第3回総会も無事終わり、連休明けにはどこかへ行こうと目的地を考えていましたところ、乙訓の老人(以下;ご老公)より「5月4日から8日まで時間が取れたので、前から連れて行ってもらいたいと言っていた四国へ行きたい。ぶんしゅう7号の都合は、どうだろうか。」との電話がありました。
四国へは昨年春に2度参りました。そして秋にも馬路村のトロッコ訪問を計画しましたが、【9712】とほほ…. 馬路村の魚梁瀬森林鉄道行けずにて投稿しましたように、出発直前に断念、リベンジを誓いました。
連休中で大渋滞も予想されますが、恐れおおくも電車の神様、ご老公様からのお話です。リベンジも含めて二つ返事で答えました。
ご老公は手術後まもなく、私も初老で持病持ちですので、無理なく動ける行程を組んでみましたので、訪問したい馬路トロッコへ確認電話を入れますと3~5日は運行するが、後は8日の日曜日だけです。それもお客があればとの返事でした。8日に乗車と撮影すれば、当日中の帰宅は強行軍となり無理です。
高松琴平電気鉄道(以下;琴電)も旧車両が5月連休中は、3、4日走行します。折角ですので撮りたいと思いましたが、当初予定では現地到着は走行後です。 現地事情に合わせての行程変更が必要でした。
4日 自宅→ 琴電岡田付近にて撮影→夕日の綺麗な土佐湾浜辺で野宿
5日 →馬路トロッコ訪問→朝日のあがる太平洋海岸で野宿
6日 →高知駅、土佐電気鉄道車庫訪問→夕焼けの見える瀬戸内で野宿
7日 →別子鉱山トロッコ訪問→善通寺ご老公姉貴宅訪問泊
8日 →琴電仏生山車庫訪問→帰路
結局こんな予定になりましたが、予定はあくまで予定です。どうなりますやら。
勿論、讃岐うどんや新鮮魚料理等の現地B級グルメと地酒試飲、ゆったり温泉につかっての垢すりは含んでおります。 Part 2 へ続く
1954年初夏、姉は善通寺で所帯を持ちました。以来、1961年4月富山に行くまで1959年以外は毎年電車に乗りに行きました。1963年9月富山から大阪に転勤となり、最初の地区担当が中四国でした。1966年3月帰京しましたが、1972年まで四国担当が続きました。富山時代を省けば16年間、四国の電車を見てきたことになります。「鉄」に戻って最初に訪れたのが1988年GW、備讃大橋開通の時です。この時は橋を渡らず下津井⇒丸亀、坂出⇒児島間をフェリーで渡り、橋を下から眺めました。今回ぶんしゅう7号で、始めて橋をゴム輪で渡ります。今回の目的は、①仏生山車庫の松下さんに1954年8月撮影の保存車120号の英姿を届ける、高架化された高知駅を見る、③善通寺の85歳になった姉夫婦の顔を見ること、の3点です。道中記はぶんしゅう氏から紹介されます。どうなることやら……。