井笠鉄道創立100周年 投稿日時: 2011年7月4日 投稿者: 西村雅幸 中国新聞井笠おかやま版に「井笠鉄道創立100周年 懐かしの24駅・停留所」という連載記事が掲載されたので これから順次ご紹介してゆきます。第1回は7月3日掲載分です。1回につき4駅のようですから 6回で24駅が紹介されるようです。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 関連記事がありません。
井笠鉄道は亡き父の故郷で、幼き頃に一緒に墓参りに行った時に乗車した思い出があります。笠岡駅から軽便鉄道に乗って1回乗換をしてどこかの駅で降りました。どの駅だったのか分かりませんが、一度カメラ好きだった父が写していると思いますので探してみます。 乗った小さな客車はよく揺れて脱線しないのかと心配した事をよく覚えております。墓は小高い丘にあって、眼下に軽便鉄道が走っていくのが見えました。 父との思い出を振り返りながら、これからの連載を楽しみにしております。 返信 ↓
ぶんしゅう様へ 乗り換えられた駅は多分北川駅で 矢掛線のどこかの駅に向かわれたのでしょう。矢掛は旧山陽道の宿場町で陣屋跡など昔の面影を残しているおもむきのある街です。私にも子供の頃に父親に手を引かれて汽車に乗った断片的な記憶があります。 子供にとって 鉄道の風景はインパクトがあるのでしょうネ。 連載に乞うご期待(中国新聞よ ありがとう)。 返信 ↓
私からも一言、 母の故郷が倉敷市八王寺町というところにあります。倉敷市の西の外れで西阿知との中間です。子供の頃は休みのたびに泊まりに行き、歩いて伯備線を走るD51を見に行きました。ある夏休みに矢掛までバスで出かけて井笠鉄道に乗って笠岡へ出て倉敷へ帰るという計画を立てて実行したのです。マッチ箱のような汽車と親戚の人たちはいっていましたがまさにその通り。車内は狭く、湯口先輩の花巻電鉄にあった“膝が触れあう”ような幅であったと思います。昔、牛とぶつかって脱線したという話を聞きながら笠岡へ帰ったのを思い出しました。 左にあるアイコンの「写真館」の中にある「米手作市のアルバム」を見て下さい。一番最後にそのとき撮った車両写真が出ております。 西村さん、ご退職おめでとうございます。江若鉄道シリーズの展示会、楽しみにしております。 返信 ↓
米手作市様 写真館を拝見しました。私も一度だけ井笠を訪れたことがあります。笠岡のユースホステル(民営の旅館)で1泊し 猛烈に暑い夏の日に笠岡からくじ場、大井村あたりを歩き回ったことがあります。初めて軽便鉄道に触れたのが井笠だったので、思い出が多く、アサガオ型カプラー、頭を打ちそうな低い天井、脱線しそうな走りなど独特の雰囲気のとりこになりました。まだ下津井や尾小屋も全線走っていましたしたが、佐賀関、頚城、仙北などは行く機会がないまま消えてゆきました。 我々世代は762の終焉期ではありましたが、少しは実感できただけでも幸せだったと感じています。 返信 ↓
井笠鉄道は亡き父の故郷で、幼き頃に一緒に墓参りに行った時に乗車した思い出があります。笠岡駅から軽便鉄道に乗って1回乗換をしてどこかの駅で降りました。どの駅だったのか分かりませんが、一度カメラ好きだった父が写していると思いますので探してみます。
乗った小さな客車はよく揺れて脱線しないのかと心配した事をよく覚えております。墓は小高い丘にあって、眼下に軽便鉄道が走っていくのが見えました。
父との思い出を振り返りながら、これからの連載を楽しみにしております。
ぶんしゅう様へ
乗り換えられた駅は多分北川駅で 矢掛線のどこかの駅に向かわれたのでしょう。矢掛は旧山陽道の宿場町で陣屋跡など昔の面影を残しているおもむきのある街です。私にも子供の頃に父親に手を引かれて汽車に乗った断片的な記憶があります。
子供にとって 鉄道の風景はインパクトがあるのでしょうネ。
連載に乞うご期待(中国新聞よ ありがとう)。
私からも一言、
母の故郷が倉敷市八王寺町というところにあります。倉敷市の西の外れで西阿知との中間です。子供の頃は休みのたびに泊まりに行き、歩いて伯備線を走るD51を見に行きました。ある夏休みに矢掛までバスで出かけて井笠鉄道に乗って笠岡へ出て倉敷へ帰るという計画を立てて実行したのです。マッチ箱のような汽車と親戚の人たちはいっていましたがまさにその通り。車内は狭く、湯口先輩の花巻電鉄にあった“膝が触れあう”ような幅であったと思います。昔、牛とぶつかって脱線したという話を聞きながら笠岡へ帰ったのを思い出しました。
左にあるアイコンの「写真館」の中にある「米手作市のアルバム」を見て下さい。一番最後にそのとき撮った車両写真が出ております。
西村さん、ご退職おめでとうございます。江若鉄道シリーズの展示会、楽しみにしております。
米手作市様
写真館を拝見しました。私も一度だけ井笠を訪れたことがあります。笠岡のユースホステル(民営の旅館)で1泊し 猛烈に暑い夏の日に笠岡からくじ場、大井村あたりを歩き回ったことがあります。初めて軽便鉄道に触れたのが井笠だったので、思い出が多く、アサガオ型カプラー、頭を打ちそうな低い天井、脱線しそうな走りなど独特の雰囲気のとりこになりました。まだ下津井や尾小屋も全線走っていましたしたが、佐賀関、頚城、仙北などは行く機会がないまま消えてゆきました。 我々世代は762の終焉期ではありましたが、少しは実感できただけでも幸せだったと感じています。