なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈4〉

北海道の私鉄を巡る

北海道の私鉄も、ひと通りは巡っています。昭和40年代前半、電化私鉄は先述の定山渓鉄道と、少し前に米手さんが紹介された旭川電軌ぐらいで、あとはすべて運炭を目的に敷設された非電化鉄道で、簡易軌道もまだありました。寿都、美唄、真谷地、留萌、羽幌‥‥、と鉄道名を口にするだけでも、ワクワクするような魅力的な鉄道ばかりでした。ただ私にとっては、C62重連の息抜きのような感じで、あまり熱心に撮っていなかったのが悔やまれます。記念に乗車することもありましたが、ほとんど寝ていたのか、沿線風景も全く記憶に残っていません。

留萠本線の恵比島から分岐していた留萠鉄道、発車を待つ恵比島10時50分発の33D、車両はキハ1001、昭和30年製、当時流行の湘南型で、窓下の大きなヘッドライトは台車の動きと連動していた。留萠鉄道には5両のDCがいて、昭和46年の廃止後はすべて茨城交通に転じて、うち2両はいまでも車籍がある。留萠鉄道の子会社が、ロータリー式除雪用DLを開発し、その技術は昭和37年に日本除雪機製作所(現、NICHIJO)に継承され、除雪機、特殊車両等のメーカと成長した。同社の年史に写真を採用していただき、記念誌とキハ1001の模型をいただいたのも思い出(以下、昭和43年9月、一部「デジ青」掲載済み)。

そのキハ1001に乗って、終点の昭和へ向かい、昭和炭鉱の入換機として使われていたのが、有名な2両のクラウス機、15、17だった。この17号機は、万博で展示後、いまは遠野市に保存、15号は地元の沼田町で保存されていて、5年前に訪れた時に、ひょんなことから、京都から来た若い女性の運転するクルマに乗せてもらい、50年ぶりに再会できた。北海道でも有数の非電化鉄道だった夕張鉄道、石炭輸送に多くの蒸機が在籍したが、有名だったのは「9200の足まわりに8620のカマ」と言われた自社発注の1Dテンダ機の10形12号、車両基地もある鹿ノ谷は広大な構内で、国鉄駅とは背後の長い跨線橋で結ばれていた。鹿ノ谷の車両区、蒸機とDCが同居していた。DCはキハ250形253号で昭和31年製の湘南型の2扉車、キハ250形は4両あり、庫に隠れているが、中間に客車をはさんだDTD編成となっていた。廃線後、キハ253は水島臨海鉄道へ転じた。左は国鉄9600を購入した25号機。根室本線の芦別から分岐していた三井芦別鉄道、ここにも湘南顔のDCがいた。頼城行きのキハ103+キハ101、昭和33年製で、昭和47年の旅客営業廃止後は、関東鉄道鉾田線に転じた。左は根室本線、遠くに同鉄道のDLも見える。

このころ、三井芦別鉄道の貨物牽引はDLだったが、予備にまだ蒸機が残っていた。自社発注のC58で、C58-1、C58-2の2両がいた。給水温め器が無いのが特徴、以前に「デジ青」に投稿したところ、写真のC58-2が旭川郊外の温泉旅館の大広間に保存されていることが判明、赤ナンバーの話で盛り上がったことがある。北海道のベテランファンの釧路のOさんからも情報をいただき、その後、同機は解体されたことも聞かせていただいた。雄別鉄道は、釧路~雄別炭山44.1kmを走る鉄道。機関区は終点の雄別炭山にあり、丸一日掛けて訪問した。さまざまな蒸機が在籍していたが、カラーで写したのは、この一枚だけ、国鉄C56と同型の自社発注機1001号機で、ロッドとプレートを赤く塗り、たいへんキレイな姿を見せていた。左手はC11 1、もとは江若鉄道の「ひえい」C11 1であり、廃車後は個人宅で保存されたあと、東武鉄道で修復されて「SL大樹」を牽くことになったC11 123で、現役時代の貴重な記録と言えるだろう。

 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈4〉」への14件のフィードバック

  1. 運炭鉄道にも行って居られたとは!
    しかも、鮮明なリバーサルで、大感激です。
    夕張、湧別、芦別など設備関係のカラー写真は少なく、レイアウトの参考になります。他のカットも機会が有ればぜひ拝見したいです。

    さすがに、日曹には行って居られませんか?

    • 廣瀬さま
      またまたの速攻コメント、ありがとうございます。参考になれば幸いです。お尋ねの日曹炭鉱ですか、私は豊富で、96+オハ31の列車を撮っただけです。ただ、当会には凄い人もいます。検索窓に「日曹」と入れていただくと、「なつかしの日曹炭鉱線」という記事が出て来ます。終点の機関区付近の写真や走行中など、たくさんの写真がありますし、なんと、廃線跡もちゃんと調査されている西村さんの記事です。きっと感激されると思いますょ。

  2. 今回の記事も大変興味深く読ませて頂きました。
    昭和58年8月末に大学時代に回れなかった北関東の私鉄を回った際に、元留萌鉄道のキハ1001が休車になっている姿を、那珂湊で写しています。
    鉄道車両の命運とは、たとえ運炭鉄道が廃線になっても、車齢が新しく、内地の古い設備である機械式気動車を置き換える需要が、廃止年代の昭和40年代にあったから、多くの気動車が再起できたことは、運が良かったなと思います。
    人の人生も似たようなもので、今後の社会は定年まで働けず、早期退職が多くなると思いますが、鉄道車両が第2第3の人生を送るように、柔軟な考えで生きていたいと、この齢になって思います。

      • KH生さま
        北海道の私鉄DCのその後の姿、ありがとうございます。どちらも製造年、廃止→転出は同時期なのに、こんなに差がつくのですね。ワインレッドに塗られた、ヘソライトのキハ1001の元気な姿を見たかったなぁ。

  3. 留萌鉄道は、特派員さんが訪ねられた1年前、昭和42年9月46日に訪ねました。
    途中の幌新駅に明治生まれの客車が2両、ホハフ2854とホハニ201が留置されていました。ホハニ201は、かなり手を加えられていましたが、画像のホハフ2854は原型を保っていました。
    明治42年大宮工場製で、昭和27年12月に国鉄より譲り受けました。

    • 幌新の古典客車、ありがとうございます。私が行った時も、幌新で石炭列車の交換があり、待ち時間に写すことができました。全く同じ位置でしたが、貨車は連結していなかったと思います。たしか、この客車、遊覧用にどこかに移送するつもりが、あまりのボロさに、移送を諦めたと本で読んだ記憶があります。

  4. 昭和42年9月9日に訪れました。元国電(正確には省電)改造の客車が健在でした。
    昭和23年、専用鉄道から地方鉄道に変更する時に、旅客列車用として、戦災で被災したモハ31036、31070、31104の3両を日本鉄道自動車で客車に改造、スタイルは当然ですが、省電そのものでした。当初は電車並みにサハ1~3と称していましたが、昭和32年に気動車の付随車と使用するため制御回路と荷物室が設置され、ナハニ1~3に改番されましたが、実質的にはキサハニでした。
    画像は、気動車の中間車として使用されているナハニ1で芦別駅で撮影しています。

    • 米手さま
      ビニールシートのオール転換シート、まさに夕張のDCですね。

  5. 雄別鉄道は、昭和42年と44年のいずれも9月5日に訪れています。昭和42年に訪れた時、元江若のC11は、埠頭線で使用されていると聞いていたので、釧路駅からタクシーで行ったところ、DD13と同形の新車YD1301が停まっていました。

    • 貴重な写真、ありがとうございます。いま発売の「ピク」を見ますと、雄別の5両のC11の記事があり、埠頭線の鉄橋を渡るC11の写真が載っていました。

  6. 昭和炭鉱17号の保存先を遠野市と記しましたが、現在は栃木県の那珂川清流鉄道保存会で保存されていると指摘がありました。訂正します。

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