ありがとうございました 沖中忠順さん 〈2〉

「デジ青」での沖中さんの活動の足跡を引き続き見て行きます。人生の糧として、元気にデジ青投稿を続けて来られた沖中さんですが、身体に変調を来たされるようになって来ました。外出も少なくなり、キーボードに向かう気力もなくなり、沖中さん自身の投稿は、2017年2月をもって途絶えることになります。

こんな時、「鉄道介護士」を名乗り、敢然と沖中さんへ救いの手を差し伸べたのが米手作市さんなのです。それまでも、東にデジタル難民がいれば、琵琶湖畔のマンションまで行って訪問介護し、西に投稿をさぼっている会員がいれば、大阪日本橋の歓楽街まで行って、尻を叩いて叱咤激励するなど、東奔西走の介護活動をされていましたが、乙訓地方にも差し伸べられたのです。さらに「こんなモンありまっせ」シリーズや、長期連載「昭和の電車 改訂版」シリーズなど、会の外においても、介護の成果を発表されて来られました。このような背景をもとに、「鉄道、つれづれ草」シリーズが始まったのです。以降、いくつかのテーマに分かれて連載されました。冒頭に当たっての、マイテさんの言葉をスクリーンショットでお見せします。沖中さんの個展「ドイツの街角に市電」で来場者に説明される。

いくつかの記事を見て行くことにしました。リンクもありますので記事を見てください。

「鉄道、つれづれ草-“乙訓の老人”からのお願い」◎1981年に廃止された福井鉄道南越線の写真が載せられています。最初は米手さんも疑心暗鬼で出されたのですが、沿線近くで青春時代を送られたマルーンさんや紫の1863さんから、詳細な説明が入り、キャプションも完成しました。私としては、以前に廃線跡を訪ねことがあり、粟田部駅の現役時代の写真もあって、今昔対比をすることができました。鉄道、つれづれ草ー“乙訓の長老”からのお願い その3 | DRFC-OB デジタル青信号

「鉄道、つれづれ草 -吉川文夫氏作品編」◎沖中さんと同じく熱烈な電車ファンとして名高い吉川文夫さん(故人)とも親交がありました。私も吉川さんが関西に来られると、一緒に酒席に入れてもらうこともありました。吉川さんと沖中さんは、写真交換が長く続き、多くの写真がストックされていました。そんな吉川さんから送られてきた、秋葉線など、貴重な写真をまとめたもの。鉄道、つれづれ草 ー吉川文夫氏作品編ー | DRFC-OB デジタル青信号

「乙訓の老人 鉄道、つれづれ草 〈三八豪雪のこと〉」◎三八豪雪とは、昭和38年に北陸地方での記録的豪雪のこと、北陸本線は長期間不通になり、閉じ込められた列車の救出劇などがニュースになりました。沖中さんはちょうど富山の勤務時代で、目の当たりにした豪雪の様子を写真で伝えています。さらに湯口徹さんらも迎えて、記録を続けます。乙訓の老人 鉄道、つれづれ草 《三八豪雪のこと》 | DRFC-OB デジタル青信号

いっぽう私のほうも、沖中さんの写真・原稿を何回か発表しました。これは“介護”と言うより、“これ、載せといてんか”と頼まれた、原稿転載の類いです。

「◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑧」◎“た~ちゃん”とは、沖中さんの幼名です。このシリーズは、沖中さんが業界紙に載せられた「路面電車から街づくりを考える」の再録です。京電の歴史から、欧米のLRTまで、沖中さんの幅広い蘊蓄が満載です。再録に当たっては、同じくクローバー会会員の故・大西友三郎さんの資料、カラーも併催しました。◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑧ | DRFC-OB デジタル青信号

「◆ た~ちゃんの電車めぐり ③和歌山電気軌道」◎沖中さんから託された写真の中からテーマを設定して、連載を始めます。これは、昭和32年12月、翌33年5月に訪れた和歌山地方の私鉄です。ここに載せられた和歌山電気軌道は、見たこともなく、沖中さんの撮られた鮮明な写真に、ため息の連続でした。湯口さんからスキャンの技術を褒められたのも、嬉しいことでした。◆ た~ちゃんの電車めぐり ③和歌山電気軌道 | DRFC-OB デジタル青信号

最後に、沖中さんの写真、資料の発表、継承に尽力いただいた米手さん、最後の介護活動を伝える、一節を紹介しましょう。

 ありがとうございました 沖中忠順さん 〈2〉」への2件のフィードバック

  1. 何かコメントをしなければ…と思いながらも、何を書けばよいのか考えがまとまらず、いたずらに時間ばかりが過ぎてしまいました。
    長老様に初めてお会いしたのは、10年ほど前になります。佐竹さまの写真展会場で30分ほど、お話しさせていただきました。「人は私のことを京阪の沖中というけど、一番好きなんは京都の市電や」とおっしゃた言葉は、今もはっきりと覚えております。
    私は特に私鉄電車が好きというわけでもなかったのですが、鉄道趣味に出戻ったきっかけが廃止直前の野上電鉄でした。何度か写真撮影に出かけましたが、歴史や車輌の来歴は一向に関心が無く、写真を撮るだけで満足しておりました。連休の取れない仕事柄、遠くへ出かけることも出来ず、もっぱら日帰りできる範囲で撮影を楽しんでましたが、この10年ほどは過去の写真をひっぱり出して眺めるだけとなりました。
    ふとしたきっかけでデジ青と出会い、地方私鉄の魅力に取りつかれてしまいました。SLに夢中だったころ、遠くへ出かけながら私鉄や路面電車にカメラを向けなかったことが悔やまれました。ところが、デジ青では昭和40年代はもとより、30年代の鉄道が次々と登場します。個性的な車両の数々、のどかな風景、時代の雰囲気までが伝わってきました。長老様の投稿を読み返し、数多くの写真や書籍には書けないような内容の記事に触れました。
    何冊もの書籍や雑誌を調べて、コメントを寄せたこともありました。素人の私が書いた解説では長老様の足元にも及びませんが、自分なりに調べてみると知らなかった鉄道にも興味が涌いてきます。これこそが長老様のお導きではないかと今になって気が付きました。
    研究とか調査と言ったたいそうなものではありませんが、いま私は京都市電の安全地帯があった場所や付近の建物など、思いつくまま書きとめております。長老様の「京都市電が走った街 今昔」には遠く及びませんが、自分なりの視点で書いております。お話したのは一度きりでしたが、大きな影響を受けたようです。
    長老様、ありがとうございました。

    • 沖中さんの思い出を頂戴し、ありがとうございました。紫の1863さんと沖中さんとの出会いは、何のきっかっけだったのだろうかと、以前から思っていました。やはり、写真展会場で出会われたのですね。その時に交わされた“京阪より市電が好きやった”は、私も聞かされました。沖中さんは、3歳の頃、一人で京阪電車の見物へ行って、暗くなってしまい、泣きながら自宅まで帰ったと述懐されていましたが、その後、市電は、沖中さんの住んでいた下鴨にも延びてきます。沖中さんは、街のなかに線路が敷設されていく様子を、記録されています。やはり、家からいちばん近い鉄道に、思いは行くものだと思いました。後年、「京都市電が走った街今昔」でも、一緒に企画・編集・取材をしましたが、沖中さんの市電に寄せる思いをたっぷり聞かせてもらいました。
      さて、デジ青も投稿が途切れて、とくにいつも愛読いただいている、外部の皆様にご心配をお掛けしています。気持ちを切り替えて、また投稿に励んで参ります。投稿の活発化こそ、デジ青時代を築いた沖中さんへ報いる道でもあります。

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