じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part3  馬路村へ 魚梁瀬森林鉄道 3の1

第2日目 5月5日
① 「道の駅 田野駅屋」 7:30→9:00馬路温泉
② 馬路温泉→郷土資料館→11:30魚梁瀬
③ 魚梁瀬12:40→13:25馬路温泉

朝日が上がる早朝6時に、ぶんしゅう7号の寝台車内で目覚めました。ゆっくり起きだし、朝食準備をしていますと、ご老公は地元の朝散歩族の方々とコミュニケーションを楽しんでおられます。私も中に入って林鉄時代の話を聞き入りました。
今日は馬路村に復元されている森林鉄道を訪問します。ただ、運行されているのは日祝日だけです。電話で確認を入れましたら5月3日~5日は大丈夫と言う事でしたので、昨日約450kmもの道のりを走ってきました。馬路村には2箇所に走っていると聞きましたので、かつて森林鉄道が走った安田川沿いを馬路温泉に向けて上がっていくことにしました。

【馬路村との出会い】
学生時代は小さな蒸気機関車が走る
森林鉄道(略;林鉄)など全く興味がありませんでした。身近にC57、C58やD51が走る山陰・草津・信楽・関西本線が蒸気全盛期を迎えていて、気が向けばいつでも撮りに行けました。小さな蒸気はせいぜい小海線を走るC56が大好きだったぐらいです。

馬路村知ったのは昨年3月にTV番めざせ!駅弁日本一」た時でした。京王百貨店で1966年(昭和44年)から開催されている大会(正式名;元祖有名駅弁と全国うまいもの大会)に今は廃線となってしまった路線から、懐かしい駅弁をご紹介する企画として「馬路村の村おこし弁当」が特別参加されていました。

▲ 馬路温泉で注文した地元食材をふんだんに使って調理された村おこし弁当駅弁。見てのとおりボリュームはありませんが、素朴な山菜料理でヘルシーです。

馬路村? 聞いたことがない、いったいどこにあるのか。そんな駅弁なんかあったのか・・・?と、興味津々に見ていくと、過疎化の進む村にかつて華やかだった林鉄時代の活気を取り戻そうと頑張る村民の願いが感じられました。
林鉄といえば、全国あちこちにあったことは知っていても、具体的には恥ずかしながら木曽、丸瀬布や台湾の阿里山ぐらいしか知りません。四国の山中にそんな有名な林鉄があったとは、一度訪問してみたいと昨年計画した次第です。

【馬路村とは】
高知県東部に位置する1,000m級の山々に囲まれ、面積の96%を山林、内75%が国有林が占める山村です。魚梁瀬の天然杉は、秋田、吉野と並んで日本3大美林と呼ばれ、かつては林業で栄えました。昭和30年代の人口は約3,000人、多くは林業に従事していましたが、1962年(昭和37年)に着工された発電を主目的とした魚梁瀬ダム建設と林業衰退化により、現在の人口は約1,000人に激減しました。過疎化した村を救ったのは、1965年(昭和40年)に始まったユズの栽培で、1988年(昭和63年)に発売された「ごっくん馬路村」は、全国ブランドに成長し、村の観光と共に馬路村を支えています。

【魚梁瀬森林鉄道】
『創成期』

それまで河川の流送に頼っていた木材輸送の近代化のために森林鉄道は、はじめに1907年(明治40年)に安田川山線が敷設され、その後1911年(明治44年)に港貯木場のある田野~馬路間、安田川線23.4キロが開業しました。当初は簡易軌道がひかれ、丸太を積んだトロ(台車)が、トロ引き係の手さばきのもと、勾配を利用した自然重力滑走で山を下り、帰り道は犬がトロを引っ張り上げていたというから驚きです。

当時の、トロ引き係は犬を2~3匹飼っていて、行きはトロに乗せ、帰りはトロに人が乗って犬が引き、勾配となると両方が力を合わせて引き上げていました。
▲ 馬路の街の入口にある五味随道をバック入れた犬ぞりトロの様子。 実際にはこんなに近い間隔で続行することはなく記念写真です。右の写真は現在保存されているトンネル反対側です。今にもシェイ式蒸気機関車がトロを牽引して出てきそうな雰囲気がありました。

『満州レール』
レールは本線用が10キロ、支線が9キロ、されに奥地へは6キロの1本5mが採用されていました。注目すべきは、森林鉄道が日露戦争を契機に建設されたと伝えられる点です。1905年(明治38年)終戦後、ロシアが旅順要塞に使用していたレールを戦勝品として日本国内に持ち帰り、安田川線敷設に使用しました。このレールは7cmと背が高く頭が小さくカーブ使用には不利ながら重量物に耐え「満州レール」と呼ばれていました。

『蒸気機関車の導入』
1915年(大正4年)に上の魚梁瀬まで、1919年(大正8年)には、さらに上の石仙まで延伸され田野までの41.6キロが完成しました。しかし途中で14‰もの逆勾配区間が発生したため、この解決策として、全国初の林鉄である津軽森林鉄道よりリマ社製シェイ式蒸気機関車(1号機)が譲渡購入されました。
土讃線より早く、四国でも2番目となる蒸気機関車は、高知からの見物客も押しかけ期待を持たれましたが、急勾配に強いはずのシェイ式は12.8トンの巨体は、10トン対応の路盤には耐えられません。とくにS時カーブではレール負担がきつく一日3回もの脱線は珍しくなかったようで、保線泣かせでした。75もの木橋を付け替え補強を強いられました。シェイ式は、鈍い「アメリカ牛」と酷評され、1921年(大正10年)にポーター社製の整備性の良いワルシャー式B1蒸気機関車2両(2・3号機)が輸入運用されますと、田野貯木場入替機に配置転換され、1925年(大正14年)に廃車解体されてしまいました。

▲ 左はシェイ式1号機、釈迦ヶ生~久木間4.4キロは14‰の逆勾配になっていて、木材を積んでの犬トロでは走破不可能、オス牛が牽引しましたが1両牽引がやっとで、蒸気機関車の導入となりましたが、鈍足に呆れられ右のワルシャー式に替えられました。

1924年(大正13年)に同形式1両(4号機)輸入、1942年(昭和17年)に田中機械製作所製国産コピー機(5号機、1952年3号機に改番)が、1944年(昭和19年)には八島製作所製Bサイドタンク車(2代目5号機)が増車されています。
その後、2・4・初代5号機は、下回りを利用してディーゼル機関車に改造されていますが、この先の説明は内燃機関車の権威者ご大老がおられますのでお任せいたします。
 Part4  へ続く

じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part3  馬路村へ 魚梁瀬森林鉄道 3の1」への1件のフィードバック

  1. 鉱山鉄道についてはある程度認識していました。それは鉄道の元になったイギリスでの歴史、それが世界に広がったと言うことからです。それに比べ森林鉄道の普及は、ヨーロッパでの大きな広がりを文献で見ることがなかった。これは語学力がなく文献に触れることがなかったからかも知れない。それで魚梁瀬森林鉄道のことは名前だけ知っていたが実態は知らず、馬路の事は全く知らなかった。それが昨春、「駅弁コンテスト」なるもので知り桜探訪コースに入れようとして駄目だった話を何度も聞かされた。老人は幼児から野次馬根性旺盛である。「条件が合えば連れて行って貰おう!」となった。「5/4~5/8に行けないか?」クローバー会総会後の休日に打診してみた。コースはスラスラと決まった。そこで我が家から現地へぶんしゅう氏は電話を入れた。トロッコは5/5までしか走ってない、とのこと。琴電の特別運転も5/5まで。そこで予定コースを逆転させ、ぶんしゅう氏の安全1日走行距離を無視して1.5倍走らせると言う強行手段を老人は提案した。

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