昭和の電車 改訂版(245)ー西鉄600系ー 投稿日時: 2022年1月12日 投稿者: 米手作市 ここからしばらくは九州シリーズです。 前回投稿時にはコメントがありませんでした。 九州にご縁のある会員のコメントをお待ちしています。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 昭和の電車 改訂版(224)ー近江鉄道ハニ2号ー 昭和の電車 改訂版(193)ー国鉄117系ー 昭和の電車 改訂版(132)ー国鉄クモハ32002号ー 昭和の電車 改訂版(114)ー東武クハユ299号ー 昭和の電車 改訂版(101)ー近鉄6201系ー 昭和の電車 改訂版(92)ー国鉄クロ151型ー 昭和の電車 改訂版(56)ー阪急電鉄900型ー 昭和の電車 改訂版(19)ー阪急115号ー
82年度の福島です。皆さまの投稿をいつも楽しく拝見させてもらっておりましたが今回やっと米手先輩からの厳しいお達しに応えることができそうです。 84年3月の春季旅行は長崎でした。車両班の車庫見学会も西鉄筑紫工場と門司機関区を訪れました。その際にこの車両に出合うことができました。企画の主宰者でありながら西鉄のことは勉強不足でご案内いただいた会社の方との対応は別の同好会メンバーの方に丸投げしていたことを思い出します。 返信 ↓
待ってました!ぴおちゃん。 西の私鉄・横綱にもかかわらず、反応が少ないのに悩んでおりました。 助けてくれてありがとう! 写真と画を見比べると、色以外に細かいところに違いが出ています。尾灯が上に上がったり、不細工な雨樋が付いたり、ドアがプレスに代わったりです。でも「アプレ顔」は健在で何よりでした。 続いて九州の鉄道が出ますのでヨロシク。 返信 ↓
1967年夏、宮原線麻生釣、肥薩線大畑の狂化合宿後九州各地を放浪し、9月8日に西鉄東甘木-銀水間で撮影をした。国鉄鹿児島本線がかなり近くを併走するのでどちらも撮ってやろうと二兎を追った。 一応「はやぶさ」、「みずほ」をキャッチしたもののロクな写真は撮れなかった。写真はク1305+モ1306+モ1307+ク1308の特急大牟田行きで先頭の特急マークが大きくて誇らしい。今はこのようなものを見かけることもなくなった。大牟田と言えば独特のニックネームをお持ちであったM先輩の故郷である。粗悪写真見てくれているかな。 返信 ↓
西鉄旧600型は私鉄高速電車史の記憶と記録に残る変わった電車でした。 まず中間の運転台の無いM車は、関東・関西に無い時代に先駆けて落成しました。昭和26年という時代は国鉄80系が初の中間モハを作った翌年で、デザインの流線型は湘南2枚窓の落成直後ですから、設計段階では影響を受けなかったのかもしれません。 両端の車両は製造10年後に生まれ変わり、新性能M車ユニットを挟んで、1000系特急車の予備1300系になります。 これも簡単に言うけれど、日本の電車史で例の無いケースで、湘南80系のクハが153系に編入されたような例えです。 私鉄なら京阪の1700系が1810や1900に改造編入されるようなことでしょうか。 ここから元九州人のヨタ話ですが、当時の西鉄と言えばライオンズで全盛時代ですから、中西や稲尾たちの昭和の若者に混じり活躍した大正生まれの大下弘が、立派にクリーンナップを務めた球史には胸を熱くする思いがありました。 1300の活躍に大下弘を重ねるのは、私の勝手な妄想ですが、2000系登場後に1000系と1300を6連化冷房改造の構想もあったそうです。結局老雄1300は冷房も積まず、最後まで2ドア車で一生を終えたことで、筑紫路に咲いた一輪の花でした。(写真は1976年6月、津福付近で撮影) 返信 ↓
82年度の福島です。皆さまの投稿をいつも楽しく拝見させてもらっておりましたが今回やっと米手先輩からの厳しいお達しに応えることができそうです。
84年3月の春季旅行は長崎でした。車両班の車庫見学会も西鉄筑紫工場と門司機関区を訪れました。その際にこの車両に出合うことができました。企画の主宰者でありながら西鉄のことは勉強不足でご案内いただいた会社の方との対応は別の同好会メンバーの方に丸投げしていたことを思い出します。
待ってました!ぴおちゃん。
西の私鉄・横綱にもかかわらず、反応が少ないのに悩んでおりました。
助けてくれてありがとう!
写真と画を見比べると、色以外に細かいところに違いが出ています。尾灯が上に上がったり、不細工な雨樋が付いたり、ドアがプレスに代わったりです。でも「アプレ顔」は健在で何よりでした。
続いて九州の鉄道が出ますのでヨロシク。
1967年夏、宮原線麻生釣、肥薩線大畑の狂化合宿後九州各地を放浪し、9月8日に西鉄東甘木-銀水間で撮影をした。国鉄鹿児島本線がかなり近くを併走するのでどちらも撮ってやろうと二兎を追った。
一応「はやぶさ」、「みずほ」をキャッチしたもののロクな写真は撮れなかった。写真はク1305+モ1306+モ1307+ク1308の特急大牟田行きで先頭の特急マークが大きくて誇らしい。今はこのようなものを見かけることもなくなった。大牟田と言えば独特のニックネームをお持ちであったM先輩の故郷である。粗悪写真見てくれているかな。
大牟田のM君と言えば、あの「P●●松村君」の事でしょうか?ずいぶん前に亡くなりました。
「天国から」と言うことです
昭和39年8月17日、急行「霧島」に乗車中、大牟田の手前で並走になり、窓から撮影しました。
西鉄旧600型は私鉄高速電車史の記憶と記録に残る変わった電車でした。
まず中間の運転台の無いM車は、関東・関西に無い時代に先駆けて落成しました。昭和26年という時代は国鉄80系が初の中間モハを作った翌年で、デザインの流線型は湘南2枚窓の落成直後ですから、設計段階では影響を受けなかったのかもしれません。
両端の車両は製造10年後に生まれ変わり、新性能M車ユニットを挟んで、1000系特急車の予備1300系になります。
これも簡単に言うけれど、日本の電車史で例の無いケースで、湘南80系のクハが153系に編入されたような例えです。
私鉄なら京阪の1700系が1810や1900に改造編入されるようなことでしょうか。
ここから元九州人のヨタ話ですが、当時の西鉄と言えばライオンズで全盛時代ですから、中西や稲尾たちの昭和の若者に混じり活躍した大正生まれの大下弘が、立派にクリーンナップを務めた球史には胸を熱くする思いがありました。
1300の活躍に大下弘を重ねるのは、私の勝手な妄想ですが、2000系登場後に1000系と1300を6連化冷房改造の構想もあったそうです。結局老雄1300は冷房も積まず、最後まで2ドア車で一生を終えたことで、筑紫路に咲いた一輪の花でした。(写真は1976年6月、津福付近で撮影)