私の好きな電気機関車たち   ⑨

赤い電気機関車① ED70

またしばらく電気機関車、続けます。交流機を示す赤い色をした電機は、今では近くでも日常的に見ることができますが。昭和40年代には、その数は限られていて、線区も限定されていて、遠くへ出掛けなければ見られない機関車でした。京都・大阪からいちばん近くで見られたのが、北陸本線田村以遠で働いていたED70、ED74、EF70でした。米原から交直接続機に牽かれて田村に着くと、目に飛び込んできたのが真っ赤な機関車、“遠くへ来た”思いを実感する瞬間でした。昭和32年に開業した初の営業用の交流電化路線、北陸本線の田村~敦賀に投入されたのがED70だった。昭和30年からの仙山線の試験線区では、メーカーの違うED44、ED45が造られテストが続けられ、優秀な成績を収めたED45が選ばれた。これを母体にして初の量産型交流機ED70 1~19が製造され敦賀第二機関区に配置され、田村~敦賀で旅客・貨物を牽くようになった。写真は糸魚川発米原行き234レを牽くED70 1 田村付近(昭和41年8月)

とくに雪のなかの赤い電機はよく映えた。この時期は、湖西線が開通し、EF81も走っていたから、ED70の牽く列車は、一日いても、ほとんど見ることが出来なくなっていた。余呉付近を行くED70 4の牽く228レ(昭和50年1月)

田村にはいつも数両の交流機が待機していて、米原方から牽いてきたD50、ED30に替わって、客貨を牽いて出発して行った。もともと米原(田村)~敦賀は、柳ヶ瀬線を迂回する新線が開通するのに合わせて、直流電化の予定だった。それが仙山線でのテストの結果、亜幹線での電化が最適と結論づけられて、急遽、米原~田村は蒸機で交直接続、田村~敦賀を交流電化することに結論づけられた。

 

田村で休むED70 12、母体のED45はデッキ付きだったが、箱型となって、正面のスタイルは、やや斜めになった。この時期に製造のDF50やEF30、ED60・61と共通のスタイル。重連での仕業を考えて、貫通扉があったが、のちに埋められた(昭和41年)。

 

田村で発車待ちのED70 9   昭和37年の北陸トンネル開通の福井電化時には、後継のEF70がデビュー、これは緩い勾配のある北陸トンネルでED70単機1000トン牽引は難しいと判断されて、EF級電機の新造となった。EF70が増備されると、ED70はもっぱら旅客の牽引となった。さらに、昭和38年の金沢電化でED70の増備となるED74が6両製造された。

雪の余呉駅に到着した上り列車を牽くED70 4 この年は雪が多く、余呉駅のホームにも雪の壁ができている。京都駅に戻っても、かなりの積雪で、市内の交通が大混乱していた。いつもなら家まで20~30分で行く河原町通のバスも、一時間以上掛かってやっと着いた(昭和50年)。

ついに無くなってしまう「北びわこ」の終点、木之本駅でのED70 9 結局、EF81の増備も進んで、昭和50年にED70は全廃されることになり、これが最後の冬となった。敦賀第二機関区で保存された唯一のED70 機関区公開日にきれいな赤の車体を見ることができた。現在は、長浜鉄道スクエアに移されて保存されている(昭和59年)。

 

 私の好きな電気機関車たち   ⑨」への4件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
     その昔北陸で生活していた者にとっては懐かしい限りです。
    赤い色合いでコンパクトでしたね。EF70が増備され段々目立たなくなってきましたが、昭和50年に退役したのですね!
     交流電化の象徴でしたね!

    • マルーンさま
      思い出コメント、ありがとうございます。私から見れば、赤い機関車は、北陸や、さらに遠くまで旅する時に、最初に“異郷”に入ったことを感じる機関車でした。お書きのように、ED70は、客車一両より短く、小さな機関車が、長い編成の先頭に立って、頼もしさを感じたものでした。

  2. もうそろそろED70ではないかと思って準備をしていました。
    この写真はDRFCで新入生歓迎旅行ではないかと思いますが、小浜線から敦賀機関区へ行っています。その一枚です。

    • 米手さま
      用意万端待っていただき、ありがとうございました。これこれ、この色ですよ。真っ赤な車体に、控えめに入った白帯が実にいいですね。カラーならではの写真、ありがとうございました。

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