四国松山のディーゼルカー ~その2

松山周辺のディーゼルカーは、国鉄時代からのキハ54、キハ32、キハ185の3100番台、JRになってから就役した2000型。加えて2021年末での引退が報じられている、伊予灘ものがたり用のキロ47となります。キハ54は、国鉄最末期の昭和61年に登場したローカル用のステンレスカーで全車両運転台車です。他の国鉄ディーゼルカーと同じく21.3m、ロングシート、2枚折戸で250psのDMF13エンジンを2基積んでいるのでなかなか鋭い加速をします。12両全車が松山運転所に配置されています。

キハ54 0番台 松山駅

同じキハ54でも寒冷地仕様の500番台は30両全車が北海道で活躍中です。こちらはセミクロスシートですが、クロスシートは特急車などの再利用で種車によって回転式のリクライニングシートから転換クロスシートまで種類があります。北海道仕様なので二重窓で途中からエアサス台車に換装されていますが、登場時から非冷房のままで、夏には全開の窓を楽しむ車となっています。

キハ54 500番台 北見駅

網走をめざすキハ54 500番台 浜小清水-止別

キハ54 500番台の車内

キハ54 0番台 下灘駅

キハ54 0番台の車窓から

キハ54 0番台の車内

 

四国に話しを戻します。キハ32は、キハ54と同じく国鉄末期に作られた両運転台車のロングシート車で、こちらは鋼製の16m車体となっておりDMF13エンジン1基を搭載しています。

キハ32 伊予長浜駅

 

キハ1853100番台は、国鉄末期、四国に配置された特急用ディーゼルカーをローカル運用に格下げしたものです。一般形ディーゼルカーとの併結を前提に、前面スカートを撤去、ke93ジャンパ栓が取り付けられました。車内も普通車運用専業とするため、シートカバーをビニールレザーにリクライニング機構を固定化しました。全車8両が松山運転所に配置され、ローカル運用に就いています。

2000系DC 四国非電化区間高速化のエースも、既に南風とうずしおの運用から撤退し2700系に代替わりしていますが、宇和海ではまだまだ健在です。

キハ1853100 市坪 628D 元特急車とローカル専用キハ32の併結。この組み合わせは、国鉄時代も無かったと思われます。まさに百鬼夜行と言えます。無理に引っ張りますが、特急車のローカル運用は台湾にありました。枋寮-潮州が非電化だった頃、特急型DCのDR3000型がローカル運用に就いていました。もっともこちらは、ローカルといってもシートのリクライニング機構は生きており、布のカバーがかかっていましたが。

628Dの回送が北伊予の車庫に帰ります。

DR3000 屏東線 南州付近

 

市坪での撮影後、市坪を9時57分に出る915Dで下灘をめざします。下灘は青春18きっぷのポスターで知られていますが、それ以前からも男はつらいよのロケ地にもなっており海から近い駅として有名なようです。下灘を経由していく方の予讃線は、愛称を、愛ある伊予灘線というそうです。なんともねっとりとした響きですが、行ってみると景色と名称は合っているように思えました。

下灘駅

下灘駅

キハ32 下灘駅

 

下灘駅は、海が目の前に迫る風光明媚な駅です。この駅でゆったりと海でも眺めておれば、せいたくな時間を過ごすことが出来るのでしょうが、観光客が押し寄せていて実際はなかなか気忙しいものでした。ただ、鉄はほぼ居ませんので、ローカル列車の撮影には気兼ねなく立ち位置を確保することが出来ます。~つづく

四国松山のディーゼルカー ~その2」への9件のフィードバック

  1. ブギウギさま
    松山付近には、まだ国鉄時代のDCが多く残っていますね。キハ54は、北海道とは別形式のような感じで、車内は超ロングシートで、どう座ったらいいのか迷ったことがありました。キハ185+キハ32の併結は初めて見ました。私が行った時はキハ185の普通列車が多く走っていて、高校生が当たり前のように特急車のシートに座っていました。松山付近は乗り鉄もいいのですが、沿線にある、古くからの街を歩くのも私は好きです。今まで大洲、内子、八幡浜に下車しました。四国西部は、観光面でも目玉がなく、いつ行っても観光客も少なく、一人で気ままに街歩きが楽しめます。

    • ブギウギ様、総本家青信号特派員様
      昔、旅行先の魅力として北海道は青函連絡船で3時間50分、四国は宇高連絡船で1時間かかりましたが、当時はその魅力度としてそれぞれ丁度良い時間だと聞いたことがあります。要するに観光の魅力度としては北海道の方が上であるということです。四国に関係のある方には大変申し訳ないことを述べましたが、一方、日本の城で天守閣が昔のまま残っているのは12カ所ですが、そのうち4カ所が四国にあります。鉄道ファンを自負する方ならお分かりかと思います。お邪魔しました。

      • 準特急様
         今回は中には入る時間がありませんでしたが大洲城とその城下町周辺を歩いてなかなか渋い、と思いました。写真は大洲城です。

    • 総本家青信号特派員様
      以前、四国周りをされたレポート拝読させていただきました。四国は2~3日、特急を乗り継げば結構いろんなところを回れる距離感がいいな、と思います。この年末まで四国はキャンペーンとかで3日特急乗り放題で9000円の切符など出ており心が動きます。緊急事態宣言明けでJR西や近鉄も魅力的な切符を出していますが。

      • はい、思い出しましたよ。私もレポートしていました。改めて読み返すと、ピーチは1490円で乗っていました。そして、泊まったホテルも、高齢者の誕生日当日1円キャンペーンに合わせて、誕生日前後に行って、実際1円硬貨を払って、ホテルに泊まりました。減安旅行ができるのも高齢者の特権ですね。

  2. キハ32、キハ54、キハ185はJR四国の「手切金三兄弟」などと揶揄されることもあるようです。電化や電子閉塞、見慣れぬところに積み上げられたレール等も、この類だったように思います。国鉄長期債務残高は令和元年度末現在16兆円余あるそうです。まぁ、誰も気にしていないとは思いますが。
    市坪駅、坊ちゃんスタジアムが出来て立派になりました。私がDF50撮影している頃は、1日上下各4本の普通列車のみが停車する棒線駅でした。添付写真は市坪駅から松山方(北伊予方でなくてゴメンナサイ)をみた図です。後ろに見えるトラスは石手川橋梁で、複線化に伴い下流側に移設され、ただのコンクリート橋になっています。
    (1981年7月27日、603D)

    • 四方様
      DF50に続き、貴重なうわじまの写真を載せて頂きありがとうございます。非電化王国四国の時代は、DF50の他スハフ43など面白い車両が活躍していたようですが、今となっては想像の世界です。当方も昭和の終わりころに撮っていました。

      • ブギウギ様、
        高松駅のお写真を見せていただき、ありがとうございます。撮影日時はわからないですが、4番線が606Dから611Dへの折り返し、中線(これも本線です)を挟んだ右側5番線には125レ、左側の2番線には出発前の147Dか到着後の144Dと思しき列車が見れますね。列車番号は撮影された時点とは違うかもしれませんが、もしかしてブギウギ様は、私とほぼ同世代?
        話変わりますが、いすみのキハ28が「いよ」や「うわじま」のHMを掲出しているそうですが、違和感を感じ1982年11月の運用表を調べてみたら、この組み合わせはありませんでした。「阿波」、「むろと」あたりにしておけばよかったのに。

  3. 四方様
    当方は85年度生で、今でこそキハ47など国鉄時代のDCを撮りに行っておりますが、写真は、琴電を撮りに行った際、連絡船から出た流れで撮ったものです。今から思えば、もっと当時の急行DCも撮っておけばよかったと思います。それにしても左右の列車の番号も、とは恐れ入りました。いすみ鉄道は、何でもやるという感じですね。

ブギウギ へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください