沖中さんの置き土産

“乙訓の老人”こと沖中忠順先輩が西方への旅に発たれてはや3ヶ月になろうとしています。今でも電話が掛かってきて「おい、話があるから四条大宮まで出てきてくれ!」と言う声が耳に響く気がします。そんな頃、四十九日・納骨式が開かれることになり、会長と共にお呼び頂きました。
ところで沖中さんが亡くなって驚いた事(不謹慎ながら嬉しいこと)がありました。
それは、会いたかった方にお目にかかれたことです。
お一人は、このホームページでたびたびコメントを下さっている「乙訓の老人の甥」さん、今一人は当会創立者のお一人の「重澤崇」先輩です。

まず、「乙訓の老人の甥」さんは、以前に沖中さんから「兄に息子が二人いて、一人が鉄道模型をやっている」と聞いたことがありました。でもまだデジ青ができる以前のことでしたので忘れていました。それがたびたびご投稿を頂くので確認しようと沖中さんにお尋ねしたところ「そんなんシランで、兄貴の所には息子は一人しかおらん。鉄道は中学生頃までで、いまはしてない」との話でしたが、ハンドルネームに「乙訓の老人の甥」と書いておられる以上はご親戚であるに違いないので、再度確認しても「二人いたんかな?」と甚だいい加減なお話しでした。
また、追求しよう!と思っていたら突然の訃報で禍根を残しました。あの時もっと鋭く詰問していたら核心に迫れたのに、とまた別の無念が残ったのです。
その答えが思わぬところで還ってきました。葬儀の日、ご親族のお一人が近寄ってこられて「私が乙訓の老人の甥です」とご挨拶頂きました。
葬儀の式場でしたが、もううれしくて思わず笑みがこぼれてしまいました。「沖中さん、それ見なさい!やっぱり甥御さん居たやないですか!」と心の中でツッコみました。遺影が少しほほえんでいるように思えました。

もうお一人は「重澤崇(しげざわたかし)」先輩で、約60年ぶりに再会できたことです。
私がDRFCに入会したのは昭和39年春(1964年)のことです。当時の会長はかの「無印不良品」さん(三年生)でした。いま思い返すとこの頃の諸先輩は卒業後もたびたび顔を出して現役生との交流に務めて下さっていました。そんな諸先輩の中に通称“ダンナ”こと重澤先輩もおられました。ただ、当時の私は子羊のごとく初心なため、大先輩に声を掛けたり、言わんや話をするなどは思いもよらないことでした。特に重澤先輩は気むずかしく怖い、と言われていたからなおさらでした。
EVEや写真展(M地下)や長楽寺などに来られていたと思いますが、遠くから眺めているばかりだったように思います。
それでも古い「青信号」を見る時、几帳面な文字を筆耕される(当時は青信号は全て手作りで、文字も画もガリ版という謄写版で作っていた)「重澤崇」のお名前には尊敬とあこがれを感じていました。沖中さんに「同好会を作ったのは俺と湯口と重澤が中心になった」と聞かされていたからです。(トップページの沿革参照)
その重澤さんと遙かな時空を越えて、それも納骨の日に再会できたのですからこれを沖中さんのお引き合わせと言わずにはおれません。
この忌明けの食事時、重澤さんが沖中さんの思い出話で「EVEに初めて出展した時、思わぬほどの来客数でおどろいた。」と言われたので、思わず「どんな展示をされたのですか?」と質問してしまいました。記憶の中で初めての単独質問です。

それから数日後、A4版の封筒が郵送されてきました。差出人は「重澤崇」。
失礼な質問で叱られるのか、と思いながら封を開けると出版物のコピーらしいものと見慣れた青信号の一ページのコピー、それと懐かしい、あの几帳面なペン書きの文字が出てきました。

DSC_1970

読んでみて驚きました。出版物のコピーと思われたのは、私が入学した当時の鉄道風景をご自身で撮られたものと当時の思い出をパソコンで編集したものでした。青信号のコピーは、私が入学した時の挨拶文が載ったページのコピーでした。
几帳面な文字で綴られた手紙には、「納骨式の日に質問がありましたが、記憶違いもあり不正確な話でした。帰ってから当時の青信号を引っ張り出して確認したところ、間違いがあるのでその部分の記事を送ります。」とのことで、HO模型の運転会をした他、当時を代表する列車の全編成を真横から見た編成図をカラーでレタリングした図面を貼りだした、とありました。どんなものなのか見てみたいと思いませんか?

その後も数通のハガキを頂きましたが、すべて手の込んだ(創刊時の青信号を彷彿とする)すばらしい“作品”です。

数十年持ってきた「気難しい、怖い重澤さん」のイメージは一瞬のうちに消え去りました。沖中さんや湯口さん、吉田さん達と変わらない楽しいすばらしい先輩でした。
重澤さん、ゴメンナサイ!

9月になったら時間を作って当時の思い出をお話し下さいます。記録して沖中さんが思い出せなかった同好会創立時の記録をきっちりと保存しておこうと思っています。

これが沖中さん、「乙訓の老人」から我々後輩への置き土産だと思いました。

 

沖中さんの置き土産」への3件のフィードバック

  1. はい、その「乙訓の老人の甥」でございます。
    鉄道趣味関係の皆さんをお招きしての四十九日・納骨式の後、20日には親族で納骨を終えました。米手作市さんもおっしゃるように、今でも「おい!電車見に行くぞ!」と、呼び出されるような錯覚に陥りそうですが、本当に墓の中に入ってしまいました。
    あらためて述べさせていただきますが、DRFC-OB会の皆様におかれましては、生前のひとかたならぬご厚誼に心よりお礼申し上げます。

  2. 沖中大先輩の置き土産は、なんと素敵なことでしょう!
    米手先輩の筆力に引き込まれてしましました。
    是非、重澤大先輩の思い出の作品を拝見させて頂きたいものです。
    改めて沖中大先輩のご冥福をお祈り申し上げます。  合掌

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