昭和の電車 改訂版(218)ー伊那電鉄サロハユニフ100型ー 投稿日時: 2021年10月10日 投稿者: 米手作市 伊那電鉄サロハユニフ100型 だれか模型にしませんか?湯口さんから図面が公開されています。 伊那電気鉄道サハユニフ 関連記事: 昭和の電車 改訂版(193)ー国鉄117系ー 昭和の電車 改訂版(132)ー国鉄クモハ32002号ー 昭和の電車 改訂版(114)ー東武クハユ299号ー 昭和の電車 改訂版(92)ー国鉄クロ151型ー 昭和の電車 改訂版(56)ー阪急電鉄900型ー 昭和の電車 改訂版(19)ー阪急115号ー 昭和の電車 改訂版(10)ー阪堺電車モ101ー 昭和の電車 改訂版(7)ー京阪1900系ー
昭和45年11月22日、中部天竜支区、サエ9320です。 大正13年、日本車輌で2として新製、程なくサロハユニフ101に改番、昭和12年、2等廃止によりサハユ二フ101に改番、昭和18年8月1日、鉄道省買収後も引き続き飯田線で使用後、昭和28年6月、救援車に改造され、サエ9320となり、中部天竜支区に配置され、昭和54年8月2日付で廃車になりました。 返信 ↓
ネコ・パブリッシングの『写真とイラストで綴る国鉄17m級電車』を拝見しました。いろいろと写真を提供されていますね。 ところで、「サエ」は、電車のくせに自連を装備していますが、いざ出動となった場合、自力で走れませんから他の電車ではなく、機関車に牽いて(推して)もらうのでしょうね。国電になってもずっと自連だったのでしょうか。 また、扉の幅が種車のままのようで救援器財を出し入れするのに使い物になったのか疑問です。鋼製電車の救援車は、クレーンを装備している関係もありますが、扉幅が4m以上あったり、妻面にまで扉を設けてオデコに照明を3コ付けた車両もあります。木製車では幅の広い扉は無理なのですかね。 返信 ↓
井原 様 飯田線は、両側に山が迫った線形が多く、機材の搬出入を側面ではなく、妻面から行うように、扉を設けたと読んだ記憶があります。同じく最後まで残った木造国電のうち、クハ15から改造のクエ9110は、側面の中央扉は、若干ですが拡幅されています。 返信 ↓
宮崎様 ご教示ありがとうございます。 ということは、上掲サエ9320と下掲サエ9322の見えている妻面は非貫通で扉はありませんが、見えない側の妻面に扉があるのですか。 なお、上記「救援器財」は「救援器材」が正です。失礼いたしました。 返信 ↓
井原 様 > 見えない側の妻面に扉があるのですか。 その通りです。小生も9320は撮っているのだが、非貫通側しかありません。NETで検索すると、幾つか発見できます。 https://blog.goo.ne.jp/ef58-60/e/ef39bba14a46a98e473f0d4687eb0c2c https://twitter.com/yoshinari022838/status/1168541732708835329/photo/4 1枚目の写真で気付いたのだが、9320号の形式表記は、サエ93と誤記されていたようです。下十条区に居たクエ9110も、クエ91と誤記されており、昔ピク誌に小生が書いた記事で報告したことがありました。形式4桁の雑型に分類されたこれらの電車は、末期には全電車中の1%程度になっていました。 再塗装時の職工さんは、まさか形式番号4桁の電車があろうとは、思わなかったのでしょう。そう云うことを御存じなのは、こちらにいらっしゃる方々だけ!?
昭和45年11月23日、伊那松島機関区、サエ9322です。 大正15年、伊那電気鉄道松島工場でサハフ312として新製、昭和12年9月、郵便室と荷物室を設置してサハユ二フ110に改番、昭和28年6月、救援車に改造してサエ9330に改番、昭和34年12月、サエ9322に改番、昭和46年6月9日付で廃車になりました。 返信 ↓
藤本さんのコメントにある写真を見て、思い出しました。あれは1971年の7月頃、なぜか飯田線で合宿することになりました。途中の中部天竜で、この「寿限無ちゃん」が救援車として最後のご奉公をしていた時の写真を撮っていました。木造車でダブルルーフとなればほっとく訳にはいけません。今から思うと撮っておいてよかったと思います。 返信 ↓
井原さん、サエ9322の反対側(豊橋側)です。 サエ9320形は3両在籍して、9320は中部天竜、9321は豊橋、9322は伊那松島に配置されていました。出動時は機関車牽引で、連結器は自連でした。 関 三平先生のイラストについて、ツッコミを入れさせていただきますと、サロハユニフを牽引しているのは、伊那電気鉄道のデハ120ですので、辰野~天竜峡間を想定されていると思われます。50‰の急勾配は存在するものの山岳地帯ではなく、この区間にトンネルは、時又~駄科間の長野原トンネルと伊那上郷~元善光寺間の上郷トンネルの2カ所しか存在せず、旧三信鉄道の区間(天竜峡~三河川合)のようにも見えます。サロハユニフの他、付随車は乗り入れていましたが、電動車は電圧の相違により乗入は不可でした。 返信 ↓
えげつない観音開きですね。どですかでんさんの写真ではよくわかりませんでした。「ク」ではなく「サ」ですからいっそのこと両妻ともこれにしたら便利ではないかと思いましたが、そうもいかないのでしょうか。ありがとうございました。 返信 ↓
昭和45年11月22日、中部天竜支区、サエ9320です。
大正13年、日本車輌で2として新製、程なくサロハユニフ101に改番、昭和12年、2等廃止によりサハユ二フ101に改番、昭和18年8月1日、鉄道省買収後も引き続き飯田線で使用後、昭和28年6月、救援車に改造され、サエ9320となり、中部天竜支区に配置され、昭和54年8月2日付で廃車になりました。
ネコ・パブリッシングの『写真とイラストで綴る国鉄17m級電車』を拝見しました。いろいろと写真を提供されていますね。
ところで、「サエ」は、電車のくせに自連を装備していますが、いざ出動となった場合、自力で走れませんから他の電車ではなく、機関車に牽いて(推して)もらうのでしょうね。国電になってもずっと自連だったのでしょうか。
また、扉の幅が種車のままのようで救援器財を出し入れするのに使い物になったのか疑問です。鋼製電車の救援車は、クレーンを装備している関係もありますが、扉幅が4m以上あったり、妻面にまで扉を設けてオデコに照明を3コ付けた車両もあります。木製車では幅の広い扉は無理なのですかね。
井原 様 飯田線は、両側に山が迫った線形が多く、機材の搬出入を側面ではなく、妻面から行うように、扉を設けたと読んだ記憶があります。同じく最後まで残った木造国電のうち、クハ15から改造のクエ9110は、側面の中央扉は、若干ですが拡幅されています。
宮崎様
ご教示ありがとうございます。
ということは、上掲サエ9320と下掲サエ9322の見えている妻面は非貫通で扉はありませんが、見えない側の妻面に扉があるのですか。
なお、上記「救援器財」は「救援器材」が正です。失礼いたしました。
井原 様
> 見えない側の妻面に扉があるのですか。
その通りです。小生も9320は撮っているのだが、非貫通側しかありません。NETで検索すると、幾つか発見できます。
https://blog.goo.ne.jp/ef58-60/e/ef39bba14a46a98e473f0d4687eb0c2c
https://twitter.com/yoshinari022838/status/1168541732708835329/photo/4
1枚目の写真で気付いたのだが、9320号の形式表記は、サエ93と誤記されていたようです。下十条区に居たクエ9110も、クエ91と誤記されており、昔ピク誌に小生が書いた記事で報告したことがありました。形式4桁の雑型に分類されたこれらの電車は、末期には全電車中の1%程度になっていました。
再塗装時の職工さんは、まさか形式番号4桁の電車があろうとは、思わなかったのでしょう。そう云うことを御存じなのは、こちらにいらっしゃる方々だけ!?
関 三平先生が「客車から引退してからは救援車として存続し、最後の1両は平成まで生き永らえた」と記述されていますが、これは誤りで、サエ9320の昭和54年8月2日が最後です。
昭和45年11月23日、伊那松島機関区、サエ9322です。
大正15年、伊那電気鉄道松島工場でサハフ312として新製、昭和12年9月、郵便室と荷物室を設置してサハユ二フ110に改番、昭和28年6月、救援車に改造してサエ9330に改番、昭和34年12月、サエ9322に改番、昭和46年6月9日付で廃車になりました。
さすが藤本さん、
よくぞこんな車両の写真を持っていましたね!
あとは西村さんが作るであろう模型を待つばかりです。
藤本さんのコメントにある写真を見て、思い出しました。あれは1971年の7月頃、なぜか飯田線で合宿することになりました。途中の中部天竜で、この「寿限無ちゃん」が救援車として最後のご奉公をしていた時の写真を撮っていました。木造車でダブルルーフとなればほっとく訳にはいけません。今から思うと撮っておいてよかったと思います。
井原さん、サエ9322の反対側(豊橋側)です。
サエ9320形は3両在籍して、9320は中部天竜、9321は豊橋、9322は伊那松島に配置されていました。出動時は機関車牽引で、連結器は自連でした。
関 三平先生のイラストについて、ツッコミを入れさせていただきますと、サロハユニフを牽引しているのは、伊那電気鉄道のデハ120ですので、辰野~天竜峡間を想定されていると思われます。50‰の急勾配は存在するものの山岳地帯ではなく、この区間にトンネルは、時又~駄科間の長野原トンネルと伊那上郷~元善光寺間の上郷トンネルの2カ所しか存在せず、旧三信鉄道の区間(天竜峡~三河川合)のようにも見えます。サロハユニフの他、付随車は乗り入れていましたが、電動車は電圧の相違により乗入は不可でした。
えげつない観音開きですね。どですかでんさんの写真ではよくわかりませんでした。「ク」ではなく「サ」ですからいっそのこと両妻ともこれにしたら便利ではないかと思いましたが、そうもいかないのでしょうか。ありがとうございました。