昭和の電車 改訂版(7)ー京阪1900系ー 投稿日時: 2019年7月28日 投稿者: 米手作市 1900系の写真はだれか貼ってください。 関連記事: 昭和の電車 改訂版(139)ー南海電鉄モハ1251系ー 昭和の電車 改訂版(136)ー阪急51系ー 昭和の電車 改訂版(125)ー都電7000型8000型ー 昭和の電車 改訂版(123)ー大阪市営地下鉄60系ー 昭和の電車 改訂版(117)ー阪急フロ54号ー 昭和の電車 改訂版(78)ー近鉄モ6601系ー 昭和の電車 改訂版(17)ー神戸電鉄デニ11ー 昭和の電車 改訂版(14)ー阪急電鉄202号ー
米手さんから1900系の写真をということなので恥ずかしながら1枚を。間もなく名前が変わる八幡市駅と橋本駅間で、今はこんな風景が望めない場所で撮りました。DRFCに在籍していた頃の撮影です。1951に乗りたくて京阪で通学したことも。今出川までは京阪三条の方が少し近いし、鳩居堂の前を通ると香の匂いが、一保堂の前はお茶の香りが、そして秋になれば店頭に並べられた松茸の香りを嗅ぎながら通学したものです。 返信 ↓
どですかでんさま 懐かしい写真です。ぷるぷるさん達と何度か足を運んだポイントです。ひょっとするとご一緒していたかもしれませんね。撮影ポイントのすぐ後ろには小川が流れていて、写真の右方向に幅1m位の小さい橋が架かっていました。近所の子供たちがその橋から魚を釣っているのを入れて1900特急を撮った記憶があります。何の変哲もない写真でしたが枯木も山の賑わいで写真展に出させてもらいました。走行風景の写真は殆ど無く、あるのは模型のディティール用に車庫などで撮った近接アップ写真ばかりです。就職後8mmカメラを手にしてからは沿線の主だったポイントを歩きまわり、三条からの一往復をムービーに収めました。 1951に乗りたくて京阪で通学というのは奇特でしたね。しかも米手さま仰るところの日本一の香りを嗅ぎながらとは、なかなかに乙な通学経路です。1951といえば、金閣寺近くに住んでいた小生が、わざわざ通勤定期を買って用もないのに大阪まで往復して調べた乗り心地調査を想い出します。今思うと全くアホな試みをしたものですが、シンドラ・アルストム・ミンデン等の各台車の特性を知ることが出来たことはそれなりの成果だったと思っています。 返信 ↓
多分、どなたかと行ったことは間違いないのですが、誰と行ったかは記憶にありません。1951は四条と七条の市電との平面クロスが楽しみでした。軸バネに空気バネを使っているのでその効果は絶大でした。1900生さんが青信号20号に「京阪1900のすべて」として書かれているのを読みました。なかなかの名著だと思います。(20号は余っていたものをちょうだいと言ってもらいました。もらってよかったです。)時間に余裕があれば最寄り駅(京阪三条か四条烏丸、河原町)まで歩いていました。寺町通はいろいろな店があって面白く、後で知ったのですが京都最古のレコード店もあったと記憶しております。ところで、京都市電が廃止になったのは電車に乗らずに歩いていた学生が多かった?のが原因の一つかも 返信 ↓
市電廃止の理由の一つに学生が乘らなくなったのかもとの問いかけに対し、何か気の利いたオチをと考え抜きましたが、このクソ暑さでは頭が回転せず、ついに何も思い浮かびませんでした。こういうのをヘタな考え何とかというのでしょうね。事実昼寝をしていましたが。 かつての拙文を名著などと言われるとトンネルでもいいから穴があったら入りたいし、暑中にも拘わらず冷汗三斗の想いです。仰る通り四条・七条・伏見稲荷・片町の各市電交差は乗り心地チェックの最大ポイントでした。ただこの調査?によって「乗り心地」の概念が大きく変わったのも収穫の一つでした。それまでは=振動という観点から、いかにそれを吸収できるか、吸収度合が高く振動を感じないのが良い台車だと考えていました。しかし急カーブの多い路線ではカーブの前後の車体の揺れや傾きなども乗り心地に大きく作用することに気づかされ、それらをトータルに評価すべきとの考えに至りました。そういう意味で1906号車や1957号車など数両あったアルストム式を最優秀台車と判定した記憶があります。因みに新造1900系に最も多かったシンドラ式KS70を採用した阪急2800の第4編成にも何度か乘りました。予想通り線路や速度の違いもあって、それぞれ固有の良さがあったように思います。 ところで最古のレコード店はどの辺りにありましたか?就職してから土曜日半ドンの帰路によく老舗レコード店に立ち寄っていましたので。 返信 ↓
交通科学博物館が閉館後にどないなっているかと立ち寄ったらKS50台車が置かれていました。京都鉄道博物館に持って行く為に置かれていたようです。軸バネが空気バネになっているのがよくわかります。(写真参照)阪急で通学している時は十三で待っている時2800の4の編成が梅田へ行った時は待って次の特急に乗ったこともありました。レコード店のことはどこかわかりません。ただし、それらしきレコード店に入ったような記憶があります。 返信 ↓
どですかでん さま 貴重な写真を有難うございました。同台車は寝屋川車庫にも置かれていますが、交通科学館から京都鉄博へ行ったとは知りませんでした。産業遺産としてJR系で保存されているのであれば喜ばしいことですね。空気バネ台車の技術開発初期の発想はこういうものだったのですね。空気消費量が多くて困惑し、枕バネを空気ベローズ化する改良策が考案された経緯はなにか微笑ましさを感じます。金属バネの時代からウイングバネを色々工夫してきたのが、今や片持ち式軸箱支持とエアサスだけで優秀な乗り心地を確保できるとは、技術の進歩に隔世の感ありです。
どですかでんさんの写真にある橋本寄りのあの場所にぷるぷるさんはじめ いろんな人と出かけたことを思い出します。模型作りが専門のメンバーも一緒に行って、田んぼの畦に座って、通り過ぎる電車を飽きることなく眺めたものでした。八幡町と言えば、宇治川と木津川にはさまれたカーブした築堤にも淀から歩いたり、八幡町から歩いたりしてよく行ったものでした。1900系の写真を添付しておきます。1951はいないようですが、両運の1925,1926が組み込まれているようです。撮影年月日が不明です。画面右側の短い鉄橋あたりに、今は京滋バイパスの高架道路が横切っていて、車体を傾けながらカーブを行く編成は見れなくなってしまったようです。1900生様のコメントをお待ちします。 返信 ↓
西村雅幸さま 想い出深い写真を有難うございます。たまたま両運車が入ったようにも思われますが、右側3両ユニットの両端が1925・1926になっているので、昭和46年の3000系導入後の両端車番を揃えてからの編成かもしれません。 八幡町周辺には間違いなく何度かご一緒していたはずですよ。もう半世紀も前のことで、若い頃の素晴らしい仲間との楽しい想い出の一コマですね。八幡町の前後は、沿線の多くが住宅で埋められていくなかにあって、のどかな風景と相まって解放感のある大きな空間を感じ取れるのが魅力でした。 しかし仰るようにもうここは思うように撮ることができなくなりました。中之島線開通を機に塗色変更が決まり、見慣れた京阪色が消えていくので今のうちにと何度か通ったものでしたが、写真のようなのどかなものとはかけ離れた画像しか撮れませんでした。特急色は旧3000系の一編成のみ、普通色は1000・2400・2600・5000系を合わせて7~8編成だけになっていました。大袈裟なようですが、慣れ親しんだ京阪色が無くなって、小生の中の京阪も消えていったような気がします。テレビカーが消え、プレミアムカーなるものが出来、世の流れを感じます。 返信 ↓
畏れながらお伺い致します。 私鉄の、それも京阪には全く興味がなかった門外漢の私が、1900型に手足を付けたような1900生様に恥を忍んでお尋ねしますが、記憶違いがなければ1900型の編成の中で、1900型を名乗りながらボロボロの旧型車輌を使った1編成を走らせていなかったでしょうか?車内が伏見◯○ージ○◯みたいにピンク一色だったようなおぼえがあるのですが。違っていたらお許しください!阪急だったかもしれません。 返信 ↓
米手作市さま 1900に手足が付いたという比喩が中々イメージできませんので、よくわかるようにイラストでも投稿してください。お願いします。 さて、よく観察されておられますね。恥ずかしくもなんともありませんよ。よくぞ聞いて下さいました。よく言うじゃないですか、聞くは一時の・・聞かぬは一生の、と。 ただ残念ながら一編成だけではなかったのです。45両のうち17両が1810系からの格上げピンク車でしたから、新造車の割合は6割強だったことになります。ピンク車についてはBOXでの京阪vs阪急論争で、準特急さんから「退勤時はアルサロの雰囲気でまだいいけど朝からピンクはちょっと」と随分攻撃されましたね。当時は通勤用だけでなく観光用にもと意識した結果がピンクだったのでしょうかねえ。もっともたとえピンク車でも全車両がロマンスシートの特急車でしたし、阪急のように全部クロス車と言いながら、突然3扉ロングシート車が混ざるなどということは無かったですよ。因みに車内の雰囲気が良かったのはやはり阪急の木目だったと思っています。 返信 ↓
よかった! 意識混濁、と言われなくてすみました。 でも、17両もあったのですか!聞いて良かったです。写真が見たいですよね? ところで『全部クロスシートといいながら3扉ロングシートを混ぜる』阪急電車とはどんな電車ですか? 返信 ↓
意識混濁なんて何を仰る〇さんで、まだまだ先のことでしょう。ご安心を。 当時の阪急京都線特急の広告看板に「大阪~京都39分、全車両クロスシート」(39分は確かに早く、車両は2800系を指す)と謳われていましたが、実際には毎日2300系ロングシート車が一編成充当されていたのです。準特急さんの苦し紛れの解説は「あれは7両(確か当時は)全部がクロスやと言うとんにゃ」というものでした。正雀に居られた故T橋 M雄さんにこの疑問をぶつけてみましたが、「検査入庫もあるしなあ,モグモグ・・」との返事でした。 これ以上の詳細は私の口からは言えませんので、詳しくは準特急さまかマルーンさまにお尋ね下さいませ。 返信 ↓
ほぼ半世紀前 昭和43年9月の三条駅のひとコマです。4番線を奈良行き準急が出発してゆきます。まだ「冷房車」というものが無い時代です。三条から七条まで特急に乗り、七条から伏見稲荷まで急行に乗り換え、稲荷から墨染まで各停に乗って楽しんで通学していた時代でした。 返信 ↓
これが噂のピンク車でしょうか。昭和47年 千林駅での撮影です。私は丸いおでこに2つ目玉の1900より、砲弾型ヘッドライトのピンク車の方が好きでしたが、この1907のヘッドライトは「けったいな」ものに付け替えられていますね。 返信 ↓
西村雅幸さま 特急1900、急行2200、近鉄820の懐かしい写真を有難うございます。特急の車内を抜けて急行に乗り降りしたり、当時でも大手のターミナルとしては特異な駅でした。最奥4番線からの奈良行はママコ扱いのようでした。小生も一緒に撮っていたはずで、この構図に見覚えがあるのですが、どこかに行方不明です。ピンク旧車の写真も同様行方知れずです。この2ツ目ヘッドライトはいつからか忘れましたが、3000系登場後の編成車番ユニット化に合わせて改造されたように思います。同時に車内の化粧板が新造1900に合わせて麻模様に張り替えられたと記憶します。もちろん1800から引き継いだ当初の弾丸ヘッドの方がスタイリッシュであることは論を待ちませんね。スタイル的には1800、1810の方が都市間高速電車らしくて好ましい(個人の感想ですが)と思っています。 返信 ↓
1900生さん、西村さん、 『クロスシート車のあいだにロングシート車』とは、2800と2300が特急に混在していたと言うことですか!なるほど、なるほど。準特急さんの言いそうなことです。 ところでピンク特急は屋根まで黄色でしたね? 返信 ↓
米手作市さま 屋根は通常の黒っぽいグレー(滑り止めの金剛砂を撒いてあった)だったと思います。ピンク旧車は前・側面と屋根部との雨樋が境界で、新造車は特に前面はヘッドライト上の「おでこ」部分まで黄色でしたから、印象を混濁されたのではないでしょうか。余談ですが、一般に屋根上はパンタ摺板からの飛散物で黒っぽくなるので、汚れが目立つ明るい色に塗られることは通常あまりないと思います。 また準特急さまの発言にガッテンして戴き感謝します。 返信 ↓
1900生様 他にも1900の写真がないかと探していましたら、こんなカットがありました。八幡町の川土手での1900生様とぷるぷるさんです。昭和49年としかわかりませんが、この日は「馬急」狙いの日でした。ぷるぷるさんがご存命なら、デジ青も更に賑やかになったことでしょう。もうすぐ8年がやってきます。 返信 ↓
いい写真やねぇ! ぷるぷるさんが亡くなってもう八年か。 退院したときに奥さんと我が家に来てくれて、退院したら差し上げるからと約束していた1号から揃っている『とれいん』を半分持って帰った。近いうちに残りを撮りに来ると行っていたが、その残りはまだ我が家の本棚で迎えを待っている。 返信 ↓
昭和49年でしたか。この時のことはもう記憶から消えていましたが、動かぬ証拠写真を突きつけられては、喜んで認めることにしましょう。なにやら長い三脚で撮っていますね。この当時はもちろん8mmムービーだったはずでした。ただカメラがいつものとはちょっと違うので、おそらく暗闇のローソクでも写るという高感度カメラとフィルムでの撮影だったと思います。多分SLを夕暮れや夜間に撮ったフィルムの残りを昼間の京阪に有効利用したものと思います。事実そういう映像が残っています。 臨特は何本か走りましたが、昭和49年にはその大半が1900で運転されていたはずです。それは全特急の3000系更新に伴い1900が沢山余っていたからです。もっともその後3扉化・グリーン塗色に改造され格下げされてしまいましたが。 ぷるぷるさんのことは想い出すにつけ寂しいですね。その分皆で楽しんでやと言われているように思われてなりません。 返信 ↓
1900生様 脱藩50年いまさらと思いますが何かと私のことを覚えておられ何かいわんとアカンと思い2300の特急使用の写真でも用意しました。1968年10月25日西向日町通過京都行き特急です。阪急電鉄がPRボードに39分が残り惜しい乗心地とか何とか出したのを記録していますが御乗客の皆さんがっかりされたことと思います。ロングシートの特急はかなりの頻度で出くわしました。3300系の特急の記録もあります。1810格上げのピンクの1900系は車内が少し暗い様な印象でした。営団(現東京メトロ)丸の内線の車両も車内がピンクであったように思います。阪急の木目印刷は私鉄界ではトップの美しさであったように思います。お元気な1900生さんに比べまして老朽化著しい私、この辺で長期休暇に入ります。 返信 ↓
準特急さま 長期休暇はまだしもDRFCからの脱藩はそうおいそれとはできませぬぞ。休養してまたお戻り下さい。 さてコメント有難うございました。数回の撒き餌でついに喰いついて頂き、餌代も惜しくなくなりました。ところで営団車と1810はほぼ同じ時期に登場したのではなかったでしょうか。あの頃に流行った色だったのでしょうか。確かに夜間にはいささか鬱陶しい感じでしたね。3300系の特急もあったのですか。そういえば事故時だったと思いますがP6の代走があったと伺ったような。これは非難するより賞賛に値するもので、是非乗ってみたかったですね。当時はロングシートが混じるとはいえ、1900や2800など2扉の専用的車両も在りました。京阪でも昨今は3扉セミクロスはおろか通勤車が堂々と特急を名乗ってまかり通っています。特急という名の格が落ちたように思えます。 返信 ↓
1900生様 脱藩とは坂本龍馬ではありませんが、幼少期を過ごした故郷を離れて久しいというような意味です。DRFCの皆さんとは今でもお付き合いが続いており素晴らしいクラブだと思っております。デジ青は毎日見ています。事故時のP-6特急代行はよく知りませんが1969年3月4日の雪の日の710形の特急代行は撮影しております。3300系の写真です。撮影は1969年2月16日西京極駅通過の梅田行き特急です。今年の夏も暑い日が続いておりますがこれから先も少し活動が鈍ると思いますが、今後とも宜しくお願いします。 返信 ↓
米手さんから1900系の写真をということなので恥ずかしながら1枚を。間もなく名前が変わる八幡市駅と橋本駅間で、今はこんな風景が望めない場所で撮りました。DRFCに在籍していた頃の撮影です。1951に乗りたくて京阪で通学したことも。今出川までは京阪三条の方が少し近いし、鳩居堂の前を通ると香の匂いが、一保堂の前はお茶の香りが、そして秋になれば店頭に並べられた松茸の香りを嗅ぎながら通学したものです。
なるほど!
すべて日本一の香りですね。
どですかでんさま
懐かしい写真です。ぷるぷるさん達と何度か足を運んだポイントです。ひょっとするとご一緒していたかもしれませんね。撮影ポイントのすぐ後ろには小川が流れていて、写真の右方向に幅1m位の小さい橋が架かっていました。近所の子供たちがその橋から魚を釣っているのを入れて1900特急を撮った記憶があります。何の変哲もない写真でしたが枯木も山の賑わいで写真展に出させてもらいました。走行風景の写真は殆ど無く、あるのは模型のディティール用に車庫などで撮った近接アップ写真ばかりです。就職後8mmカメラを手にしてからは沿線の主だったポイントを歩きまわり、三条からの一往復をムービーに収めました。
1951に乗りたくて京阪で通学というのは奇特でしたね。しかも米手さま仰るところの日本一の香りを嗅ぎながらとは、なかなかに乙な通学経路です。1951といえば、金閣寺近くに住んでいた小生が、わざわざ通勤定期を買って用もないのに大阪まで往復して調べた乗り心地調査を想い出します。今思うと全くアホな試みをしたものですが、シンドラ・アルストム・ミンデン等の各台車の特性を知ることが出来たことはそれなりの成果だったと思っています。
多分、どなたかと行ったことは間違いないのですが、誰と行ったかは記憶にありません。1951は四条と七条の市電との平面クロスが楽しみでした。軸バネに空気バネを使っているのでその効果は絶大でした。1900生さんが青信号20号に「京阪1900のすべて」として書かれているのを読みました。なかなかの名著だと思います。(20号は余っていたものをちょうだいと言ってもらいました。もらってよかったです。)時間に余裕があれば最寄り駅(京阪三条か四条烏丸、河原町)まで歩いていました。寺町通はいろいろな店があって面白く、後で知ったのですが京都最古のレコード店もあったと記憶しております。ところで、京都市電が廃止になったのは電車に乗らずに歩いていた学生が多かった?のが原因の一つかも
市電廃止の理由の一つに学生が乘らなくなったのかもとの問いかけに対し、何か気の利いたオチをと考え抜きましたが、このクソ暑さでは頭が回転せず、ついに何も思い浮かびませんでした。こういうのをヘタな考え何とかというのでしょうね。事実昼寝をしていましたが。
かつての拙文を名著などと言われるとトンネルでもいいから穴があったら入りたいし、暑中にも拘わらず冷汗三斗の想いです。仰る通り四条・七条・伏見稲荷・片町の各市電交差は乗り心地チェックの最大ポイントでした。ただこの調査?によって「乗り心地」の概念が大きく変わったのも収穫の一つでした。それまでは=振動という観点から、いかにそれを吸収できるか、吸収度合が高く振動を感じないのが良い台車だと考えていました。しかし急カーブの多い路線ではカーブの前後の車体の揺れや傾きなども乗り心地に大きく作用することに気づかされ、それらをトータルに評価すべきとの考えに至りました。そういう意味で1906号車や1957号車など数両あったアルストム式を最優秀台車と判定した記憶があります。因みに新造1900系に最も多かったシンドラ式KS70を採用した阪急2800の第4編成にも何度か乘りました。予想通り線路や速度の違いもあって、それぞれ固有の良さがあったように思います。
ところで最古のレコード店はどの辺りにありましたか?就職してから土曜日半ドンの帰路によく老舗レコード店に立ち寄っていましたので。
交通科学博物館が閉館後にどないなっているかと立ち寄ったらKS50台車が置かれていました。京都鉄道博物館に持って行く為に置かれていたようです。軸バネが空気バネになっているのがよくわかります。(写真参照)阪急で通学している時は十三で待っている時2800の4の編成が梅田へ行った時は待って次の特急に乗ったこともありました。レコード店のことはどこかわかりません。ただし、それらしきレコード店に入ったような記憶があります。
どですかでん さま
貴重な写真を有難うございました。同台車は寝屋川車庫にも置かれていますが、交通科学館から京都鉄博へ行ったとは知りませんでした。産業遺産としてJR系で保存されているのであれば喜ばしいことですね。空気バネ台車の技術開発初期の発想はこういうものだったのですね。空気消費量が多くて困惑し、枕バネを空気ベローズ化する改良策が考案された経緯はなにか微笑ましさを感じます。金属バネの時代からウイングバネを色々工夫してきたのが、今や片持ち式軸箱支持とエアサスだけで優秀な乗り心地を確保できるとは、技術の進歩に隔世の感ありです。
どですかでんさんの写真にある橋本寄りのあの場所にぷるぷるさんはじめ いろんな人と出かけたことを思い出します。模型作りが専門のメンバーも一緒に行って、田んぼの畦に座って、通り過ぎる電車を飽きることなく眺めたものでした。八幡町と言えば、宇治川と木津川にはさまれたカーブした築堤にも淀から歩いたり、八幡町から歩いたりしてよく行ったものでした。1900系の写真を添付しておきます。1951はいないようですが、両運の1925,1926が組み込まれているようです。撮影年月日が不明です。画面右側の短い鉄橋あたりに、今は京滋バイパスの高架道路が横切っていて、車体を傾けながらカーブを行く編成は見れなくなってしまったようです。1900生様のコメントをお待ちします。
西村雅幸さま
想い出深い写真を有難うございます。たまたま両運車が入ったようにも思われますが、右側3両ユニットの両端が1925・1926になっているので、昭和46年の3000系導入後の両端車番を揃えてからの編成かもしれません。
八幡町周辺には間違いなく何度かご一緒していたはずですよ。もう半世紀も前のことで、若い頃の素晴らしい仲間との楽しい想い出の一コマですね。八幡町の前後は、沿線の多くが住宅で埋められていくなかにあって、のどかな風景と相まって解放感のある大きな空間を感じ取れるのが魅力でした。
しかし仰るようにもうここは思うように撮ることができなくなりました。中之島線開通を機に塗色変更が決まり、見慣れた京阪色が消えていくので今のうちにと何度か通ったものでしたが、写真のようなのどかなものとはかけ離れた画像しか撮れませんでした。特急色は旧3000系の一編成のみ、普通色は1000・2400・2600・5000系を合わせて7~8編成だけになっていました。大袈裟なようですが、慣れ親しんだ京阪色が無くなって、小生の中の京阪も消えていったような気がします。テレビカーが消え、プレミアムカーなるものが出来、世の流れを感じます。
畏れながらお伺い致します。
私鉄の、それも京阪には全く興味がなかった門外漢の私が、1900型に手足を付けたような1900生様に恥を忍んでお尋ねしますが、記憶違いがなければ1900型の編成の中で、1900型を名乗りながらボロボロの旧型車輌を使った1編成を走らせていなかったでしょうか?車内が伏見◯○ージ○◯みたいにピンク一色だったようなおぼえがあるのですが。違っていたらお許しください!阪急だったかもしれません。
米手作市さま
1900に手足が付いたという比喩が中々イメージできませんので、よくわかるようにイラストでも投稿してください。お願いします。
さて、よく観察されておられますね。恥ずかしくもなんともありませんよ。よくぞ聞いて下さいました。よく言うじゃないですか、聞くは一時の・・聞かぬは一生の、と。
ただ残念ながら一編成だけではなかったのです。45両のうち17両が1810系からの格上げピンク車でしたから、新造車の割合は6割強だったことになります。ピンク車についてはBOXでの京阪vs阪急論争で、準特急さんから「退勤時はアルサロの雰囲気でまだいいけど朝からピンクはちょっと」と随分攻撃されましたね。当時は通勤用だけでなく観光用にもと意識した結果がピンクだったのでしょうかねえ。もっともたとえピンク車でも全車両がロマンスシートの特急車でしたし、阪急のように全部クロス車と言いながら、突然3扉ロングシート車が混ざるなどということは無かったですよ。因みに車内の雰囲気が良かったのはやはり阪急の木目だったと思っています。
よかった!
意識混濁、と言われなくてすみました。
でも、17両もあったのですか!聞いて良かったです。写真が見たいですよね?
ところで『全部クロスシートといいながら3扉ロングシートを混ぜる』阪急電車とはどんな電車ですか?
意識混濁なんて何を仰る〇さんで、まだまだ先のことでしょう。ご安心を。
当時の阪急京都線特急の広告看板に「大阪~京都39分、全車両クロスシート」(39分は確かに早く、車両は2800系を指す)と謳われていましたが、実際には毎日2300系ロングシート車が一編成充当されていたのです。準特急さんの苦し紛れの解説は「あれは7両(確か当時は)全部がクロスやと言うとんにゃ」というものでした。正雀に居られた故T橋
M雄さんにこの疑問をぶつけてみましたが、「検査入庫もあるしなあ,モグモグ・・」との返事でした。
これ以上の詳細は私の口からは言えませんので、詳しくは準特急さまかマルーンさまにお尋ね下さいませ。
ほぼ半世紀前 昭和43年9月の三条駅のひとコマです。4番線を奈良行き準急が出発してゆきます。まだ「冷房車」というものが無い時代です。三条から七条まで特急に乗り、七条から伏見稲荷まで急行に乗り換え、稲荷から墨染まで各停に乗って楽しんで通学していた時代でした。
これが噂のピンク車でしょうか。昭和47年 千林駅での撮影です。私は丸いおでこに2つ目玉の1900より、砲弾型ヘッドライトのピンク車の方が好きでしたが、この1907のヘッドライトは「けったいな」ものに付け替えられていますね。
西村雅幸さま
特急1900、急行2200、近鉄820の懐かしい写真を有難うございます。特急の車内を抜けて急行に乗り降りしたり、当時でも大手のターミナルとしては特異な駅でした。最奥4番線からの奈良行はママコ扱いのようでした。小生も一緒に撮っていたはずで、この構図に見覚えがあるのですが、どこかに行方不明です。ピンク旧車の写真も同様行方知れずです。この2ツ目ヘッドライトはいつからか忘れましたが、3000系登場後の編成車番ユニット化に合わせて改造されたように思います。同時に車内の化粧板が新造1900に合わせて麻模様に張り替えられたと記憶します。もちろん1800から引き継いだ当初の弾丸ヘッドの方がスタイリッシュであることは論を待ちませんね。スタイル的には1800、1810の方が都市間高速電車らしくて好ましい(個人の感想ですが)と思っています。
1900生さん、西村さん、
『クロスシート車のあいだにロングシート車』とは、2800と2300が特急に混在していたと言うことですか!なるほど、なるほど。準特急さんの言いそうなことです。
ところでピンク特急は屋根まで黄色でしたね?
米手作市さま
屋根は通常の黒っぽいグレー(滑り止めの金剛砂を撒いてあった)だったと思います。ピンク旧車は前・側面と屋根部との雨樋が境界で、新造車は特に前面はヘッドライト上の「おでこ」部分まで黄色でしたから、印象を混濁されたのではないでしょうか。余談ですが、一般に屋根上はパンタ摺板からの飛散物で黒っぽくなるので、汚れが目立つ明るい色に塗られることは通常あまりないと思います。
また準特急さまの発言にガッテンして戴き感謝します。
1900生様
他にも1900の写真がないかと探していましたら、こんなカットがありました。八幡町の川土手での1900生様とぷるぷるさんです。昭和49年としかわかりませんが、この日は「馬急」狙いの日でした。ぷるぷるさんがご存命なら、デジ青も更に賑やかになったことでしょう。もうすぐ8年がやってきます。
いい写真やねぇ!
ぷるぷるさんが亡くなってもう八年か。
退院したときに奥さんと我が家に来てくれて、退院したら差し上げるからと約束していた1号から揃っている『とれいん』を半分持って帰った。近いうちに残りを撮りに来ると行っていたが、その残りはまだ我が家の本棚で迎えを待っている。
1900生様
上と同じ日のカットです。1900の臨特を撮っていました。解説をお願いします。
昭和49年でしたか。この時のことはもう記憶から消えていましたが、動かぬ証拠写真を突きつけられては、喜んで認めることにしましょう。なにやら長い三脚で撮っていますね。この当時はもちろん8mmムービーだったはずでした。ただカメラがいつものとはちょっと違うので、おそらく暗闇のローソクでも写るという高感度カメラとフィルムでの撮影だったと思います。多分SLを夕暮れや夜間に撮ったフィルムの残りを昼間の京阪に有効利用したものと思います。事実そういう映像が残っています。
臨特は何本か走りましたが、昭和49年にはその大半が1900で運転されていたはずです。それは全特急の3000系更新に伴い1900が沢山余っていたからです。もっともその後3扉化・グリーン塗色に改造され格下げされてしまいましたが。
ぷるぷるさんのことは想い出すにつけ寂しいですね。その分皆で楽しんでやと言われているように思われてなりません。
1900生様
脱藩50年いまさらと思いますが何かと私のことを覚えておられ何かいわんとアカンと思い2300の特急使用の写真でも用意しました。1968年10月25日西向日町通過京都行き特急です。阪急電鉄がPRボードに39分が残り惜しい乗心地とか何とか出したのを記録していますが御乗客の皆さんがっかりされたことと思います。ロングシートの特急はかなりの頻度で出くわしました。3300系の特急の記録もあります。1810格上げのピンクの1900系は車内が少し暗い様な印象でした。営団(現東京メトロ)丸の内線の車両も車内がピンクであったように思います。阪急の木目印刷は私鉄界ではトップの美しさであったように思います。お元気な1900生さんに比べまして老朽化著しい私、この辺で長期休暇に入ります。
準特急さま
長期休暇はまだしもDRFCからの脱藩はそうおいそれとはできませぬぞ。休養してまたお戻り下さい。
さてコメント有難うございました。数回の撒き餌でついに喰いついて頂き、餌代も惜しくなくなりました。ところで営団車と1810はほぼ同じ時期に登場したのではなかったでしょうか。あの頃に流行った色だったのでしょうか。確かに夜間にはいささか鬱陶しい感じでしたね。3300系の特急もあったのですか。そういえば事故時だったと思いますがP6の代走があったと伺ったような。これは非難するより賞賛に値するもので、是非乗ってみたかったですね。当時はロングシートが混じるとはいえ、1900や2800など2扉の専用的車両も在りました。京阪でも昨今は3扉セミクロスはおろか通勤車が堂々と特急を名乗ってまかり通っています。特急という名の格が落ちたように思えます。
1900生様
脱藩とは坂本龍馬ではありませんが、幼少期を過ごした故郷を離れて久しいというような意味です。DRFCの皆さんとは今でもお付き合いが続いており素晴らしいクラブだと思っております。デジ青は毎日見ています。事故時のP-6特急代行はよく知りませんが1969年3月4日の雪の日の710形の特急代行は撮影しております。3300系の写真です。撮影は1969年2月16日西京極駅通過の梅田行き特急です。今年の夏も暑い日が続いておりますがこれから先も少し活動が鈍ると思いますが、今後とも宜しくお願いします。