国道電車の最終日 (昭和50年5月5日)
先に昭和50年は、京都市電の廃止においては、エアーポケットの年と記しましたが、うまい具合と言うか、阪神電鉄併用軌道線、通称「国道電車」のうち、残存の国道線(野田~上甲子園)、北大阪線(野田~天神橋筋六丁目)、甲子園線(上甲子園~浜甲子園)は、昭和50年5月5日を持って全廃されました。ちょうど市電撮影のエネルギーを、大阪・神戸方面に振り向けることができたのです。以前のデジ青でも、各線ごとの解説をしています。ここでは、最終日に限定した、カラーの紹介です。
▲中津ですれ違う1形(左)と“金魚鉢”こと201形。廃止時の車両は、1形20両、金魚鉢の71・201・91形28両あったが、譲渡はなく、すべて廃車となった。▲最終日は、5月5日の“こどもの日”の祝日、全区間が乗車無料という大盤振る舞いで、多くの人で終日賑わった。天六から乗車し、中津、野田、甲子園方面に向かった(天神橋筋六丁目)。
▲当日は1形に廃止告知の看板、モールが付けられた。右手奥は阪急中津駅。今から見れば、孫のような世代が熱心に写している。考えたら、当時は、私とは数年しか違わなかった彼らである。
▲満員の客を乗せ、中津に着く。左手は国道176号の中津陸橋、正面の建物は今も残るJR西所有のビル、右手に新阪急ホテルがひときわ大きく見える。梅田駅の再開発が、そろそろ議論され始めた頃だ。
▲阪神野田駅の真下にあった軌道線の野田駅。国道線、北大阪線が合流する。奥には留置線があった。左の北大阪線が低床式ホーム、右の国道線は高床式ホームなのだが、ホームがいっぱいなのか、地上から乗降しているように見える。
▲野田を発車した国道電車、阪神の赤胴車が見下ろしている。▲▲長大な淀川大橋を渡る。左手は阪神本線の鉄橋(野里~中海老江)。▲夕陽を浴びて武庫大橋を行く。終日、車内は満員だった。ここまで来ると、松林の向こうに六甲山系が望めた(西大島~武庫大橋)。
▲最後をどこで迎えようか迷ったが、結局、始発の天神橋筋六丁目に戻って来た。天六付近は奇跡的に戦災にも遭わず、古い下町の情景がよく残っていた。夜ともなると、赤提灯がその雰囲気を出していた。「タカラブネ」の看板も懐かしいし「まむし」は、いかにも大阪だ。いまは徹底的に再開発されて、周囲は高層ビルばかりになった。
阪神国道線は乗る機会はありませんでした。阪急の車内から見た北大阪線とDRFC時代に行った浜田車庫の見学会が阪神国道線との接点でした。浜田車庫は1972年10月20日に実施され7人が参加しました。当時はやはり蒸機の方に興味が傾いていて、せっかくの機会でしたが、10枚足らずの写真しか残っていません。金魚鉢は車庫の中で暗くてぼけたものしかなく、唯一この1形だけが見られる写真でした。そののち保存された金魚鉢を見ることができ、改めて当時もっと撮っておけばよかったと残念に思います。
総本家様
私も昭和50年の1月に撮影していました。阪急の各駅停車では「次は中津中津でございます。野田天六方面はお乗り換え願います」のアナウンスが流れたものでした。北大阪線は阪急をアンダークロスする箇所は専用軌道になって、中津電停では乗客を効果的に入れて写すことができました。金魚鉢の91号です。