急行「大和」

米手作市さんの素晴らしい企画「私の好きな食堂車」は高齢者を中心に凄い盛り上がりとなりました。私も久しぶりに古いネガを探しましたが、そのような中でおやっと思う客車がありました。急行「大和」湊町行き2等客車です。「大和」と言えばTsurukameさん、大阪通信員さん等当会の諸先輩が「加太会」なる圧力団体を結成され指定旅館村田屋を拠点に、早朝のC57牽引の「大和」を記録されております。特に大阪通信員さんはDRFC例会で深夜の名古屋からの動画を発表され今でもその熱意と気力には敬意を表しております。さて、その「大和」ですが1949年(昭和24)年の東京ー名古屋間の準急あたりがルーツで翌1950(昭和25)年急行列車化されています。ネガで目に留まったのは1966(昭和41)年11月2日品川客車区で撮った「大和」のオハフ331527です。写真をよく見ると⑭号車で湊町行きの行先板と入口に座席指定の表示があることがわかります。私は定期急行列車なのにこんな車両に指定されたら全く損をした気分になります。因みに1966(昭和41)年の7月の時刻表を見ますと「大和」は金沢行き「能登」との併結で東京を22時35分に出発となっています。①~⑧号車が米原経由金沢行き901列車「能登」で、⑩~⑭号車が湊町行き2901列車「大和」です。⑨号車は和歌山市行きです。⑨号車和歌山市行きについてはよく話題になりましたが当時北海道、四国を除き東京から直通列車がなかった府県は和歌山だけであったのでその配慮と思われます。王寺からは529普通列車に連結されて和歌山市に到着するのは何と11時34分です。和歌山まで乗りっぱなしの客がいたのだろうかと思ってしまいます。当時でも新幹線を使った方がよっぽど早く和歌山に着けたはずです。その後「大和」の名前は1968(昭和43)年10月の改正で「紀伊」に統合され、紀伊勝浦、鳥羽、王寺行きとなりました。伝統の湊町行きは勿論、和歌山市行きもなくなり、さらに奈良―王寺間は普通221列車となってしまいました。王寺と言えばどですかでんさんの縄張りですので、このあたりの事情はお詳しいと思います。また、湊町と言えば現在のJR難波ですが、先日皆さんが船旅を含む大旅行をされた都会のターミナルの南海汐見橋もこの近くだと思います。記念写真を拝見しましたが汐見橋がようわからんと騒いでおられた方も無事写っておられます。さて、さらにその後急行「紀伊」も1975(昭和50)年3月に特急に格上げされ米子行き「いなば」や出雲市行き「出雲」と併結されました。雑誌等で海辺行くDF50の姿も見ましたが、1984(昭和59)年に廃止されたようです。私の撮った「大和」関連の写真をご覧下さい。

1966(昭和41)年11月2日に品川客車区で撮ったオハフ331527です。所属は天リウと思いますが、この写真でははっきりしません。▼

 

1964(昭和39)年8月15日天王寺駅に到着の203列車湊町行き「大和」で牽引機はC5756[奈良」です。⑭号車はスハフ42のようですが如何でしょうか。この時は⑭号車は自由席でした。尚、この機関車は加茂の小学校脇に保存されており、デジ青「保存蒸機とその現役時代」に投稿しております。▼

 

1968年10月改正前のDF5025[亀山]牽引の2901列車湊町行き「大和」です。オロネ10や軽量客車も入った急行らしい編成です。最後部の2等寝台は和歌山市行きです。この時はDRFCのどなたかも一緒だったと思います。1968(昭和43)年9月29日加太-中在家(信)定番地点▼

 

1969(昭和44)年7月7日参宮線鳥羽駅の松下寄りです。右側にわずかに海が見えていますがこの日は雨で散々でした。「大和」の名前は消え、「紀伊」となりましたが、客車の一部はまだ王寺行きが残っていました。亀山で王寺行き、多気で紀伊勝浦行きと分れて指2と寝2の2両だけとなったC57110[亀山]牽引2201列車です。鳥羽到着は6時3分でした。▼

急行「大和」」への16件のフィードバック

  1. 1番違いのオハフ33 1528を1977年に写していました。
    戦後製オハ35系客車の、雨樋の薄いタイプで、連結面妻部は雨樋が無いので、この手の客車が雨の日に走行すると、すっごく雨粒を撒き散らしながら走ることを目撃しています。
    特に列車の後端部になった時です。
    またオハ35系の更新客車は、同年でも「日南」などに連結されて10系や43系と混じって普通座席車で使われていました。
    座席指定車で、35系は遜色かもしれませんが、台車の違いの判らぬ一般客には、大差なかったのかもしれません。

    • K.H.生様
      隣番号の写真とコメント有難うございます。昔、スハネ16の寝台でその縦揺れの感触が良かったのでどうしてもオハ35系のTR23よりもスハ43系のTR47が好きになりました。スハ43と思って乗車した車両がTR23に履き替えたオハ47だった時は直ぐにスハ43に変えました。横浜から京都まで乗った「明星」のスハネ30も粗悪寝台車で夜通しうんざりしたものです。新幹線が東海道以外になかった頃は盆暮れの多客時の臨時急行はオハ35系以外にオハ61系が入ったものもありました。台車では不満を感じない一般乗客もオハ61系の板張りのシートには急行券払っているのに何かおかしいなと感じた人もいたと思います。まあ、今の様にクレーマーもそれほどいない時代で車内で適当に一杯やって我慢したのでしょう。

      • 1977(昭和52)年の急行「日南」の4号車
        オハフ33 519です。
        翌年に12系座席+20系寝台化で、ぐっとグレードアップしますが、西鹿児島ー宮崎間は普通列車とはいえ、こんなおんぼろ客車が昭和50年代でも急行に組み込まれていたのは、九州の実情です。

  2. 高校2年の時に急行大和に乗りました。天王寺から東京です。高校の時、夏休みにクラブの調査合宿旅行を行っていました。このときは安中、中山道を調査地域に選びました。宿や列車などの手配を担当していたのですが、東京から上野からの高崎線の列車に接続する列車を選ぶのに難儀をしていました。その時に見つけたのが関西本線経由の湊町発東京行きの夜行急行大和です。確か東京に6時20分頃に着いて上野からの高崎線の列車に乗るといい時間に目的地に着いたのでした。顧問の先生にはかわった列車を選んだなと言われました。これは考えたあげくの選択でした。京都が自宅の部員もいたので、実際の所は湊町から乗りたかったのですが、さすがに、これはやめてわかりやすい天王寺からの乗車としました。人数が多いのと始発駅からの乗車でないので座席指定としました。牽引はDF50でした。とにかく天王寺から名古屋まではとんでもなく時間がかかったように感じました。写真はその時の座席指定券です。私の乗車は14号車でした。ちなみに昭和43年8月5日の乗車でした。遠い昔の話でした。

    • どですかでん様
      2902列車上り急行「大和」を当時の時刻表で見てみますと湊町を19時23分に寝台3両、2等座席指定2両計5両で出発し、ご乗車の天王寺は19時30分発で王寺19時56分着です。ここで10分停車して和歌山市発寝台1両を連結し名古屋には23時01分に到着しています。ここでは12分停車して急行「能登」8両と併結し、堂々の14両編成で翌朝6時に東京に到着しております。京都の方は多少お気の毒な感じもしますが、どですかでんさんの選択は正解です。同じような時間帯の上り急行「瀬戸」は大阪発が19時54分で東京着は6時30分です。どういうクラブか歴史研究か何かと思いますが、安中、中山道とはいい所に行かれましたね。それにしても座席指定券よく保存されていました。何となく懐かしい匂いがします。

  3. 準特急さん
    探しましたが近似値はこれしか有りません。オハフ331535で、向日町で撮りました。

    • 米手作市様
      年賀状の当選番号ではありませんがよくお探し下さりありがとうございます。オハ35やオハフ33は車両数が最も多かったのではないでしょうか。

  4. DF50牽引の「大和」のお写真を見せていただき、ありがとうございます。亀山では恐らく唯一のジャンパ栓受け設置機の25号とは貴重です。DF50の関西本線進出は、亀山の関西支社への移管が大きく関与しているものと邪推していますが、「大和」以外の荷物列車や貨物列車の牽引はなかったのかは、気になっているところです。個人的には、1971年の和歌山国体のお召し牽引につながり、「大和」様々です。
    添付写真は、近似値シリーズに乗っかりましてオハフ33 1531(四コチ)です(1985年1月4日、琴平駅)。

    • 四方 誠様
      有難うございます。ジャンパー栓受け設置はよくわかりませんが、1963(昭和38)年5月3日亀山区で撮ったDF5031を貼り付けました。この頃の塗装はオレンジ色ではなく新製時と同じ茶色の塗装でした。DF50はズルツー形とマン形(500番台)があったことだけは知っていましたが、後者の方が多少馬力があったようです。何れにしましても非力鈍足でした。ただ、当時は非電化亜幹線のエースとして名だたる急行を牽引していました。例えば蒸機の合間に撮ったものに「日本海」、「津軽」、「おが」、「たざわ」、「ばんだい」、「きそ」、「三瓶」、「高千穂」などがあります。当時の時刻表には蒸機牽引列車にわざわざ蒸機正面の顔をマークしたものがあり、蒸機列車撮影に便利でしたが時々牽引機がDF50に変わってがっかりした思い出があります。蒸機を追い出したその憎きDF50もDD51等に置き換えられ、今は思い出となりましたが改めていい顔だと思っています。

      • 31号の写真まで、ありがとうございます。茶色時代を見たことがないのですが、渋さがひしひしと伝わってきます。紀勢西線の電化に伴い高松へ転じ、最期まで残った10両のうちの1両でした(1983年8月30日高松到着の3862レが最期の牽引)。
        DF50は、高価ゆえに電化予定のない亜幹線の優等列車の無煙化、つまり旅客サービスの向上を目的として設計、製造された車です。諸先輩方が悔しい思いをされたことは理解しておりますが、SLを駆逐する意図はなかったことをご理解いただければと思います。ちなみに、エンジン出力の大きいDE10は、DF50よりも僅かに遅い(変換効率の差だと思います)ですが、誰も鈍足だとは言いません。現在、電気式が流行なのも、軽く作れるようになったことと、液体変速機の効率の悪さが問題視されているのでは、と思っています。

  5. 米手作市様
    食堂車だけではなくどこにでもいたオハ35系でも皆さんこれだけ写真に記録されています。どうでしょうか。食堂車に続いて米手作市さんの愛した他の客車も投稿されたら如何でしょうか。指をくわえて待っている人もいるかもしれません。米手さんならではの爽やかな突っ込みも期待しております。できる限りの協力もします。

    • 準特急さん
      「どこにでもいたオハ35」だからこそ盛り上がったのかも知れませんぞ!
      もしこれが「三軸台車の救援車」であれば参加者は井原さんと特派員氏とあなたぐらいかも知れません。
      もう客車は昔のオハナシなのかも知れませんねぇ。

        • 米手作市様
          空白は気づいてましたが、私のパソコンの不慣れ。わかりました。客車もしばらく空白としましょう。失礼しました。

        • 管理人小西Jrです。
          問い合わせが相次いでましたので、こちらで長ーーい空白を削除させていただきました。

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