは「音戸1号」のほうでしたね。当時たくさんあった急客は、ほとんどがEF58でしたが、一部はEF61が牽いていました。私は「阿蘇」牽引のEF61はよく見ましたが、「音戸」も牽いていたのですね。セノハチは、EF58なら補機つき、EF61は補機不要でしたので、両者の運用は区別されていたようです。

  2. 初めてコメントさせていただきます。昭和40年から42年頃までの急行「音戸」の牽引はEF58、EF61のいずれかを質問させてください。よろしくお願い申し上げます。

    • 今更ですが…50‐3以前の山陽本線広鉄局でEF61所定の旅客列車は下り音戸1号の広島~下関間、上り天草の下関~広島間でした。上り阿蘇は下関~広島間はEF58でした。EF61が広島区だったので広島で交代していたのでしょう。
      添付画像は真夏の海水浴臨時列車[光・とのみビーチ号]を牽引するEF6112。前年まではEF58の担当でしたが1980/昭和55年からはEF61の担当になりました。快速列車ながら日によってはなんと14系座席車が投入される大盤振る舞い列車でした。

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