“アレ”にちなんで 阪神軌道線と甲子園球場 ②

上甲子園~甲子園を行く

では“アレ”つながりで、阪神軌道線の甲子園線を紹介していきましょう。

大阪から神戸まで、JR、阪急、阪神以外に、もうひとつ路面電車があって、大阪から神戸まで行くことができました。国道2号をクルマに邪魔されながら走っていたのが、阪神電鉄の併用軌道線、通称“阪神国道線”でした。さらに縮めて“阪国”とも呼ばれていて、“阪国”には、北大阪線(野田~天神橋筋六丁目)、甲子園線(上甲子園~浜甲子園)、国道線(野田~上甲子園~西灘~東神戸)の3線がありました。

甲子園線の始発、上甲子園で発車を待つ。通常は、単行が折り返しているが、秋晴れの日曜日のこと、阪神パークへ向かう客が多いのか、「臨時」を掲げた1両も発車を待っていて、珍しい2両並びを見ることができた。▲▲電車の向こうを横切るのが国道2号で、国道線が走っていて、甲子園線との接続を行っていた。甲子園線は日中12分ヘッドで一応、路面電車の体をなしていたが、国道線に至っては40分ヘッドで、実際に乗換客はほぼ皆無だった(昭和49年11月)。

雨降る夜の上甲子園、道路のど真ん中で折り返し停車して、乗客を待つ。沿線は住宅地ばかりで、甲子園球場のナイター開催時以外、夜間の乗客は少なかった。

河川改修の引込線を活用~甲子園線の歴史

尼崎と西宮の境を流れる武庫川の下流部は、天井川になっていて、さらに枝川と申川も分流していた。住宅地開発などのため、1920年(大正9)から抜本的な改修工事が始められた。武庫川本流の川幅を広げ、河床の掘り下げを行い、枝川と申川は廃川にした。阪神電鉄は両廃川敷地の払い下げを受け、スポーツ・レジャー施設を建設する計画を立て、野球場、遊園地、プールなどを次づきと開業した。最初に完成したのが野球場で、1924年(大正13)、すなわち甲子(きのえね)の年に完成したので甲子園球場と名づけられた。野球場への観客の輸送のために、阪神本線には甲子園駅が設けられた。さらに、廃川跡には砂利運搬線が敷かれていて、これを改修のうえ、旅客線に転用した。それが甲子園線で、1926年(大正15)に甲子園~浜甲子園が開業、そして1928年に甲子園~上甲子園が開業し国道線とつながった。

甲子園は、阪神間の行楽地として大いに賑わいを見せ、甲子園線はその足として多く利用され、一時は2両運転もするなど賑わいを見せた。さらに高度成長期には、沿線に良質な住宅地や大規模団地も開発され、乗客増につながった。廃止前でも、平日ラッシュ時4~5分ヘッド、日中12分ヘッドで運転され、休日には行楽の足として賑わいを見せ、時には臨時電車も運転されたが、国道線の廃止に合わせて、1975年(昭和50)5月6日に廃止された。昭和10年発行の地図に見る甲子園。中央に「野球場」が見え、その上に阪神本線の甲子園駅があり、それと交差して南北に縦断するのが、昭和3年に開通した甲子園線。野球場の付近には、まだ廃川跡の面影が見て取れる。閑静な街並みに、優美な“金魚鉢”がよく似合う。この道路・軌道もかつての枝川の跡地に敷設されていて、家並みに残る松並木に、その面影が見える。甲子園三番町上甲子園を出た電車は左にカーブし、阪神本線の直下にある甲子園駅に入る。甲子園駅のホームから、入線して来る電車を見る。甲子園駅では、ほぼ乗客が入れ替わり、本線に乗り換える。浜甲子園方面から甲子園駅に入って来る電車。背後に甲子園球場が迫る。

 

 “アレ”にちなんで 阪神軌道線と甲子園球場 ②」への4件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    古地図を拝見しますと(甲子園)野球場の北に甲陽中学という学校があります。阪神タイガースのダイナマイト打線の中核、別当、藤村、土井垣の中で別当薫はこの甲陽中学から慶応大学を経て阪神に入団しています。4番の藤村冨美男は広島呉港中学から、土井垣武は鳥取米子中学から阪神入りしています。土井垣は最後は阪急に移籍しましたので本物を見ています。ところで私には縁がありませんが、兵庫県では灘、甲陽、六甲が難関校として今も有名です。別当はインテリで、ハンサムで奥さんはミス神戸でした。眼鏡のコマーシャルにもよく出ていました。藤村は巨人の川上哲治のライバルで物干しざおと言われたバットが有名でした。巨人の長嶋、阪神の村山よりもう少し前の時代のことですから超化石人間の話としてお若い方、お許しください。1969.2.18 甲子園線の71号金魚鉢を貼らせていただきます。

  2. 総本家様 過日は大変お世話になりました。改めて御礼申し上げます。
    幼稚園時代、また大学の4年間は久寿川今津間の線路沿いに住んでました。甲子園線の想い出はかろうじて残ってます。廃園になった阪神パークにレオポン ライオンとトラ?のあいの子を見に行ったことを覚えています。
     芦屋と打出の間の線路沿いにマンション11イレブンがありました。そうです、名投手村山さんの所有、お住いだったマンションです。学生時代にはまだあったと記憶してます。
     よもやま話ですみません。またよろしくお願いします。

  3. 準特急さま おとりんさま
    昔のタイガースの選手名が出ましたので虎キチの家内に聞いてみたところ、さすがに聞いたことはあるが、これも虎キチの義母の時代の選手だろうといいます。家内によると当時実家が衣笠(立命館大学衣笠キャンパスの傍)にあり、近くに土井垣武氏が住んでいて、買い物に付いて行った際に土居垣邸の前を通ると、義母が必ず「昔の阪神の選手やった人や」と耳にタコができるほど聞かされたので覚えているようです。
    私自身はサッパリわかりませんが、「アレ」繋がりの話題ということでご容赦願います。

    • 1900生様
      そうですか。土井垣武氏は最後は阪急に移籍しました。阪急のエースで背が186cmあった梶本隆夫氏とバッテリーを組むと土井垣氏は164㎝の豆タンクのような体つきで奇妙な組み合わせを感じたものです。梶本氏は地味な球団阪急一筋であまり有名ではありませんが名球会入りした人です。私は梶本氏と一緒に写真を撮ったことがあります。ついでに村山実氏は仁川駅前の銀行でのサイン会で見ています。また、阪急宝塚駅前では中学生でしたが共同募金の係を担当していた時に吉田義男氏が通りかかり声をかけたところ募金をしてもらいました。遠い昔の話で毎度恐縮ですが1900生さんから衣笠に土井垣氏が住んでいた話を聞き嬉しくなって余計な話をさせていただきました。おとりんさんこういう人間もおりますのでごめんなさい。あそうそう京王プラザホテルでは当時の金本選手とも写真を撮っています。

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