“アレ”にちなんで 阪神軌道線と甲子園球場 ①

ついにやりましたね。こんなに早く“アレ”が来るとは思いも寄りませんでした。私は1ミリもタイガースとは関係はないのですが、高齢者にとっては、記憶に残る日となりました。しかも甲子園で、宿敵を完膚なきまでに叩いたこと、出来すぎのストーリーでした。テレビでは「18年前の優勝は、まだ生まれていなかった」の声もありましたが「約50年前には球場の前に路面電車が走ってたんやでぇ」と言うと、まちがいなく化石扱いされるでしょう。そう、甲子園球場の横には、1975(昭和50)年まで阪神軌道線(国道電車)の甲子園線が走っていました。

本欄でも、先にクローバー会行事で訪ねた福岡市内線跡を記しましたが、機会を見つけて、思い出に残る各地の路面電車を紹介したいと思っていたところでした。“アレ”を格好の機会ととらえて、阪神軌道線の甲子園線を紹介したいと思います。

左手、高架の阪神本線の甲子園駅があり、その直下に、軌道線の甲子園駅があった。浜甲子園行きの電車が出発して、左にカーブすると、車窓に大きな広告塔が見えてくる。背後の松並木は、かつて、ここに川が流れていたことを証言している。“銀鱗”の阪神バスも懐かしい。

本線の甲子園駅から見た甲子園線、その向こうには甲子園球場が見えて来た。ちょうど、センバツ高校野球が開催中(以下、1975年撮影)。ツタの絡まる甲子園球場、まだ改修前で、とくに新緑の頃は鮮やかだった。

“金魚鉢”と呼ばれた71形、真横から見ると窓の大きさが実感できる。

球場の南隣には、阪神パークもあって、軌道線沿いは人通りが絶えなかった。ここから2点は、思い出の甲子園線。始発は「上甲子園」で、国道線と接続していた。雨のなか、折り返し電車が輝きを増していった。いっぽうの終点は、「浜甲子園」、すぐ海があって、以前は海水浴で賑わった。大きな団地があって、結構な乗降があった。

 “アレ”にちなんで 阪神軌道線と甲子園球場 ①」への9件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    なつかしい且つ素晴らしい写真がタイミングよく発表されました。駅名板を見ていますとあの頃の車掌さんのアナウンスを思い出します。つい先日この駅を降りて球場に向いましたが、国道電車時代とえらい雰囲気が変わっていますね。三ノ宮に向う電車の中にいたタイガースファンからも「あれ」を使って声をかけられました。それにしても孫に応援グッズのユニホームと帽子を買いましたがえらい高いですね。因みにタイガースグッズは新宿の京王百貨店にも売り場があります。

    • はい、このテーマは、阪神の優勝が決まって風呂に入っている時にふと思いつき、それから夜を徹して?書きました。風呂に入った時、寝床に入った時、そしてトイレに入った時、私のテーマを編み出す三大タイムです(えらい大げさ)。話変わって、準特急さんの甲子園到着前の車掌アナウンスの形態模写は、何度聞いても絶品です。聞けば、最近は何度も甲子園へ足を運ばれたとか、心底、野球を愛しておられること分かります。ニュースで見ても、全国から阪神のために甲子園を目指していること分かります。軌道線の時も、全国から来た多くの乗客を運んだことと思います。

    • 今日はどこへ行こうかな?◎ ◎ ◎ ◎阪神電車!ってやつね。(◎は駅名)
      あれは、なかなかよろしいですな!同感!

  2. 総本家様
    昭和60(1985)年以来、地元でアレを達成し、テレビとネットの情報を見て喜びを確信している勘秀峰です。昭和48(1973)年5月20日、高校3年の時、鉄道友の会京都支部の「阪神国道線乗車イベント」に参加した際の、浜甲子園の写真です。大西先生とはこの時が実質初対面でしたけれど、一高校生の私にいろいろ親切にしていただき、思い出に残る乗車会でした。
    この年のタイガースは、ほぼ決まりかけていたアレを10月22日、巨人との甲子園決戦に大差で敗れ、9年ぶりの優勝は成りませんでした。試合終了後すぐに、怒った阪神ファンが巨人のダッグアウトに乱入し、警官が出動する大騒ぎになりました。

    • 勘秀峰さま
      大西顧問の想い出とともに、甲子園線の写真、ありがとうございます。終点の浜甲子園に到着するところですね。大西顧問とは、この昭和48年3月のP-6のお別れ式に誘ってもらい、参加しました。私はDFRCではなく、社会人で、友の会会員でもなかったのですが、大西さんのご好意で参加することができました。この年の阪神が、巨人ベンチに殴り込みを掛けた年でしたか。よく野球特番にも出てきますね。

  3. 甲子園球場は来年100周年ですが、軌道線があった時代と廃止以降がほぼ半々、「化石」かどうかはともかく、岡田監督ですら選手としては軌道線を知らない世代で、軌道線は「伝説」とは言えるかと思えます。
    3点目の写真、阪神高速とR43高架が無い時代、駅前からの球場の存在感が素晴らしいですね。景観をさえぎる邪魔な(失礼)高速道路がなけりゃ、甲子園駅を降りてから球場へ向かう間、もっとテンションをあげられることでしょう。首都高の日本橋同様、地下化ならんか、と妄想しますが、これはさすがに無理ですね。それはともかく、先日は甲子園で“アレ”に立ち会えました。

    • 宇都家さま
      “アレ”の瞬間のお宝写真、ありがとうございます。今日もある酒席で、その瞬間に球場で立ち会えた人間は、どんな人間なのか、議論になりました。その結果、よほど幸運に恵まれた人間か、よほど強力なコネを持った人間か、そのどちらかだとの結論になりましたよ。
      さて、軌道線が走っていた時代、もちろん選手にとっては、カケラすらもない時代で、岡田監督ですら、高校2年生の時でした。玉造の実家から、地下鉄、阪急で高校へ通っていたことでしょう。

      • 特別ご招待でもなく、まさに幸運でした。チケットは同行者が早めに押さえてくれてましたが、9月の奇跡の連勝でちょうどM1で観戦日を迎えることができました。残り人生分も運を使い果たした感ですが、、、
        阪神パークといえば、軌道線の保存車があったはずですが、20数年前くらいに訪れた時には見当たりませんでした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください